時雨と紅葉。
七話 黒い瞳と素顔
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(さっきの客も『ヘン』だった。こいつも、『ヘン』)
『ヘン』なやつばっかりだなあ、と、時雨はワイングラスを片手に女の話を聞いているようで全く聞かずに考える。仕事はじめから時雨が視線の先に捕えるのは、女の目元ばかり。
「時雨、今日はどうしたの? 仕事やる気満々、いつもの態度がうそみたい」
光沢のあるソファにお行儀よく座った客が、どこか上機嫌に笑う。先ほど相手にしていた客からもそういわれたが、どちらかといえばいつにもましてやる気はない。目の前の女をどう狩るかではなく、どうでもいい別のことばかりで頭を働かせている。
しばらく考えて、視線のせいだという結論に至った。……確かに、あまり客の方を見ることはしないかもしれない。今日はひたすら目元――の奥にある人工的な双眸ばかりを見ているから、なぜかほどよく客の機嫌を取れているらしい。
「あー、まー、いつも通りだと思うけど」
「えーうっそだあ」
薄い布地を纏ったからだがすり寄ってくる。男で子どもでまだ十分にからだができあがっていないあきよりも、ずっとやわらかい肉の乗ったそれ。面倒だが最低限の接客はしなければならないので、そのまま放っておいた。時雨の場合は、これだけで既に十分な接客になる。
上目遣いをしてくるこげ茶色の大きな黒目を覗く。日本人顔の女には似合わないそれは、おそらくカラコンであろう。ただ、その用途はあきと真逆である。
(普通こういう使い方だろーな)
華やかさを添えた目元が、薄暗い店内を照らす光に照らされている。さっきの客も似たようなものをつけていた。
なんで黒目はいやなの――そう訊いてみようとして、思いとどまった。さすがにデリカシーがなさすぎるからである。でも、どうして目元を茶色にするのか、黒色にするのか、時雨にはわからない。
「時雨さん、ちょっといいっすかね……」
「えー? 時雨今きたばっかりなのに、もう行っちゃうのー?」
駄々をこねる女を、後で(戻ってこれたらの話だが)戻ってくる、と声をかけて席を立った。次の客はさて何色の瞳をしているだろうか。月曜日ということだけあって、その日時雨を指名した客はいつもよりもやや多かった。おかげで時雨はたくさんの人工的な瞳を見てはなぜか喜ばれてきたが、――どうやらきれいなヘーゼルアイを黒いカラコンで隠すといった酔狂なことをしているのは、あきひとりくらいらしかった。
休憩中先月も先々月もナンバーワンらしい男に「今日はやる気あるんだな、お疲れさん」という嫌味をいわれ、リョウタには「今日すっげえ時雨さん評判いいじゃないっすか」と尻尾を振られたが、どれもこれも左から右へ聞き流す。
時雨の生きる夜の街は、今日も一段と騒がしい。
こんなつまらない分析などしていないで、さっさと替えの黒いカラコンと目薬を買い与えてやればいい。しかし時雨は、どうしてかそれを躊躇した。あきはおそらくカラコンをどうやって入手するかを知らない、だから何か月も同じカラコンをつけ続けて過ごすしかなかったのだろう。
時雨が調達してやらなければ、あきはあの吸い込まれるようなヘーゼルの瞳で生活するしかない。それでいいと、なんとなく思った。
時雨は朝方の帰り道、ドラッグストアを素通りした。もちろん、開店前だったことを言い訳にして。
*
面倒なことは、面倒なときにこそ続くものだと、時雨はつくづく思った。
さんざん働いてアフターまで客に付き合ったため、朝の身支度が始まったような時間に自宅へ着いた。
いつもあきは馬鹿正直に重そうな瞼をこすりながらも時雨の姿を見にのそのそ寄ってきて、そうかと思ったらキッチンへ入っていき、卵を割る不器用な音を響かせる。時雨は気だるいからだをソファに放り出して、あまり代わり映えのしない朝食を待つ。
しかしその日帰ると、小さなその姿は玄関先に現れなかった。一瞬のいやな予感をよそに、ソファで身じろぐ音は聞こえたので、脱走はしていない。
(まだ拗ねてやがんのか)
自分の瞳をいやがって、あきは昨日以降あまり時雨に近づいてこなくなっていた。あほくさい、と思いながらもカラコンを買ってやるつもりはないので、無視して寝室へ直行した。つい何週間か前まで当たり前のようにしてきた行動だったのに、あのヘタクソないつもの朝食を抜くと、妙に腹が減ってくる。時雨はそんなからだの変化や一抹の寂しさに気づかないふりをして、瞼を閉じた。
