時雨と紅葉。
七話 黒い瞳と素顔
20
「気分じゃない」
リビングではなく直接寝室にルリを招いたのは、ソファに小さな住人がいるからに他ならなかったが、招待されたルリの方は別の意味に受け取ったらしい。大方がダブルベッドで埋め尽くされた殺風景な寝室の扉が閉まるや否や、からだをぴたりとくっつけてきたルリを、そう一蹴する。
どうやらルリは寝室に招かれたイコールセックスする準備はできているという風にとったらしい。不満げに眉を潜めて「どうしたの?」と問う。
ルリの訝しげな様子は、ごもっともである。つい数か月前まで、時雨が女を部屋に入れてやることなどひとつしかなかったからだ。ルリは忠実にもその方針に乗っとっただけである。
「じゃあいつならいいの? 最近全然連絡してこないじゃない」
「別に……ノらないだけ」
「ええー?」
不服なのは、煮え切らない様子に加え、最近ぱったりと連絡がこなくなったことも起因しているのだろう。ルリはすべすべとしたきれいな足を惜しげもなくさらしながら、ベッドの縁に腰を下ろした。
それでも無理矢理その気にさせようなどという気はさらさらないらしい。時雨はルリの、こういう物わかりがいいところを、客だった時代から気に入っていた。
「じゃあ時雨はなにもないまま帰れと? ひどおーい」
ひどい、と連呼するルリを無視して、時雨は充電器にさしっぱなしにしたまま朝から放っておいた携帯を操作する。たしかにルリから今日行くという旨の連絡が入っていた。
「ただでさえ二か月ぶりくらいなのに。時雨夏あたりから全然連絡よこさないんだもん」
「……忙しいんだよ」
ホストに……というよりも適当に仕事していても金が入ってくるホストの時雨に、忙しいもくそもないのだけど。面倒、という感情を隠そうとしない、やや冷めたその声色に、ルリがそれ以上不満を重ねることはなかった。茉優ほどではないもののそれなりに時雨との付き合いが長いルリは、やはりそれなりに利口なのである。許容範囲をわきまえたその態度に、時雨はやや態度を軟化した。
「ねえ、時雨」
「なに」
「訊いてもいい? ……あの子、だれ? 前来たときはいなかったわよね。身内?」
返答の代わりが沈黙になったのは、ただのセフレであるルリにするにはあまりにも説明が面倒だと感じたから。
「ま、そんなもん」
ふーん。と、ルリがなんでもなさそうにいった。
飛んだ女を追ったらその子どもが家にいて、オーナーに押しつけられた。しかもオーナーは未だに子どもをどう処理するか決めかねているらしく頑なに時雨と話をすることから逃げ惑っている――そんなに面倒な話でもないのだが、なんとなくあきのことを話すのは億劫だった。
(おかしなことしやがって……)
ルリを寝室に招く前、玄関口での突拍子もないその行動。気を遣うというにはあまりに不自然過ぎて、なにも考えてないにしては神妙な、あの去り方。今まで見せなかった行動に、謎が深まる。
気づくとあきのことを考えている自分に、嫌気がさす。
どうでもいいと一蹴しようとするのに、小さな予感がよぎる。
どう考えても昼間の稼ぎで補えるはずのない額を、長い間ホストクラブで使っていた女。そんな女の子どもだ、――変に偏った知識が身についていてもおかしくはない。おそらく、時雨とルリとの関係性をある程度理解したのだろう。だから、あんなわざとらしい装いを見せたのだろう。
ガキが、ヘンな癖つけやがって。と、妙な胸糞悪さが広がる。つくづく不幸で、どうしようもない育ち方をした子どもだ。
気乗りしない――というのはほんとうだった。時雨は夏あたりから、これまで人並みどころかおそらくそれ以上を持ち合わせていた性欲が、あっという間に衰えていくのを感じていた。とにかく、『気分じゃない』のだ。
二十代後半にさしかかる頃だが、まだそんな年でもないはず。それなのに、今まで冷え切っていた心がますます冷たくなっていくのを感じた。以来時雨は、どんなに好みの女も抱く気にはならなかった。
じゃあいつ気分が乗るのよ、そんな風に催促こそしないものの目で訴えてくる利口な女をフルシカトして、玄関口まで送る。ルリは最後まで余裕そうに笑っていたが、帰るときだけは残念そうな声を漏らした。
