時雨と紅葉。

四話 たまごとふたり掛けソファ

13

 時雨が夜にどこにいっているのか、太陽が昇っているうちは眠ってばかりいる時雨がどうして豪奢な部屋に住めるのか、どうやってお金をこしらえているか――あきにはなんとなくわかっていた。


 それは水商売を続けていた母のそばで培った独特の嗅覚であった。ホストという用語やその細かい商売方法までは、ついに知るすべがなかったのだけど。あきは母親そのものや母親を押し倒す男たちにいい思い出がなかった、もちろん香水や時折におう濃密な汗、嗅いだことのないにおいもすきではなかった。

 だからあきは、朝方シャンプーのかおり纏う時雨のことだけを考えることにしていた。

 

「昨日のデジャブ……今度はなに持ってきたの」

 

 茉優が自分を構ってくれるわけではないが、そもそもこの空間にそのひとはいない。だからだろうか、時雨の機嫌は幾分いいような気がする。しかし、覗いたあきを振り返りながら眉根を寄せていたから――あ、たった今不機嫌になった。

 

 子どもはそんな空気を汲み取りながらも、おそるおそる昨日と同じ器を持って中に入った。横たわる時雨の手のひらにスプーンと器を押しつける。昨日と同じやりとりに不毛さを感じたらしい時雨は、立ち上がって器の中を眺めた。

 

「……昨日のはなんだかわかったけど、これなに? 名前あんの?」

 

 器には昨日同様ガタガタに敷かれた大盛りのご飯と、パラパラとかかる不揃いな黄色い粒の塊。昨日は液体だったものを、今日はどうやら炒ったらしいが、隠しようのない不器用さが大小バラバラなたまごからにじみ出ている。

 あきがそわそわしていると、ため息を吐いた時雨に左手を差し出される。急いでその手を取って、文字を書いた。本格的な秋や冬到来を目前にして、やや寒いくらいの気候のおかげだろうか、汗の気配ひとつない時雨の手はすべすべしている。

 

「た、ま、ご、か、け……はいはいたまごかけごはんね。……に? たまごかけごはんその二ってこと?」

 

 頷く。

 

「いや俺が知ってるのはこの間のたまごかけごはんだけだけど……まいっか。確認するけど前回もおまえ、たまごかけごはんを作った気でいるんだよね?」

 

 頷いて、前回時雨に食べさせたお料理を命名する。

 

「た、ま、ご、か……けごはんね。……なに、棒?」

 

 ひらがな二文字にしてみる。

 

「いち、一ね。前回のがたまごかけごはん一、今回のがたまごかけごはん二ね」

 

 昨日時雨の食器を洗っているときに、茉優からたまごかけごはんオニギリの真実を教えてもらったのである。実はたまごかけごはんオニギリのたまごはおそらく火を入れて炒ってある、と聞いてそのやり方を教えてもらったのだ。結果、オニギリしないたまごかけごはんオニギリを作ると、ごはんに歪な炒りたまごを乗せるだけの名前もない料理になってしまった。それがたまごかけごはんオニギリだと信じて疑わないのはあきのみ、時雨はというと食べたことのない簡素な、その実だれにでも創作可能な料理を食べる羽目になった気分だ。さしずめ、(昨日の方がまだいけたな……)という表情である。

 

 大盛りごはんに対してたまごひとつというのも、おかしい。――ということにあきは気づくはずもなく、緊張した面持ちで時雨をダイエット阻止お母さんのごとく時雨を凝視する。どうやら逃げることは不可能だ。
時雨はそんな視線に不審そうな目を向けるが、やがて諦めたように創作料理を食べはじめた。もさもさした、素材の味がするたまごと大量の白米を、無理やり一緒にすくう。

 

「あのさ、たまご……味しないんだけどなんか入れた?」

 

 なにも入れてない。そういえば、茉優がなにか入れるといいっていっていたけれど……なんだったっけ?

 

「おまえ頷くときはすぐ頷くけど、都合悪いときはうんともすんともいわないよね。味しないたまごと味しないコメはヤバいよ。これ食った?」

 

 あき自身は炒りたまごにせずたまごかけごはん“その一”を食べた。本人的にはサービスのつもりで時雨の分をたまごかけごはん“その二”にグレードアップしたつもりであるが、時雨は「おまえは食べてないのかよ……」とげんなりした。

 

(時雨はたまごかけごはん一の方がすきだったかな。それとも味しないのきらいかな)

 

 次々に固くなっていくたまごをいかに分離するかという格闘をしていたせいで、すっかり失念していた。すこししょんぼりしているうちにカラッポの皿を差し出されたので、それを両手で受け取ろうと手を伸ばす。

 

 ――と、皿は宙へ返っていった。と思ったら、無造作にシーツの上に置かれる。そうして、今度は持っていない手がまるで確かめるみたいにあきの手を取った。引っ張られて、そんなことを予期していなかったからだは素直に前のめりになって、時雨のにおいが近くなる。

