時雨と紅葉。

四話 たまごとふたり掛けソファ

12

「ほら」

 

 ぽん、と渡された器は、ごはんの温度が伝わってあったかい。ドキドキしながら、一緒にもらったスプーンもろとも慎重にソファへと運ぶ。

 晴れた日の光が反射してキラキラ光るたまごかけごはんを、不思議そうに見つめる。

 

(これがたまごかけごはん? オニギリとちょっと違う……たまごドロドロ……)

 

 同じくたまごかけごはんをよそった茉優が、「早く食べないと冷めるよ」とせかす。あきには宝箱に入れていつでも見ていたいほどキラキラと眩しいものだったのだが、そういわれてしまったので、(もったいない……)と思いながらおそるおそる口に入れた。

 

 食べたことのないごはんの味が口の中に広がった――、あきは一口、また一口と訥々と食べ続ける。茉優は何もいわなかったが、これまで食べ物にあまり執着を持たなかった子どもがどうやら美味しいものとの巡り合いに歓喜しがっついているらしいということにはとおっくに気づいていた。

 いつもよりもわずかに、ほんのわずかに咀嚼する速度が増していたからだ。

 

「美味い? あきでもできるから、今度からやってみな」

 

 器から口を離したあきが、コクリと頷く。茉優を見上げて、首を傾げた。

 

(でも、なんだか、たまごかけごはんオニギリとは違う。たまご、ドロドロ)

 

 どうして?

 

 理由を聞こうとしたけれど、手のひらコミュニケーションができるのは、今のところ時雨だけである。あきはしばらく固まったまま思案にくれた後、諦めて再びたまごかけごはんを喉へとかけこんだ。

 

 少なめに盛っていた茉優が、器をからっぽにしたあきに「おかわりは?」と聞いたが、首を横に振る。小食は小食であるらしい。

 

「リョウタに聞いたけど、十四歳だっけ? 成長期なんだからもっと食べるようにならなきゃねえ」
「……」
「なに、その目。ぼくはシッカリ食べてます、とでもいいたいのか? 私より食えてないし、小鳥以下だからねあんた」

 

 茉優と並んで洗い物をしていたら、そういって腕でぐいぐい小突かれた。

 

「で、残ったおコメは冷凍して食べるのね。教えてあげるから次から自分でやるんだよ」

 

 茉優がホカホカなまま残っているごはんごと炊飯器を取り出して、あきに見せてくれる。あきはそれをじっと見下ろした後、茉優が先ほど器を取り出した戸棚に手をかける。そこから大きめの器を取り出すと、炊飯器をひっくり返すようにしてごはんを入れた。

 

 茉優はあきがなにをしようとしたか手に取るようにわかったから、そのまま素直に炊飯器を渡してやる。熱いから気をつけな、と。

 

 手に取ったたまごを、茉優がやってのけたみたいに、トントンとシンクの端で叩いていやる。ただノックするみたいなやさしいそれで、ヒビが入るはずもない。首を傾げて、もう一度トントンとノックする。

 

「不器用だね。……もうちょっと強く当ててみな。……ほんっと不器用なんだね。まあやるとは思ったけど」

 

 “強く”のことば通り叩きつけたら、殻全体に蜘蛛の巣が張り巡らされて、ぬめった透明の白身があきの手のひらにくっついた。黄身はべちょ、とシンクに落下した。
すがる思いで茉優を見上げると、呆れた様子でゴミ箱を差し出される。べちょ、と音を立てて、すっからかんのゴミ箱に哀れなたまごが捨てられた。

 

 水道で手を洗い、深呼吸をしてもう一度たまごを手に取る。その表情は、魂の抜けたようないつものあきよりも、いくらか真剣そうである。たまごを持つ手に緊張して力が入る。

 

 ――今度は蜘蛛の巣が半分くらいに収まった。そこから殻をふたつに割って、汚く器に盛られたごはんよりもずいぶんと少ない量のたまごが盛られた。自分が使ったものよりも大きなスプーンとそれを、持ち上げる。茉優に見守られながら、あきは隣でふて寝を決め込んでいたらしい男の寝室へと向かった。

 その背中はどこか浮足立っているようで、寝室を覗くあきを見つめながら茉優は密かに微笑した。

 

(時雨にも、たまごかけごはん食べさせる……)

 

