時雨と紅葉。

三話 小さな住居と“あき”

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 この程度でよかったっすよ。

 

 といったのは、そばでド修羅場を見ていたはずのリョウタである。よかったわけないし、気分も悪いし、痛いし、色々と最悪だったから、時雨は妙に慰めるようなおちゃらけた声をガン無視した。

 

(いてえ……)

 

 痛かったのは、もろ頬に直撃した女の平手打ちではない。その指にはめられていた指輪の飾りだ。頬を切っていった。

 

 どこにでも頭のおかしい客はいるもの。だから、他の客の相手をしている最中にアポなしで入ってきた客に、大して驚くことはなかった。今まで何度かあったことだったので。

 

 ――ほんとアンタって最低!

 

 最低なことをいつどこでしたかと聞かれたら、身に覚えがありすぎる。思い出そうとしているうちに、目の前に平手が飛んできてきれいに空中カーブした。見事なほど迷わず、時雨の頬を打つ。

 

 隣に別の客がいたものだから、普段笑い声ばかりが溢れるその世界は一転――一気に修羅場へと突入した。キレた時雨が頬を打った女の胸ぐらを掴んで外へ出したから、すぐに収まったのだけど。

 

 ――時雨、ひどおい。あの子、かわいそうー。
 ――頭おかしい女がきらいなだけ。
 ――いいけど。……ねえ、頬痛くないの? 血、出てるよ。

 

 絡みついてきた女が、ねっとりとした手つきで時雨の頬にふれた。気分の悪くなる温度に、速攻で女のからだを引き離した。

 

 ――でも、夜には珍しいハッキリしたタイプの客だったっすねえ。この辺だいたいやべえ依存タイプが多いじゃないっすか。

 

 時雨やリョウタにとって最も質が悪く気が滅入るのは、くすぶる思いをこじらせにこじらせてストーカー化するタイプの女である。最寄りの駅や店の前で待つだけならまだいいが、引っ切り無しに鳴らしてくる電話や自宅前での待ち伏せにはこちらの気が狂う。……仕舞にはナイフを持ち歩きはじめるのだから困りものだ。

 

 そういうタイプに付きまとわれるよりは、頬一発殴ったことにより満足して去っていく女の方がまだましである――というのが、リョウタの見解である。

 

 時雨にとってもわかってはいる。いるが、鬱蒼とした気分は晴れない。

 

 心配してか、機嫌を取ろうとしてか、どこまでもついてこようとするリョウタを突き放して、とっとと眠ってしまおうとマンションへ帰った。

 

 頬は「商品だから」とオーナーに無理やり消毒液を当てられて、痛み自体は引いている。それでも、赤く線の引かれた切り傷は、すぐになくなるものではなかった。

 

 帰宅してそのまま、酔いを醒ますためにいつものようにシャワールームへと真っ直ぐ移動し、絡みついた香水や酒の匂いを流した。そのままリビングを素通りして、今朝起きたままクシャクシャになっているベッドへと倒れ込む。うつぶせに倒れ込んだ瞬間、重力がのしかかるように、からだが重くなった。

 

 適当に目覚ましをセットしようと、携帯をいじる。――と、

 

(なんだこんなときに面倒くさい)

 

 ハア、とため息をついて、時雨は強烈に感じる視線の元へと目を凝らした。からだの半分はドアに隠れるようにして、無言でこちらをじ、と見つめるあきの姿に気づいたから。

 

 リョウタに頭をかき混ぜられていたときほどではないが、くしゃくしゃの髪の毛を見ると、寝起きであろう。

 

「なに、……また恐喝でもされてんの?」

 

 あきはゆるりと首を振って、それでもまだ寝室から背を向けずに時雨を見上げてくる。あっちへ行けといえば終わるが――、

 

(面倒くさいな)

 

 頑固に壁に張りついているそれに手招きした。それに気づいたあきが、なぜか忍び足で遠慮がちに寝室へ入ってくる。

 

「寝たいんだけど」

 

 どうぞ、といわんばかりに両掌を差し出される。

 

「おまえいると寝れない」

 

 あきは、そうかあ。といわんばかりに肩を落として、ドアの方を見る。しかし時雨に伝えたいことがあるのだろう、意を決したように向き直って近づいてきた。動かない時雨の顔に、おぞおずと手を伸ばす。

 

 ――……ねえ、頬痛くないの? 血、出てるよ。

 

 ちょん、と、傷のちょうど切れ目にさわるあきの指先。触った感触や程度は、あのときの客と同じくらい軽やかである。それなのに、温度もさわる意味も、客のそれとは全然違う気がして、なぜか時雨はその弱々しい手を振り払うことができない。

 

 いたわるようなあきの手が、ちょんちょん、と二回ふれて、恒例となった不器用なコミュニケーションがはじまる。右手を探られ、手のひらに書かれた文字は、

 

「い、た、い? 頬がってこと? 今はだいぶ引いた」

 

 続けざまに書かれたのは、なぜ、という疑問。

 

「女に叩かれたの。そんだけ。……これが意外と痛いんだよ。とはいっても、おまえわからないでしょ」

 

 あきは静かに首を振った。
 時雨は呆れた。いや絶対おまえわかってないでしょ、と。

 