そうして次に起きたのは、ものすごい力で布団を剝がされた午後。
あきが三人たかってもできそうにないような強さで一瞬のうちに時雨の上からなくなったぬくもりに、不機嫌そうにからだを起こすと、目の前にはそれを凌ぐ不機嫌さを隠そうともしない茉優がこちらを見下ろしていた。
「あんたの子ども、死にそうなんだけど」
よくそんなグースカ寝てられんね。
時雨を出迎えようとのぼせ上ったみたいなからだを動かそうとして、ソファとパジャマが擦れたようなあの音が出たことに、ようやく気づいた。
あのピュアで純粋でどこか抜けている天然が、いくら自分のコンプレックスとはいえ、いつまでも裸の瞳でいなければいけないことをひとのせいにするはずがない。時雨は起き上がって、リビングへと向かおうとしたが、「香水臭いから風呂入って」と茉優の許しがでなかった。
時雨は自衛隊員も顔負けの素早さで脱衣所を出た。
時雨が風呂に入っている間に運ばれた掛布団は、ソファにぐったりと横たわったあきのからだを覆うようにすっぽりと包んでいた。誰にも興味を示さない時雨にとって、だれかの体調の変化など考えたこともないのだが、目の前のあきはたしかに熱っぽい様子で目を閉じていた。
「嘘だろ。こいつ豪雨に晒されてもケロッとしてたぞ」
「ろくに世話してないんだからいつ死んでもおかしくないわよ」
今日の茉優は鋭い皮肉を隠そうともしない。邪魔といわんばかりに背中を叩かれて、茉優はあっという間に立ち尽くす時雨とあきとの間に入っていく。ちょっと前に用意をしたらしい、白い湯気の立ったおかゆを差し出したが、からだからすべてに対する抵抗力を失ってしまったらしい子どもは、ゆるやかに首を振るだけだった。
あの、食い物に目がない欠食児童が。口に物を入れることを拒否している。
そのとき時雨は本気で、目の前の細っこいからだがぱたりと動かなくなるのではないかと思った。そうしてすこしだけ、こわいような気持ちになる。
「水は」
「さっき飲ませたよ……おかゆも無理だった。卵なのになあ」
仕方なさそうに、顔を背けたあきをよそに茉優が去っていく。
寒いのか、布団にずるずると頭まで入っていこうとするあきのやや赤みを帯びた顔を見た。表情はいつもと同じ能面のはずなのに、顔色だけが悪そうなそれを見て――不意に、これが人形でもなんでもないことに気づく。
たしかに、欠食児童だったこいつが、ものを口にすることを億劫に思うというのは、からだが異常事態を示している証拠だ。ものを食べなくなれば、人形でもなんでもないこの少年はきっと、いとも簡単に死ぬだろう。
時雨は風呂上がりでやや湿った手を、布団の隙間から差し入れた。むわっとして蒸し風呂みたいなぬくもり。尋常でなく熱い肌に触れると、あきのからだがピクリと揺れた。きっと今の時雨の手のひらは、氷みたいに冷たかったのだろう。
薄目を開いたあきと、目が合う。やや濁った色の不思議なヘーゼルアイが、上目遣いに時雨を見上げた。
キッチンで、食器をゆすぐ音が耳に入る。時雨はあきの肌に触れたまま、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。すると、ふとんの中がもぞもぞと動いて、時雨のてのひらはあきの燃えるように熱い両手に捕まった。
いつもに増してか弱い指先が、おもむろにコミュニケーションをはかってくる。
――あつい。ふとん、やだ。
「あついのはお前だよ」
いやいやと首を振って、時雨の片手はあきのからだに包まれた。湿った体温に包まれる。
「時雨、ちょっと手伝いなさいよ!」
キッチンから不機嫌そうな声が飛んでくる。時雨は、振り払えばたやすく自分の自由になるはずの片手をそのままに、「今、無理」と返事をした。
まるで苦しげなうめき声にも似た荒い息づかいが、時雨の全身を支配する。
弱い、弱いとは思っていたが、この子どもは、ほんとうに弱い。まるで子猫のように、からだに不調をきたせばみるみるうちに弱っていく。
本当に、弱い。
――しぐれ、おでかけ、しない?
「ここにいる」
薄目から覗く不思議な色の双眸が、やや驚いたようにゆるく活目して、それから安心したようにまぶたを閉じた。伏せられた長いまつげが、寒さからか、からだの火照りからか、小刻みに震えている。普段から悪い顔色がやつれているせいでもっとひどいというのに、よく出来た一枚の絵のようだった。