「じゃあね、身内の子にもよろしくー」
お世辞か嫌味か――すれすれのことばを最後に、ルリの姿は玄関の向こうへと消えた。やっと面倒くさいもんを追っ払ったといわんばかりにため息を吐いて、時雨は寝室ではなく当たり前のようにリビングへと戻る。ルリをリビングに案内しなかったのは、ひとえに迂闊にあきのことを詮索されたくなかっただけのことであった。
踵を返して寝室――ではなくリビングへ戻ったのは、なんとなくソファの住人に子どもがいらん気遣いをするなと文句をいいたくなったからだった。ルリの登場で、すっかり寝たいという欲求もどこかへ行ってしまった。
「ルリ帰ったぞ。……おまえさあ、」
空気がぐっと冷たくなる頃だ。暖房を入れててもなお、あきはやはりフローリングを好まずソファ上で座り込んでいる。入口からだと背もたれにおおよそが隠されたその影は、うつむきがちになったまま両手で目をこすっている。
「あき?」
ぴくりと、顔がこちらを向いた。けれど顔は斜め下に向けられているため、その表情は読み取れない。どうせ能面だが。
それにしてもおかしな様子のあきに近づくと、影はまたピクリと肩を跳ねさせた。時雨から距離を取るようにからだをずりずりと膝でからだを後退させる。しかし時雨は、目をこするあきの手のひらが――激しい秋雨に打たれたみたいに濡れていることに気づく。
とっさに掴もうと思ったその手は、ひらりと身を翻した。いつか見たあのすばしっこさで、瞬く間にソファを下りたあきが、脱衣所の方へ駆けて行く。
「待て……こら!」
けれど、顔を背けた瞬間、長めの前髪の隙間から、時雨はあきを見た。――ソファに面したカーテンがやわらかく光を入れたあきの、双眸を。素早いそれを追いかける。
あきのすばしっこさは、単純にのっぺりとした普段の所作とのギャップから来ている。つまり、こちらが注意深く捕まえればどうということはないわけで、時雨は逃げるあきのからだを簡単に捕獲する。
頑なに顔を見せることを拒否しようと暴れる両腕を、片手で捕まえる。
「諦めな、リーチが違うんだよ」
もう片っぽの手で、少々乱暴にあきの前髪を引っ掴む。そのままぐっと引っ張り上げた。ようやく露になったあきの目からは、未だにポロポロと涙が出続ける。きゅう、と閉じたままの目。
しばらくすると、仕方なさそうに、涙で濡れた睫毛がゆっくりと開かれる。
見間違いではなかった――涙でぐしゃぐしゃに歪んだ瞳を晒したことで、時雨ははじめて目の当たりにしたあきの素顔に、おどろいたような、しかし納得したような不思議な気持ちになった。
最初から、違和感があった。日本人離れした造形美の中に、まるで異物のようにはまった瞳の色に。まるで絶対にはまらないパズルのピースを無理矢理押し込んだような黒塗りの瞳。
(うそだったってわけ、ね)
いやだといわんばかりに暴れる手首をねじ伏せて、涙でぐしゃぐしゃになった顔を覗きこむ。
「――へえ」
いたくて堪らないというような、それでいてなにするのと不満げなその瞳に宿るのは――やや色素の薄いヘーゼル。ブラウンというよりも、今はやや緑色を帯びている。妙に納得したのは、その瞳の色があきの容姿にすっきりとはまったから。
近くで見ても、すこしも粗のない透き通った肌が、しっとりと濡れている。そこに、こすったせいで抜けた長い睫毛と髪の毛とが張りついている。
しげしげとその表情を見下ろしていたせいでやや緩やかになった拘束に、子どものからだはすぐに反応した。時雨の腕から無理矢理引っこ抜いた両手が、自分の両目をぎゅう、と塞ぐ。
「おまえさ、いたいんだろ……目」
「……」
「で、カラコンに使用期限があるのは知ってる? し、よ、う、き、げ、ん」
両目を隠したまま、棒立ちになったからだが横に倒される。さしずめ、なんだそれは、といったところであろう。
「なんでそんなもんしてたのかは知らねーけど、期限以上使ったら普通に失明するからね。目、見えなくなるわけ」
少なくとも、あきがこちらに来てからの一か月半、目立ってカラコンのつけ外しをしていた様子は見られない。長く使えるもんをつけてたとしても一か月は経っているし、そもそもこいつに一か月用のカラコンなんて与えられてるか?
