時雨と紅葉。

四話 たまごとふたり掛けソファ

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「だったらたまごかけごはん食べればいいでしょ」

 

 毎日飽きもせずたまごかけごはんオニギリを食べるあきに、茉優はそういってのけた。

 

 お昼時が過ぎようとした頃である。茉優はいつも仕事から帰ってきた時雨がひと眠りを終えるこの時間にときたまやってくる。家の鍵を持っているみたいで、インターフォンも押さずに。

 

 インターフォンを押されても、いきなり施錠の音が聞こえても、どちらにしてもあきは外界からの音に尋常じゃなくビビる。しかし最近、どうやら施錠の後に訪れるのが時雨か茉優かというのがわかってから、かちゃ、と鍵が回る音にだけは耐性がついてきた。

 

 九月も終わろうとしていた。いつの間にかあきがここにきて三週間が経とうとしている。夏終わりの生温かいそれから、木の葉のかさつきが聞こえるような乾いた空気へと徐々に変わってきている――コンビニに行くためにほぼ毎日外に出るあきは(ちょっと、寒い)と、往復の道のりを歩きながら思っていた。

 

 昨日の夕刻に買っておいた三つのオニギリは、あとひとつになっている。玄関口から自分の家みたいに慣れた足取りで部屋に入ってきた茉優が、挨拶もそこそこに「ねえあき。あんたいつもそればっかり食べてるよね」と話しかけてきたのがきっかけだ。

 

 あきは、ただ単純に味が好みだからたまごかけごはんオニギリを食べているわけではない。元々劣悪な家庭環境に身を置いていたから、食に対する興味は薄く、食べものかそうでないかくらいの視点でしか見ていなかった。

 

 自分にやさしくしてくれたリョウタがくれたものだから――たまごかけごはんオニギリに対するあきの見解はこれに留まる。なんとなくこのオニギリに思い入れのあるあきにとって、他のオニギリを買うという選択肢がないのである。

 

 よくできたロボットのように無機質に頷くと、そればっかり食べてて飽きないのかと聞かれる。もう一度頷くと、変わってるわねとヘンな顔をされた。

 そして続けざまに放たれたことばを、あきは一瞬理解できなかった。

 

「でもさ……だったらたまごかけごはん食べればいいでしょ」

 

 ポカンとしているあきをよそに、茉優は寝室で眠っているであろう時雨に向かってその場で「炊飯器借りるから」という。そんなに大きな声でないはずなのに、やや低くハキハキしているからか、辺りが閑散としているからか、茉優の声は部屋中によく響いた。もちろん寝室へしっかり届いているだろう。返事がないのに、茉優は我が物顔でキッチンを物色する。

 

 週に一、二度訪れる茉優にいい加減慣れた頃。あきは、時雨のものであるはずなのにこの家のキッチンが茉優御用達のものとなっていることに気づいている。

 

 茉優が来たのは、午後がはじまった頃。時雨は例によって朝方に帰ってきて眠ってしまったままだったが、あきは目が醒めていたので何をするわけでもなくソファで過ごしていた。施錠の音を合図に茉優を玄関まで迎えに行くほどには、ひましていた。

 

「おまえ最近ふざけんなよ……」

 

 キッチンで米を計っていた茉優の後ろから、寝起きの足取りでぬっと時雨が現れる。ぼさぼさになった髪の合間からちらつくその表情は不機嫌そうに歪んでいる。背後霊のように気配なしに現れたので、遠くのソファでリラックスしていたあきの方がそばにいた茉優よりもびくついた。

 

「なにが?」
「なにが、じゃねえよ。なんのために俺んとこ来てんだよ」

 

 茉優は時雨の声に動じない。あきはなんの話だろうとソファの隙間から片目だけ出してふたりの姿を窺った。体は半分以上ソファに隠しているので、キッチンから見ると顔の半分がこちらを向いている、わかりやすいのぞき見体勢である。

 

 気づいた茉優にくすっと笑われた。恥ずかしくなったので「聞いてないよ」といわんばかりにそっぽ向いて、それでも耳だけは注意深くそばだてる。

 

「なんのためにって? あんたのセフレとしてセックスするため? 最近枯れ気味の男にいわれたくない」
「枯れてねえ……気分が乗らないだけ」
「もう一年くらいほとんど気分乗ってないじゃないの。すでに一生分の精力使い果たしたんでしょ。グダグダいわずに寝てればいいじゃないの」

