時雨と紅葉。

六話 公園とスケッチブック

19

 野分みたいに、突然、当たり前になったように錯覚していたあきと時雨との空間にそのひとはきた。あっという間に十月が過ぎようとする、紅葉の頃。


 明るくなった時雨のマンションから見渡す景色は、そのおおよそがぎゅうぎゅうひしめいている住宅の屋根で溢れているが、空との境目あたりに見える山はところどころが色づいている。

 

 時雨とはじめてスケッチブックでコミュニケーションを取ったあの公園は、紅葉や銀杏のカラフルな雨が降っているのだろう。そして、地面には落ち葉のじゅうたんが引かれている。あきは、だいすきな季節を想像して、心が躍る。

 

(時雨はきっといいっていうと思うけど……)

 

 次にまた帰れなくなるのは、こわい。このあたりは、住宅街らしく似たようなブロックで区切られた家々が四方に続いているから、すぐに自分がどこから来たのかわからなくなってしまう。

 方向音痴な自分に言い訳をしながら、あきはレースカーテンの隙間から飽きることなく外を見下ろす。

 

(時雨にいってみようかなあ。……今、ぐっすりだけど)

 

 いつもよりも甘ったるくくさい匂いをぷんぷんさせてきた時雨は、早々にシャワーを浴び、目玉焼き丼を食べて、自室へ倒れにいってしまった。気分がいいときにはソファに来て一緒に過ごしてから眠りに行ってくれるのだけど、今日はだめな日だったようだ。ごめん、ということばこそ口にしなかったものの、ぽん、と宥めるように、疲れ切った片手があきの頭を撫でていった。

 

(おつかれ、だからなあ)

 

 今起こして公園にいってくる、っていうのは、ちょっとなあ。
 でも、ひまだなあ。

 

 引きこもり状態のあきにとって、時間がたっぷりと使えるわりに、寝る以外の楽しみといえば時雨にたまごを(半ば強制的に)食べさせるくらい。要は、時雨が寝室に籠れば籠るだけこちとらひまなのである。

 

 黒々と不自然な目はパチパチ開いているが、うたたねをしてしまえば時雨が起きるまでの時間がずっと早く感じる。ソファに寝っ転がってみようか……なんて、贅沢なことを考え、張りついていた窓から移動したとき、インターフォンが鳴った。

 

(リョウタだ)

 

 反射的に、そう思った。あきの細く脆い思考回路が、時雨は部屋、茉優は鍵を持っている、残る来訪者はあのお調子者だけどなぜかそばにいたくなる――リョウタしかいない。まるで自分のひまを攫うかのようなその音につられるようにして、ソファにかけていた足を離した。

 

 玄関に向かって立つ、リョウタを迎え入れる準備はできた。

 しかし、鍵を外したあきの前に扉越しに現れたその姿は、ツンツンしたリョウタのよりも艶やかなロングの髪の毛、あきの影を覆うそれよりもしなやかなラインが浮き出たからだ、きわめつけには――「あら……」なんていう、男のリョウタよりも一オクターブは高いであろう細い声。

 

 人口的な、くらくらと濃いにおいと、見たことのないその姿に、無抵抗にもあっさりとあきの腰は抜けた。尻もちをついたら、仕事終わりに履いて帰ってきたらしいツルツルした時雨の靴を踏んづけた。

 

 肌に溶けるような薄いベージュ色の口紅が引かれたそこは、しかし、とてもやさしく弧を描いた。あ、と思った矢先、ミニスカートの中を器用に隠ししゃがみ込んだそのひとが、小さなあきと目線を合わせてにこりと笑う。

 

「こんにちは」

 

 こくりと、頷く。こんにちは、の合図。
 はじめて出会ったはずのそのひとにわかるわけない。

 

「えーっと……きみはどこの子かしら? ここは、時雨の家だと思ったんだけど……」

 

 時雨の、ともだち?

 ……スケッチブック持っていないから、このひとと、お話ができないよ。

 

 あきはうなだれた。それに、はじめて出会うひとはみんなこわい。やや厚めに塗られたファンデーションや、引かれた口紅、ストレートの髪の毛、そしてくるりと睫毛の上がった目元――そういう女性的な部分は、どこか母親を彷彿とさせる。

 

 しかしそのひとの表情は、あきがどんなに視線を左右に彷徨わせてもじもじしていても、怒りに変わることなく鷹揚に笑んでいた。

 

「来るなら連絡しろよ」

 

 そんな奇妙なふたりの間を遮ったのは、「寝起きです」といわんばかりに後ろからスウェットで歩いてきた時雨である。起き抜けの髪の毛が、いつも仕事に行くときよりも乱れていた。

 

 尻もちをついたままのあきを片手で持ち上げて、人形よろしく容易く立たせる。ぽかんとしたまま、(いつ起きた)と時雨を見た。目の前のひとは、あきが立ち上がる(というよりも立たされる)のに合わせて、姿勢を戻した。

 

「久しぶり、時雨。携帯に連絡入れたけど、気づかなかった?」
「この時間寝てるだろーが……」

 

 そうだったそうだった、軽くいって、そのひとはパンプスを脱ぎ捨てあっという間に部屋へと上がり込む。その右手に、一本の鍵が握られていることに、あきは気づいていた。

 

(いつか、リョウタが、いってた。ここに入れる女のひとは、ふたりだって)

 

 お母さんに似ているような似ていないような、このひとは、そのうちのひとりだ。あきはすぐにピンときた。あとひとりは誰だろう……考えて、いつも時雨ではなく自分にばかり構ってくれる上、あまり女性らしい素振りを見せない茉優のことを、すっかり失念していたことに気づく。

 

 時雨に絡みつくしなやかな腕を見上げてから、しまった、と慌ててリビングの住処へと駆け出した。

 

 ――なに見てんのよ、気持ち悪いわね。早く戻りなさい!

 

 しらけるような組み敷く方の視線と、罵倒してくるお母さんの叫び声。思い出した、ぼくはここにいちゃいけないんだった。だって……。

 

「あらら、どうしたのかしら?」
「さあな。あいつ野良猫レベルの人見知りだから」
「へえー……」

 

 時雨のところにお母さんみたいなひとがくるのは、おかしくない。あきは呪文みたいに唱えた。だってリョウタのところにもたくさん来た。でも最後にそのひとが帰ってから、リョウタはぼくのところに戻ってきてくれた。仕事だからって。

 

(だから、いいの)

 

 それに――、

 

『こんにちは』

 

 あのひとはぼくに目線を合わせてくれた、……お母さんみたいなひとじゃない。

 

(あれ……い、たい)

 

 ソファに寝っ転がりながら、目をこすった。そうしたら、なにかがポロポロと溢れ出る。いたみを感じて、あきは何度も指で目の周りを拭う。

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