時雨と紅葉。

五話 秋雨と苛立ち

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 で、あきが消えた。

 

 学校が関わっているのだろうか、と時雨がまず考えたのは、単に前の日の朝にしたあきへの問いかけをシカトされたからというわけではない。ここ一週間のなかで時雨があきに問いかけたことといえばそれくらいなので、他にわけが思い当たらなかったのである。

 

 小さな子どもが居を手放した無人のマンションを前に、学校の話はするべきではなかったのかもしれないと焦る。なにも考えていないように見えても、鉄仮面の下ではグルグルと思考が回っているのだ。

 

 それは最近になって、唐突に行われる手のひらコミュニケーションや行動に、あらわれてきていたはずだ。しかし、時雨はそれを見逃していた。

 

(あー……わかりにくい)

 

 もっと単純明快な子どもでいてくれれば、良くも悪くも人間の感情に聡い自分なら気づけたはずだった。

 

 ――ところが時雨は、不意に気づいた。なぜ、自分はこんなに焦っているのか、ということに。

 

 ソファをひっくり返す勢いで捜索し、寝室のベッド下まで覗き、トイレや風呂も隈なくチェックして、――……いないとわかればわかるほど心臓がざわざわ早鐘を打っていく。

 

(つーか迷ってんだろ今頃……)

 

 野良猫かなにかのように、慣れない土地で座り込む姿が目に浮かぶ。
 子どもが知っているのは、マンションとコンビニをつなぐ道のりだけである。おまけにおそらく母親による軟禁生活が続いていた心もとないまでの外出能力の低さを鑑みると、どこかを目指して外へ出るのはあまりにも無謀だ。

 

(で、俺はなにを焦ってるんだ……)

 

 たかが、ソファに邪魔くさく居座っていた子どもがどこかへ消えただけ。のたれ死のうが、車に轢かれようが、むしろ宇宙生命体みたいに難しい子どもの世話を余儀なくされていた自分にとっては、好都合なはずである。おまけにたまごばかりを使った料理といえないものを食べさせられることもない。

 

 放っておけばいい。
 という思いとは裏腹に、時雨は手早くリョウタに連絡を入れた。

 

『あきが脱走した。たぶん迷子』

 

 リョウタからは電話で帰ってきた。が、外に出る準備をしているので振動を続けるそれを無視していたら、止んで、代わりにメールが届く。

 

『ヤバいじゃないすか すぐに探すっす』

 

 既に人気のないマンションを抜けて、時雨は冴えた空気をかき分けながら歩き出した。とりあえず――まず出向くところといえばひとつしかなかった。

 

(あいつ馬鹿だろ)

 

 ――すっかり子どものぬくもりが消えたソファには、秋はじめにリョウタが買い与えた薄い上着が無造作に置かれていた。ぜんぜん意味がわからない。あきが持っている服といえば、この上着を抜いたらあとは薄いシャツだけである。

 

 馬鹿には寒さなんてわからないってかね。

 ……てかあいつそもそも傘持ってないだろ。

 

 貧相なからだに薄い服だけをひっかけて歩く、みすぼらしい子どもの姿を探しながら、時雨は苛立つ。

 

 耳鳴りでもしてくるかのように、どこからともなく沸々と怒りが湧いてくる。時雨はしばらく、久しく怒るという感情を持っていなかった自分が、なぜかたったひとりの子どもに振り回されて苛立ちを隠せていないことに、気づかない。

 

 自分と同じくらい、……一緒に暮らしていた期間という点では自分よりもはるかにあきの生態を知らないリョウタから、かつての自宅付近にはいないと聞いたとき、時雨ははじめてそれまで真っ先にあのボロアパートへと進めていた足を止めた。そして、急に――次に目指すところがわからなくなった。

 

 リョウタとて、あのボロアパート以外の見当は全くつかないらしい。アパートでのあき不在と共に時雨の耳に届いたのは『その辺適当に探してみます』という頼りない声だった。

 

 時雨とて、アパート周辺にあきの姿がないのであれば、八方塞がりである。

 

(ここまで辿り着けずどっかで迷子……だろうな)

 

 ただ、そのどっかというのが、すこしも検討がつかない。土地勘のない小さな少年の進む方向など、想像のしようがない。しらみつぶしにその辺を歩き続けるうちに、気づけば空は赤く染まっていた。夕刻を過ぎれば、時雨やリョウタの出勤時間である。

 

 元々弱かった陽の光がさらに薄暗く翳ってきた。同時に、夜から降り続く雨がいっそう激しさを増す。長い雨に傘を差すのも疲れていたし、そもそもずいぶんな時間を歩いているおかげで足元は既に傘の意味をなしていない。

 

『どうします? あいつまじで見つからないっすよ……』
「だな」
『もしかして警察に保護されてるとかじゃないですかね。だといいんすけど……。それに、時雨さんも今日出勤っすよね……時間やばいっすよ』

 

 弱々しい声に、あまりにも確率の低い希望的観測。懺悔のような情けない声がくどくどと続けられる前に、時雨は電話を切った。四方を歩き回っているうちに、どうやら基点としていたアパートからはずいぶん離れた住宅街へと来ていた。