 

 ぐうの音も出ないとはこのこと。時雨は口喧嘩では茉優に勝てないらしい。
 寝室のベッドとリビングルームにあるあきの住処とは、ちょっとの音では雰囲気を察することができないくらいの距離がある。茉優がときたま現れては時雨の寝室へ行くことが頭ではわかっていたものの、まさかそんなことだとは思いもよらない。

 

 あきの中で、男のひとと同衾する女のひととは、母親のイメージそのものであり、さっぱりとした茉優の姿とは乖離している。

 

 しかしそのとき、あきは静かに理解した。
 茉優もまた、あきの母親がそうしていたような、時雨とふたりで奇妙な絡み合いをする仲なのだろうと。

 

 真正面から見上げることを許されなかったせいかおぼろけな母親の、女くさい目の色や声と、細身のジーンズばかり履く淡白そうな茉優の姿が、どうも嚙み合わない。

 

(ほんとうかなあ)

 

 あきはにわかに信じられない気持ちでいっぱいだった。

 

(枯れる、って、なんだろう)

 

 聞き耳を立てていたら、時雨が去っていく足音が聞こえてきた。どうやら茉優に論破されて拗ねたらしく、その足音はどこか荒々しい。

 

 ヘンなの。

 

 家にくる男のひとはいつも、お母さんの奴隷みたいに付き従っていたのに、時雨は口喧嘩で負けてしまった。時雨は茉優のこと奴隷みたいにできないんだ。茉優がエッチしてくれないのに怒ったのは、ぼくがいるから、なのかなあ。

 

 あきは拙い思考をくるくる回転させる。

 

 それとも、時雨もお母さんが男たちに口酸っぱくいっていたみたいに、茉優がぼくに話しかけるのが許せないのかな。

 

 しかし茉優に手招きされて炊飯器を使ったごはんの炊き方を教わっているうちに、そもそものキャパがすくないあきの脳内から、それらは跡形もなく霧散した。

 

 ごはんができあがるまで三十分かかるということで、茉優とあきはソファでそれぞれの時間を過ごした。茉優があまりにも自然にソファの左側へ腰かけてテレビをつけたので、どうしようかと突っ立ったままでいたら、「なにしてんの早くきなよ、スリムなお姉さんとちっちゃい子どもだったら、ふたりがけソファなんて余裕でしょうが」といわれて、右側に丸まって座った。

 

 投げ出された茉優の足に背を向けて、カーテンの隙間から覗く秋晴れの空を見上げた。夏と同じ真っ青な空はあんなにもジリジリ暑そうなのに、そこには冬の入口が見えるような乾燥した空気が広がっているのだから不思議だ。夏から冬へ、秋が季節を染めていく。

 

(冬はきらいだなあ)

 

 クローゼットは、寒かった。毎年あの中で体調を崩して死にかけていたことを思い出して、このソファもそうなったらどうしようかなとぼんやり考える。

 

 ぴー

 なんていう、聞いたことのないような軽快な電子音とともに、茉優と炊飯器へと向かった。

 

「ねーあんたって炊き立てごはん食べたことあるの?」

 

 たきたてごはん?

 子どもは聞きなれない贅沢なことばに、首を傾げた。食べたことがあるかすら、わからない。アーソウ、と自分から話を振ったくせに興味なさそうに呟いて、茉優が炊飯器を開けた。

 

 白い湯気と、いつも食べているたまごかけごはんオニギリのコメとは違う、食べものみたいに、雪みたいに敷かれたごはん。あきはおなかをこれでもかというくらい刺激する、かぐわしいにおいに目を細めた。

 

「あ、今美味しそうって目したな。……あきは全然表情変わらないからなあ。今のはちょっと可愛い」
「……」
「と、能面に戻ったな。まあいいや、今度からたまごかけごはんオニギリとやらを毎日食うくらいだったら自分で炊いてたまご溶いて食べな」

 

 茉優はその辺の戸棚を開けて適当に取り出した器にごはんを盛ると、やってきたときに一緒に持ってきたビニール袋から六個入りのたまごを取り出した。あきに見せるように器用にたまごを溶いて、しょうゆを垂らし、ごはんにかけていく。大雑把な動作だが、あきにはまるで魔法のように見えた。

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