 

 左手をひっくり返されるみたいにして、観察される。あきは時雨の不可解な行動にハテナマークを浮かべた。

 

 やがて時雨が、あきに向かって小さな手の外側を見せてくる。ヘンな捻り方をされて、いたい。思わずからだが捻られるのに抵抗して動いた。

 

「おまえ、フライパンかなんかさわらなかった? すっげえ赤いけど」

 

 すごい時雨。なんで、わかるんだろう。あきは自分の手のそれをしっかりと目に入れるまで、ひょっとして時雨はいつもの自分みたいにドアの外から自分をこっそり見ていたのではないかと妙な勘違いをした。

 

(あ……、そういえばさっき、フライパンにぽん、てしたところ)

 

「冷やさないと痛いはずだけど……痛覚もないわけ?」

 

 捕まえられた左手で、時雨の手のひらに指を滑らせた。

 

「ひりひり……する? だよな、冷やしな」
(冷やす? 冷蔵庫で?)

 

 時雨に指摘されはじめてから思い出したように皮膚がじくじくするのを感じたが、そもそもあきには“火傷したら冷やす”という当たり前の概念が欠如している。無表情で自分の手を見たまま動かないあきに、しびれを切らした時雨が動いた。

 

「あーもう……手かかるわおまえ」

 

 時雨があきの手首を捕まえて、そのままベッドから下りた。ふたりが顔を突き合わせて会話のようなものをするのはもっぱらこの大きなベッドでだったから、立ち上がった時雨の大きな影に、あきは慣れない。時雨が立ち上がるのに合わせて、捕まえられた手首がぐいーっと高い位置に上っていく。時雨はどうやらいつもお母さんと一緒にいた男のひとたちよりも、少しだけ大きい。

 

 子どもは縦に伸びた時雨を観察しようとしたが、忙しない足取りでリビングへと引っ張られたのでできず仕舞になってしまった。

 

 なにをするのだろうか。

 

 聞きたいけれど、今あきは時雨に手首を掴まれているので、自分の気持ちを伝えるすべがない。うなだれた。そのうちにリビングについて、掴まれた左手を銀色のシンクの中に突っ込まれる。時雨の動きに合わせて必然的のつま先立ちになる。

 

 じゃ、と勢いよく水が流れる音。

 

「火傷したらこうやって冷やすのがフツーなんだよ」

 

 秋の水道水は全身を冷却するみたいにひんやりと冷たい。無意識のうちに、あきのからだに鳥肌が立つ。なんだか寒いのに、時雨はしばらくやめてくれそうにない。

 

 流れる水のそれは、――はじめてこの大きなだらしない男を見たときの、あのむせかえるような吐瀉物に交じって聞こえた公園内の下水の音とちょっとだけ似ていた。

 

「で、冷やさないと跡が残る。こういうのみたいに」

 

 後ろから乱暴に袖をまくった時雨が、細すぎてあまりに骨っぽいあきの二の腕の内側を指さす。そこには昔母親から与えられた打ち身や火傷の跡が、ところどころに点在している。白すぎる腕に浮かぶそれに、あきはああ、とそのときになって鈍い頭で思い出した。どれがどのときにどうつけられたのは思い出せないが、中には鮮明に覚えているいたみもある。

 

(そうかあ……怪我したら水で冷やさなきゃいけなかったんだ)

 

 からだについた傷は、クローゼットの中で静かに我慢するものだとばかり思っていた。
時雨が蛇口をひねってとめたときには、冷たさに麻痺したせいか、火傷した手からじんじんしていたはずの疼きがきれいになくなっていた。

 

 それでもいたみが残ったのは、時雨曰く、冷やすのが遅かったからだって。

 

「おまえのせいで目覚めた」

 

 すっかりヒリヒリがどこかへ消えていった手を見つめながらソファで丸まっていると、珍しく時雨がキッチンに立っていた。不思議に思い、寒いからだをそのままに時雨の方へ歩いていく。

 

 素足のペタペタした音に気づいた時雨だが、あきのことは完全に無視したままマグカップになにかを注いでいる。嗅いだことのないかおりがした。なんていうか独特のにおい、それに苦い。

 

 時雨なにしてるの?