 そっとドアを開けて寝室を眺めると、シャンプーの残り香、投げ出された足。横たわったからだはピクリとも反応しないが、あきは既に時雨が物音に敏感で、どんなにそっとドアを開けても目を覚ましてしまうことを知っている。

 

「なに」

 

 そのことばを合図に、あきは寝室へと足を踏み入れる。ベッドを覗くと、時雨はいつものつまらなそうな顔の十倍くらいつまらなそうな顔でじろりとあきを見上げる。

 

「おまえといると茉優がうるさい」

 

 茉優、という響きが不思議だったのは、茉優の名前がきれいだと思っていたからじゃなくて、時雨の口からひとの名前が出るところをはじめて聞いたからだったからかもしれない。子どもは不可解な響きに心がすこしだけ揺れて、怒ってもそんな風に名前を呼んでもらえる茉優が羨ましくなる。

 

 前に時雨が一度だけ発した“あき”は、紅葉や銀杏の色づく季節――秋のことだ。自分のことではない。あきを呼ぶのは、おい、とか、おまえ、とかでしかなかった。それに気づいて、あきは自分が悲しいと思っていることに驚く。

 なんだか、いやだなって思うのは、どうしてなのだろう。

 

「……なに呆けてんの。ひとを起こしといて」

 

 はっとして、寝ころんだ体制のまま無造作に放り出されていた時雨の手に、銀色のスプーンを押しつける。続いて、ごはんが持つ熱がじわりと伝わった器を、無理矢理手のそばへ置いた。

 

「……ナニコレ」

 

 たまごかけごはん。
 こたえようと思ったけれど、時雨の手はスプーンをやんわり握っているし、もう一方の手はどっか行ってしまっている。あきはただ黙って時雨を見つめる。

 

「はら減ってない」

 

 でも、ごはんは食べなきゃいけない。

 あきは時雨が家に帰ってきてからなにも口に入れていないことを知っているので、ひるまない。じい、と穴が開くほど無防備に見つめる。時雨がいやな顔をして目線をそらしても、見つめ続ける。

 

 時雨は仕方なく折れたようで、からだを起こして大盛りのたまごかけごはんを手に取った。ごはんに対してたまごが足りないので、真ん中は黄色いが端の方は白いままのそれにため息をつき、スプーンをつける。

 

「おまえさあ……白米多すぎだろ」

 

 あきが口に入れる量の倍以上を一気にスプーンですくって、口の中に放り込む。どこか落ち着いたシックな見た目からは想像つかない男らしいがさつな食べ方に、あきは心の中で(怪獣みたい……)と呟いた。多すぎと文句垂れる割に、皿の上にデコボコに敷かれていたごはんは、あっという間になくなっていく。

 

 途中で、砂利を嚙み砕くような音が聞こえた。なにが起こったわからないあきの表情がちっとも変わらないのに対し、時雨は心底いやな顔をした。

 

「たまごの殻入れるなよ」

 

 一度目の失敗よりはましになっていたものの、二度目も不器用な割り方になっていたことには変わりなかったから、もしかしたら蜘蛛の巣のひとかけらくらいは入ってしまっていたかもしれない。あきは素直に頭を下げた。

 

 あきの態度に溜飲を下げた時雨がもくもくとごはんをかけこんでいると、再びガリ、といういやな音がした。目の前のおとながイラっとしたのは、ビシビシ伝わってきた。あきは素知らぬふりをした。

 それでも時雨は残すことなく皿をからっぽにしてくれた。

 

「ほら、これ洗っといて」

 

 まるでダイエット中の娘に無理矢理夕食を振る舞う母のごとく注意深く時雨を監視していたあきは、両手の中にスプーンとカラッポの皿を渡されてほっと一息ついた。……そうしてはじめて、自分がひどく緊張していたことに気づく。

 

「ハイハイ、卵の殻入りごはんごちそーさん」

 

 安堵してからだの力を抜いたのもつかの間、思いがけず時雨の大きな手のひらと細長く伸びる指が伸びてきて、あきの頭をくしゃっとひと撫でした。まるで猫にするそれに、あきは再びピクリと肩を上げる。

 

(びっくり、した)

 

 時雨がいきなり、さわるから。
 歯磨きでもするのか、立ち上がって洗面所へと向かってしまった時雨の背中をひとしきり眺めてから、あきも洗い物をしに寝室を出た。おどろきで、心臓が跳ね上がっていたけれど、顔といえばやっぱり能面のまま。

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