時雨と紅葉。

六話 公園とスケッチブック

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 すっかり冷めたコーヒーカップを置こうとからだを前のめりにしただけだったのに、なにしてんだどこ行くんだといわんばかりに首っ玉を引っ掴まれて元の位置に戻された。力加減を知らない時雨のせいで一瞬首が締まった。手はすぐに離れて、首元の代わりにあきのからだを逃がさんとばかりに捕まえている。

 

(寝てるのに……起きてる)

 

 深く睫毛を伏せて熟睡する時雨を見上げる。それなのに、さっきからあきが身じろぎをすると目は閉じたままなのに手が伸びて自由を妨げてくる。別に逃げようとしているわけではないのに、……不本意だ。

 

 そんな風に思っている間に、時雨から伝染した眠気に誘われて船を漕ぎはじめると、座ったままの体勢で眠るのは存外難しく、あきのからだはころんと時雨に寄りかかる。そうして、慌ただしい一日は颯爽と流れていった。

 

「い……――おい」
「……っ」

 

 おい、だの、起きろ、だの、何度も夢の中に聞こえてくるのに、意識がなかなか浮上しなかったのは、時雨がなまえを呼ばないせいだ。……しつこいから、起きてしまったけれど。

 

 いつの間にか隣で寝こけていたはずの時雨のからだはなくなっていたから、あきのからだはへんな風に横に倒れていた。時雨のストッパーがなくなったせいで、足に対して真横にからだを曲げて眠ったから、からだがいたい。

 

 いつ起きたのかはわからないが、時雨はすっかり身支度を整えてしまっている。そう……なぜか上着まで着ている。

 

 ぽかんとしていると、時雨が洗濯終わりらしいさわやかな香りを纏ったあきの服をソファに置いてきた。ジーンズと、薄いシャツと上着、クツシタ。寝ぼけ気味のせいでいつもよりぼうっと締まりのない顔をして時雨を見上げたあきは、「着替えろ」といわれていそいそと大きな時雨の服を脱ぎ出す。

 

「出かけるぞ、今日は仕事だから夕方までには帰る」

 

 そんなこといわれたのなんて、はじめてで。なんだか不思議な音の重なりに、あきのからだはひとたび硬直して、なにをいわれたのかわかるとすこしだけ心が弾んだ。

 

(おでかけ、……時雨とおでかけ)

 

 あきは自分でしばらく自分の感情に気づけなかった。しかし不意に気づいた、しばらく何事にも無関心になっていた心に芽生えた、うれしいという感情に。

 夜通し穏やかに降り続いた雨が上がって、レースカーテンの隙間から見えた住宅街の街並みは、残った雨水に太陽の光が反射してキラキラと眩しい。

 

 上着を羽織っても季節にそぐわないさもしい様相のあきに対し、時雨はしかめっ面でまずは服かと呟いた。時雨の手を捕まえて寒くない、といってみたが、これからもっと寒くなるの、わかってる? おまえ去年も日本いたでしょ? 馬鹿? と一蹴されてしまった。

 

 あきはまだ、時雨が自分の感情をストレートに出しはじめてきたことにあまりピンと来ていなかったので、ひそかに(ひどい……ばかっていわれた)とムッとしたりもした。

 

「ま、その前に飯行くぞ」

 

(……たまご!)

 

「たまには卵以外。……行くぞ」

 

 即座にキッチンへ行こうとしたあきはストップをかけられて、あっという間にマンションから連れ出された。昨日ひとりで家を出たときは曇天に雨という冴えない天気だったというのに、時雨とふたりで出た外はからっと晴れわたっている。

 

 ぼうっと空を見上げていたら、いつの間にか鍵をかけた時雨に、「どんくさいやつ」とまた悪口をいわれた。

 

 

 

     *

 

 

 

 時雨があきを連れてきたのは、電車で数駅のぼった駅前にある大きなショッピングモールだった。もちろんあきがその駅に降りるのははじめてのことだったので、物珍しそうに辺りを見回す。住宅街か、学校か、家か、……そんな場所しか知らなかったあきにとって、平日といえどひとに溢れたショッピングモール内は目が回りそうになる。