 

 手を掴まえて手のひらコミュニケーションをはかったが、無視すると決めているらしくキッチンで作業する手をこちらへはすこしも下ろしてくれない。ここにあきがいて、てのひらを求めていること、時雨はわかっているはずなのに……意地が悪い。表情こそ出なかったが、あきはむっとする。仕方なく背伸びしてキッチンを見上げた。

 

 見たことのない小ぶりなマグカップを持った時雨が、そんなあきを置いてソファに移動する。眠れなくなってしまったようだが、時雨の行動があきには妙に不可解に思える。

 

 だって、あきがいるというのに時雨がリビングで過ごそうとするなど、今までなかったことなのだ。しかも時雨は、(なんか汚くなったか)という顔をしながらも、あきの住処と化したソファに深く腰を下ろしている。

 さっきまで無視されて拗ねていた気持ちが、今度は戸惑いへとみるみるうちに変わっていく。

 

(ぼく、どうしよ)

 

 あたりを見回す。嗅いだことのない不思議なにおいは、時雨とともに去って行ってしまった。その時雨は今、あきのいるキッチンに背を向けてソファでくつろいでいる。……家主だからそこにいても不思議はないけれど、ないけれどおかしい。

 

 時雨はこっちにこいとも、どこかへ行けともいわない。あきはおもむろに歩き出した。ぺた、ぺた、フローリングを踏みつけて、時雨の座るソファとは反対側――あるのはもっぱら小銭や千円札のみであるがあきの道具入れエリアである。注意深く時雨の読めない表情を見上げながら、ソファに乗り上げた。

 

 時雨はなにもいわない。

 

 大きなふたり掛けのソファは時雨が片方に座っていたところで小さなあきがいつものように寝転がっても幅に問題はない。あきは時雨にならって両足を投げ出した。二対のおとなと子どもの脚が、ソファからぶら下がる。

 

 時雨が片手に持っているマグカップからは、白い湯気が立っている。

 

「寒くねえの?」

 

 投げ出された素足、薄いパジャマ、極めつけに先ほどまではジャージャー冷水を浴びせていた腕――あきはさっきまで寒くて震えていたからだを思い出す。思い出すと、不思議と寒くなってくる。

 

 また、むっとする。戸惑いは消え去って、(時雨がそういうこというから、寒くなった!)という理不尽な感情がやってくる。投げ出していた足を丸めて、からだを小さくした。あきがこれまでの十年以上、寒いときに自分を守るためにやっていた必殺技である。

 

 時雨が横目であきを見た。偶然時雨のマグカップを見ていたから、わずかに視線がズレる。

 

「おまえまた火傷するしコーヒーはダメだから」

 

 ……こーひー?

 

 首を傾げた。時雨は呆れた表情で、まあいいや、とそっぽ向いて、マグカップの取っ手だけを握ったままコーヒーというらしいそれをすする。

 

(時雨と一緒にいたのは、コーヒーのにおいだったんだ)

 

 湯気が立っている。……あったかそう、時雨のコーヒーいいなあ。僕もほしいなあ。そんな風に熱っぽくマグカップを見つめるあきを時雨はガン無視である。

 

(ちょっとくれてもいいのに)

 

 ちょうど日の当たらない時間帯――影になった部屋である。あきはからだをいっそうぎゅうっと丸めていた。

 そうして数分か、十分は経っていたか……幾らかの時間が経った頃に、時雨はあきに向かってマグカップを渡してきた。

 

「飲むなよ、ていうか絶対飲めないから。おまえには苦すぎる」

 

 そんなお約束つきで。白く煙立つものだから、なにかほわほわとした色の飲み物かと思ったら、それは黒々としてあまり美味しくなさそうだった。湯気はなくなっている。あきは時雨の左手の上から注意深く取っ手部分を引き継いで持とうとしたが、カップを持てといわれたのでおとなしく両手で受け取る。

 

「コーヒーも知らないのな。やっぱり馬鹿」

 

 時雨の手がマグカップから放される。まだ全体の半分以上が入ったコーヒーのカップは、あきの冷たい手のひらに熱を伝えた。あったかくて、ぎゅう、と握って折り重ねたからだに閉じ込める。

 においは妙だけど、湯たんぽみたい。ほかほかする。

 

(時雨の嘘つき。ちっとも熱くない……火傷なんてしない)

 

 マグカップの側面をぺったりと頬に当てて熱を吸い取りながら、あきはやっぱりちょっとむっとする。でも、結局いじわるしても、時雨はマグカップをくれたからいいや。

 

 どうにも気になって、時雨にバレないようにソファの外側を向いて、こっそりコーヒーとやらに口をつけた。だけど、舌にふれたなぞの苦さに、慌ててくちびるを放す。

 

(絶対飲めないからって、時雨のいったこと、ほんとうだった……)

 

 むしろどうしてこんなものを平気な顔して喉に流し込めるのだろう……あきはそんなことを思いながら両手でマグカップを包んだままチラリと時雨を盗み見る。こちらを見ていたらしい時雨と目が合って、「だから飲めないっつっただろ」とばかにされた。小さなあきがこそこそすることなど、お見通しらしい。

 

(じゃ、なんで、マグカップくれたんだろ)

 

 母親と違って感情がストレートに出ないらしい時雨を理解するのは難しい――だれよりも無表情ということばに一番親しいであろうあきは、ぽかぽかのそれを握りながらそう思った。

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