(……与える、か)
まるで浮世離れした容姿をすこしでも覆い隠そうとするかのようにはめられた、黒のカラコン。こいつが自分でそんなもんを発掘できるとは思えないとすると、与えたのは母親であろうか。
なんとなく状況が読めてしまって、つくづくヘンなもんに育てられたもんだと、時雨は目の前で両目を覆いつつからだを斜めに向けたままのヘンな子どもを見ながら思った。
目は相当いたいらしく、覆った隙間から出る涙はまだ止まりそうにない。時雨は携帯を開けて、手早く「カラコン 痛い 対処」で検索をかけた。
「あー……おまえ目薬とか持ってねえよなあ。ちょっと待ってろ、近くで買ってくるから」
カラコンをつけているくせして目薬をさしたことがない――目をおかしくしなかったのはどう考えても奇跡というこの状況下、それでもばかな子どもは、目薬をさすのをかなり嫌がった。買ってきた目薬を手に持たせても(時雨に目を見られたくないのは変わらないらしく、片手で両目をガードしていた)意味不明といった態度を取られたので、仕方なくさしてやろうとすると、これまたなにすんの、といわんばかりに暴れた。漁に引っかかった魚みたいに。水が垂れてくる感覚に耐えきれないらしく液が入るすんでのところで瞼を閉じ、目薬を何十滴と無駄にされたところで、元々沸点の低い時雨が静かにキレて、強制的にさしたことにより決着がついた。どうしたってあきはおとなの体格に勝てない。
「疲れた……」
痛みが引いてきたあきがけろりとソファで座っているのに対し、隣の時雨はどっと疲れてだらんと腰を下ろしている。目薬は今度から自分でさすように、と、あきに渡した。そもそも替えのコンタクトを買ってやるつもりはないので、もう用済みになるだろうが。
(今から仕事とかありえねえ)
ちらりと、あきに目をやる。わずかに視線をずらして見ただけだというのに、勘のいいあきはすぐに気づいて、その視線から逃れるように体育座りのまま背を向ける。
「……なんで見せたくないわけ?」
のそのそとそばのスケッチブックを取ったあきが、なにかを書きはじめる。
『おかあさんが、してって。へんで、ういてるから、って』
平仮名だらけの汚い字。内容の方は、まあ、予想はしていたが。
「あ、そ。じゃ、いっとくけどおまえ、カラコンしてた方がヘンだぞ」
母親のいったらしい『ヘン』は、ごく一般的な日本人の容姿と比べて、のことであろう。そういう解釈なら、正直外人の血が濃いであろうあきの容姿は頭のてっぺんからつま先まで、『ヘン』である。しかし時雨は、素知らぬ顔で母親のいう意味を、その容姿で黒いカラコンは逆に浮いているという意味の『ヘン』にすり替えた。
あきは気づいた様子もなく、おどろいたように時雨の方を向く。鴉のような黒々とした時雨の瞳とは違い、あきのそれは中心へ向かってグリーンが濃くなる、吸い込まれそうな色をしている。
(黙ってりゃ、外人の子どもだな)
『ほんとう?』
「あー……まあ。ヘンだな。こっちの方が、俺はしっくりくるけど」
『でも、ぼくはこの色、きらい』
――おとうさんの色だから。
うんやいいえのジェスチャーでは伝えきれない、手のひらを使っても難しい――最後の砦にしてそこでも最低限の会話にしか使おうとしないスケッチブックに、あきはその日堰を切ったようにたくさんのことばを書いた。
『おとうさんじゃなくて、おかあさんから目の色がほしかった』
『きっと、そうしたら、おかあさんはぼくをきらいにならなかった』
『おかあさんはおとうさんがきらいになっちゃったから、同じ目の色のぼくのこともきらいになったのかな』
最後はクエスチョンマークで、時雨に問いかけられていた。時雨は「知らねえよ」とぶっきらぼうにいい放って、ほかならぬ父親が与えたであろう栗色の髪の毛をくしゃくしゃに撫でた。