 

 慣れ顔で(あきにはそう見えるだけで、時雨にとっては普通の表情かもしれないが)モール内を歩きはじめる時雨に、あきは懸命についていく。しかし壊滅的に色んなことが不器用なあきには、ひとの波をかきわけることも難しいらしく、時雨はそのスピードに合わせるのにやや苛立っていた。

 遅い、とか、のろい、とかいいながら低速で歩く時雨に、あきはちょこちょこついていく。何人ものひととすれ違うのが、なんだか不思議だった。

 

 近くのファミレスで腹ごしらえをして(メニューを見て目移りしまくっていたあきをよそに、時雨が適当にハンバーグを頼んだ。持ち前の食の細さと寝起き一発目の食事ということで半分もいかないうちに残してしまった)、分厚く丈の長いコートを一着買ってもらい、百円ショップという見たこともないところで買い物をする時雨に付き合い、――ようやく最後にお待ちかねの卵をスーパーで買ってもらったときには、午後の日の光がやや弱まる頃になっていた。

 

 買ってすぐさま値札を切ってもらい羽織ったあたたかいコートに身を包んだあきが手に持っているのは、さっきまで着ていた薄い上着と卵。

 

「あー……きっついなあ、今日。朝まで寝れねーかあ」

 

 ショッピングモールから出て夕刻に差しかかった空を見上げながら、横にいた時雨が呟く。あきとは反対方向にビニール袋をぶら下げているので、遠慮なく自分の近くにある右手を捕まえて、「やすむ?」と聞いたら、「さすがに行くよ、社会なめてんなおまえ」と額を小突かれた。

 

 でも時雨、ヘンな仕事してるじゃん。

 普通の会社員は、平日に仕事にいって、夜には帰ってくるのに、時雨はたまに平日休んで、休日と夜は絶対仕事。仕事の時間的にも内容的にもどこか世間とズレていることには、鈍感なあきでもなんとなくわかっているのだ。

 

 でも、それを伝えるには手のひらコミュニケーションは役不足だ。手のひらコミュニケーションは五文字が限界である。簡易な会話しかできない。――だから、どうして昨日時雨の部屋を出たのかも、話すことができなかった。それまで自分の声が出ないことにさほど困らなかったあきが、はじめてじれったくなる。

 

「あーそれとね、これ」

 

 頑張って書いてみたら、時雨は苛立ちながらも解読してくれるかもしれない。そう思って、手のひらを捕まえようとしたら、それはいつの間にかあきのそこからなくなってしまっていた。さっき買い物をしたばかりの袋の中を漁った時雨が、あきに向けてそれを差し出す。両手で受け取って、パチパチまばたきした。

 

「手だと限界だろ。なにかあればこれに書いて、……で、字は書けるよな?」

 

 こくん、と頷いた。
 持たされたそれ――A4のスケッチブックと、半透明な橙色のシャープペンシル。

 

「あ、そ。俺ね、子ども上手じゃねえの。……母親とか父親とかになったことねえの、わかる? 昨日の脱走もそうだけど、おまえがなに考えてるか全然わかんねえのね。……まあおまえがなにか書きたいことあれば、それに書けばいいよ」

 

 抱きしめるようにギュッと握って、真っ白なページを開いた。左手に持ったシャーペンをそこに走らせようとすると、それは宙に浮いているせいかくにゃくにゃになる。それでも書こうとしていると、見かねた時雨に「座って書け」と諭された。

 

「だーかーら、今書くなって。座れる場所探すぞ。おまえは人間至上最底辺の不器用ってこと、もうちょっと自覚した方がいいよ」

 

 結局、下りの電車内は混雑していて座れなかったから、マンションのある駅まで帰ってきた。帰ってから書けばいいだろうと投げやりになった時雨をよそに、はやる気持ちを抑えきれないあきは座れそうな辺りを見回して、見つけると強引に時雨を連れてそこへと向かう。マンションに着くまでもうすこし――というところにある小さな公園。そこにたたずむベンチは、昨日から降り続いていた雨の湿り気をようやく乾かしはじめたところだった。平然と座ったあきに対し、時雨はいやな顔をする。しかし書き終わるまで帰らないつもりのあきに対し根負けしたのか、仕方なくその隣にゆっくりと腰を下ろしてきた。