 

 買い物袋を荷台に詰め込んで自転車を押す母親と、明るい子どもたちと、すれ違う。日の入りの早い空は、まるで一瞬でそうなったみたいに辺りを暗くしはじめている。

 

「公園で遊びたかったよおーママ」
「だめよ、雨すごいじゃない。みんなもおうち帰ったでしょ?」
「うー……じゃあ、あしたあそぶ!」
「はいはい、明日晴れたらね」

 

 のどかな会話。そろそろこういう能天気な親子とすれ違う回数も増えてきた。しあわせそうな周りとは裏腹に、時雨は苛立ちを募らせていく――……。

 と、ふと、あの子どものことばを反芻する。

 

 ――じゃあ、あしたも……。

 

 時雨のマンション、マンションから一番近いヤンキーのいるコンビニ、そして母親と共に暮らしたボロアパート――の他に、時雨がたったひとつ知っている、子どもの行動範囲。

 

 考えるひまはなかった。

 酔っ払っていたせいでひどく曖昧になってしまった記憶を辿って、時雨は元いた道を引き返した。水たまりを踏んだが、もう何度目かわからないくらいなので、既に靴の中までい浸水している。

 

(あー……イライラする)

 

 あいつ見つけたらどうしてやろうか。

 

 いい加減疲れてきた足や減ってきた腹を無視して、時雨はまっすぐにあの――はじめてあきを見た公園を目指す。強く降りつける雨の音だけが、住宅街に寂しさを増してこだましていた。

 

 約一か月前に見た景色と、見えてきた景色とがずいぶん違った気がしたが、それは酔いの起こしたことだったり、夜か昼かという時間帯だったり、雨のせいだけではないようだった。

 

 古そうな苔に加え雨に侵されたせいで色の濃くなった看板に書かれた「紅葉公園」の名は、なるほど、こういうことだったのかと――時雨は色の変わりはじめていたそれらを見て密かに思った。暗がりと雨粒のせいであまりよくは見えなかったが、夏の緑から色を変えたそれらは、公園中のいたるところに見える。

 

 乗ればキイキイといやな音が鳴りそうな錆びた二台のブランコと、低く面白みのなさそうな滑り台、小さな屋根がついた休憩所、固まった砂場、水飲み場。この辺一帯の小奇麗な家に住んでいる子どもは到底見向きもしないような、殺風景な遊び場を、紅葉や銀杏がぐるりと囲んでいる。そしてその上から、雨水がすべてを覆っている。水の重さに負けて、ひとあし早く落ちてしまったであろう葉っぱを踏みつけて、時雨は奥の方へと歩みを進めた。

 一日中歩いているうちに、カラフルな色があしらわれた遊具が揃った大きな公園を幾つも見てきた。おそらくここは既に子どもに忘れ去られているのだろう。

 

(だからこそ、おまえはここにいるんだろうな)

 

 苛立つ頭で、時雨はそんな風に考えた。
 数個の電灯が照らす園内へ入ると、小さなその影はすぐ見えた。休憩室でうなだれたようにちょこんと座る、色素の薄くやわらかい髪の毛が、白い電灯にぼんやりと照らされている。

 

 あきがそこにいる――見つけた瞬間、これまで感じたことのない苛立ちが時雨を支配した。無言でざりざりと固い砂利の中を歩いて、小さなその影に近づく。眠りこけてはいなかったようで、ぴくりともしなかった首が動いて、ぽかんとした表情があらわになる。真白い肌には、水滴と髪の毛とがぴたりと肌に吸いついている。

 

 ああ、苛々する。

 なんでいるの、とでもいっているみたいな、いつもよりもやや目を見開いたあきからは、それ以上の感情は読み取れない。そこにあるのは、ただ純粋なおどろきだけ。

 

 ざあざあ降りの雨音が、耳から遠くなっていく。

 

「おまえふざけんなよ」

 

 自分の耳でも聞いたことのない、怒りを隠そうともしない声色。ぴく、と肩を釣り上げたあきの手首を引っ張って、歩き出した。立ち上がると、なぜか膝にあった赤い落ち葉が、パラパラと音を立ててあきから落ちていった。無抵抗なあきのからだはあっという間に時雨に支配される。引っ張られるせいで、その背を追うように駆け足になる。

 

 折れるか折れないかというほど、冷たく濡れた手首を強く握る。やや抵抗するように大きな手から抜けようと引く腕を、時雨は許さない。

 

 ひゅう――という風を吸い込むいやな音がした。あきがなにかをいおうとした、しかし時雨は引っ張られる子どもの方を振り向かない。何度もその音がしたけれど、声はいつまでたっても聞こえてこない。

 

 やがて、時雨に自由を奪われた手とは別の手が、時雨の手の甲へと文字を書こうとする。時雨の手のひらはきつく握られているから、そこしかあきがコミュニケーションを出来る場所はなかった。

 

 ご、め、ん。その、最後の文字が書かれる前に、時雨は鬱陶しげにその手を払った。何度も手の甲へと向かおうとしてくるそれを、時雨は完全に無視する。

 

 苛立ちは、しばらくおさまりそうにない。

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