時雨と紅葉。

五話 秋雨と苛立ち

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『そうっすかあ。見つかってよかったっすねえ……。あきも暗いし腹減って怖かったんだろうなあ』
「よかったじゃねえよ。なんでそういう思考になるんだ、怖かったのはあいつの自業自得だろ」
『いやそうっすけど……なんか思うところがあって出て行ったんでしょうし……あんま責めるの可哀想じゃないっすか』
「……あんなトロいんだ。事故に遭ってたかもしれない。……馬鹿すぎるだろ」
『事故……ま、そうっすね』

 

 電話口のリョウタの声に交じって、けたたましいBGMやひとの声がする。出勤予定を覆さず仕事場へ向かったリョウタに対し、時雨は無断欠勤である。眉を潜めたらしいオーナーにはリョウタが上手くあきの存在を使って話をつけたらしい。機転の利く男である。

 

『でも、あいつも一応十四……だっけ? 心配しすぎじゃないっすか、時雨さん。野良猫精神満載なんだから、ちょっとやそっと外にいてもなんかしぶとく生きてそうだけどなあ』

 

 ――くしゅ。

 

 小さな音が、背中に響く。リョウタへと携帯をつなげたまま振り返った時雨の視界に、だぼだぼのスウェットに身を包んだあきの姿が映った。風呂上がりで濡れた髪の毛と上気した頬――、それなのに(寒い)とばかりに、正直なからだである。

 

「なんだそれ。……あったまってきたわけ? 寒いんじゃねえの」

 

 濡れ鼠になって外に何時間もいたから、帰って早々風呂に突っ込んだわけなのだが、出てくるのが早すぎる。もう一回突っ込んでやろうかと考えたが、やめて、ベッドから持ってきた毛布を使って無抵抗でこちらを見上げてくるあきをぐるぐる巻きにした。

 

「ほら。……あと靴下も履け。俺のタンスから適当に取っていいから」

 

 両手もまとめて簀巻きにしながらいうことではなかったが、あきは従順にもこくりと頷いて、てくてくとタンスへ向かっていく。

 苛立ちはまだ、収まっていない。が、あきの姿が見つかってひと息ついたところで、だいぶ落ち着いてきてはいた。

 

「あー……もう切るぞ」
『なんか、時雨さん』
「なに?」
『ぜんぜん、らしくないっすね。あきに対して……』

 

 電話の向こうで、リョウタが薄く笑う。

 

「……知らねえ、あいつ見てると苛々すんだよ。なんか、放っておけないの。そんだけ」

 

 十分そんだけ、じゃない気もしますけど――なんていうことばが最後まで聞こえるか聞こえないかのうちに、いつものように一方的に電話を切った。

 

(にしても、あいつよく寝てないのに出勤なんかするよなあ……)

 

 売れているからほどよく好き勝手する分には寛容に見てもらえる――という自分の現状についてさほど興味のない時雨は、単純に休むことができずに出勤したリョウタをほんのすこしすごいと思う。

 あくびを噛み殺しながら、タンスの前で両手が塞がったままウロウロしているあきに靴下を履かせる。ソファに移動させて、淹れたまま放っておいたコーヒーを持たせ、厚着しているせいでもこもこしたあきの隣に腰を下ろした。

 

「両手」
「……?」
「出して……て、無理か。ほら」

 

 簀巻きにした毛布を緩めて、その隙間から両手を出させてやる。そこに、この間と同じようにまだ熱の残るマグカップを持たせた。

 

「今度は絶対飲むなよ」

 

 たっぷり入ったそれを胸元に引き寄せて、ほう、と安心したように丸くなるあき。時雨の中で暴れていた苛立ちが、だんだんと静まっていく。どういうつもりでマンションを離れてあんな公園くんだりまで行ったのかは皆目見当がつかないが、どうやら逃げようとしたわけではないらしいのは、どこか安堵したその表情でわかった。

 

 だが、――それ以上は、なにもわからない。あきの人形じみた表情は、なにかを語るには圧倒的に表情筋が足りない。両手でマグカップを持っていたら手のひらコミュニケーションができない。

 

(ま、いいか。明日考えよう)

 

 そんな風に思考が鈍くなってきたのは、急に眠気が襲ってきたからだ。時雨は昨日の夕刻仕事場へ行く前に起きてから、今まで、一睡もしていない。それまでなりを潜めていた睡眠欲が、急にむくむくと目覚めたみたいだ。

 

「な、おまえさ」

 

 あー眠い。でも、またおまえどっか行ったら面倒だ。
 時雨はぼんやりとした意識の中で、あきの肩に手を回して自分の方へと引き寄せた。近くにぽすんと傾いてきた頭頂部からは、自分の家のものであるはずなのに嗅いだことのないようなシャンプーのかおりが漂う。

 

「紅葉――」

 

 あきは素早く時雨を見上げてきた。どんな表情だったのかは、既にきつく目を閉じているおかげで見ることができない。でも、あの暗がりの公園へと迎えに行ったときのように、ひどくおどろいているような気がした。

 

「すきなの? ……手に持ってた、……公園で」

 

 わずかな沈黙ののち、あきがこくんと頷いた。まだすこしだけ濡れたままの髪の毛が、時雨の肩や鎖骨をくすぐる。しかしそんな些細な衝撃には気づくことなく、時雨は既に眠りはじめていた。

 

 窓を叩きつける雨音が、ようやくやや穏やかになってきた頃だった。

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