 

 紅葉公園といい勝負の、寂れた公園だった。平日の夕方近くとなれば、学校を終えた小学生が遊んでいてもおかしくないというのに、人っ子ひとり見当たらない。

 

「もうちょっと歩けば部屋つくんだけど……それここじゃなきゃだめなの……?」

 

 振り子のように勢いよく頷いて、まるで絵本のページをめくる子どもみたいにスケッチブックを開いて、シャーペンを握った。

 

「あー……怪しい。おまえその握り方怪しい……学校でちゃんと習ったわけ?」

 

 今はぼくが話をするから時雨は黙ってて!

 

 ――と、書くのも時間がかかるので、無視の手段に出る。時雨は「はいはいすみません」と黙った。
 風が吹いて、冷たい空気が、シャーペンを握るあきの手や、顔中を撫でていく。十月半ばは、既に冬を彷彿とさせる寒さが訪れていた。園内では紅葉公園と同じく、紅葉や銀杏がやや色のつきはじめた葉を茂らせていた。いち早く落葉したそれらが地面を擦ってかさかさ音を立てるのを聞きながら、あきは書き終えた五文字の載るスケッチブックを時雨に見せる。

 

 時雨はへんな顔をした、ものすごく。

 

「……おまえそれ手じゃだめなの? あと、怪しいとは思ってたけどやっぱり字きったねえなあ……」

 

 どうだ、といわんばかりに真摯に時雨を見上げるあきの、儚く美しい顔立ちと、電車やバス中で書いたのかと見まがうガタガタの字は、なんともアンバランスである。

 

 あきは『ありがとう』と書かれたそれを再び膝の上に戻すと、再度その下に文字を書きはじめた。今度は異様に長かった。

 

『学校にいくどうぐをとりにいった』

 

 その下に、矢印が引っ張られている。

 

『おかあさんのアパート、かぎなかった。もどろうとしたら、まよった』

 

 もやもやとしていたものが、かき消えていく。昨日濡れた手首を引っ張られながら、時雨に伝えたくて、こっちを向いてほしくて、手のひらコミュニケーションがしたくて、でもどうしても伝わらなかったことが、やっといえる。

 

「昨日のことね。必要なものは今度揃えてやるよ」

 

 こくり、と頷いた。

 時雨は昨日みたいに苛々していなかった。あきはほっとした、またすごい剣幕で怒られるかと思っていたから。

 

「で、おまえは学校行きたいの? それとも俺が学校について話題出したから行かなきゃって考えただけ? ……なんだその煮え切らない顔は」

 

 自分の気持ちがすこしもまとまらなくて、一文字も書けないままスケッチブックに向かい合っていると、ぽん、と頭に心地よい重量の手のひらが乗ってきた。

 

「行きたいなら行けば? ……とりあえずそろそろ帰るぞ」

 

 頷いて、スケッチブックを閉じた。シャーペンは落とさないようにコートのポケットにしまう。立ち上がると、お尻が湿っていた。

 

(文字にして、書けない気持ちも、あるんだ)

 

 スケッチブックを買ってもらって、口から発することばの代わりを見つけられたと思ったけれど、まだ気持ちを伝えるには足りない。もっと時雨に自分の気持ちをしっかり伝えるには、ぼくはどうしたらいいのかな。そんなことを思いながら、歩き出す時雨の後を追った。右手にスケッチブックを持っていたから、ぶらぶらの左手を時雨の右手に近づけた。

 

 わかった、ありがとう。
 そういう手のひらコミュニケーションがしたくなったから。

 

 時雨のわずかに開いた手のひらに指を差し込んだら、小さなあきの手は時雨の右手に覆われて、できず仕舞になってしまった。

 そうやってつながれたら手のひらコミュニケーションはできないのに、どうしてか、スケッチブックよりもずっと時雨と上手に会話ができているような気がした。

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