 おっとりとしたその動作やまるで子どもな様子に、鼻を鳴らす。こんな、女の味なんて知りませんって顔のあどけない子どもが、痴情のもつれだの女関係だののトラブルに巻き込まれたなど信じられるはずがない。

 

 あきはもう一度、痛くないようにやさしく時雨の頬を二回トントンした。そして、ティーシャツの袖をたくし上げて、細く痩せた二の腕を晒す。真白いその内側を時雨から見えやすいように示すと、おそらくもう何年も消えずにいるであろう傷跡をトントンとさした。

 

 おなじ、と、時雨の手のひらに指でなぞる。

 

「あー……なるほどね」

 

 それ別に同じじゃないけど。

 

 だっておまえのはどうせ血のつながった母親からの虐待だろう。俺は色恋沙汰で制裁を食らっているわけで……女関係といえば女関係なのだが、その違いはこいつには難しいのかもしれない。

 

 「おまえ馬鹿だからやっぱりわかってないよ」というと、あきはしゅんとした。表情はピクリとも動かなかったが、へこんだのは垂れた後頭部から伝わってきた。

 

 肩を落としたあきが、まくったままの二の腕を一瞥する。繰り返し暴力を振るわれたせいか、消えることのない古傷が斑点のようにあきのからだを支配していた。ご丁寧に、ちょっと見ただけじゃ判別しづらいところにつけられた、もう何年も前の者であろうそれは、時雨にとってほんのわずかな衝撃になった。
訳ありだ訳ありだとは思っていたが、どうやら想像以上に過酷な生活をあのぼろいアパートでは強いられていたらしい。

 

 声が出ないのも、そのときに起こった心因性のものであろう。

 

 はあ、と深く俯いた拍子に、あきの頬にぱさっと栗色の髪の毛が落ちる。カーテンの隙間からこぼれた朝日がそれを照らしているからか、細く透き通ったそれはよりいっそう明るく見えた。そんな美しい色の髪に覆われた、どこかはかなさを残す顔立ち、強く殴れば倒れてしまうようなか細いからだ。

 

(こんなのぶん殴っても楽しくなさそうだけど)

 

 サンドバッグには不向きに思えるガラス細工みたいな子どもは、いったいどんな経緯があってそんなことになっているのか。

 

 時雨はあきに捕まっていた右腕を起こして、今度は逆にその手を引っ張った。あきにとって予期していなかった動きだったからすぐに反応できなかっただけかもしれないが、それにしては軽いからだがベッド脇すぐ近くまで寄ってくる。

 

「……っ」

 

 びっくりしている。

 

 そう思ったが、時雨はそんな些細な表情の変化をきれいに無視して、ブカブカなティーシャツの袖をまくった。わずかに腕を引かれたが、微々たる抵抗でしかない。

 

「おまえは、痛いの? ここ」

 

 ――いたい?

 

 ついさっき、あきが聞いてきたこと。先ほど同じだとあきが見せてきた二の腕の内側にさわりながら聞くと、急いたように首を横に振られた。自分は何度もひとの傷を指のはらで押しておきながら、触られるのは抵抗があるらしい。腰が引けているのと、いつもより近くにある不満そうな顔でわかる。

 

「ふーん」

 

 腕を掴んだまま、もう一方の手で、シャツの裾に手をかけた。その頃には、仰向けであったからだを横に向けていて、立ったままのあきと完全に対面している状態になっていた。そのことには、あきも、そうした当の本人である時雨さえも気づいていない。

 

「……結構傷だらけなのな。もう痛くねえの?」

 

 無造作にシャツをたくし上げると、冷たい空気にふれたからか、あきのからだが小さく震えた。思った通り、色気もへったくれもない骨っぽい上半身には、点々とあざが残されている。赤みがあるのは少なく、どれも既に紫色に変色していたり、ひどいと肌色よりやや濃い色となって痕だけを残している。

 

 心底いやそうな顔をしているものの、さわられても痛がる様子はない。既にずいぶん過去のものらしい。

 

(あーあー……きれいな顔立ちなのに、これはやべえだろ)

 

 からだをよじって避けようとするのをおかまいなしに、時雨はなんとも痛々しい瘦せこけたからだをしげしげと観察する。
 ふれたからだは、ひどく冷たかった。時雨はそれが、自分が風呂に入ったばかりだからだけではないことに気づく。

 

(そういや、こいつ床で寝てんだっけ)

 

 適当に置いておいたら、そこで眠るようになったらしい。ソファでもなんでも使えばいいものを。ひたひたと冷たいからだにふれながら、そう思う。

 

 ようやく解放してやると、あきはなにがなんだかよくわかっていないように、こてんと首を傾げた。さしずめ、なにしていたの、であろう。時雨は自分でもなにをしようとしたかよくわからなかったから、あきの疑問をていよく無視した。

 

「ていうか、さ、ソファ使って寝れば? もう夏じゃないんだから」

 

 フローリングは寒いでしょ。とまではいわなかった。余計なおせっかいに聞こえなくもなかったから。時雨の手を離れてシャツを整えていたあきが、こくりと頷いた。

 

 ……こうなにをしていても無表情だと、世間の人間が持つのと同じだけの五感や感情を持っているのか疑ってしまうが、どうやら“寒い”はあきの中にあったようである。

 

 石像よろしく微動だにしないあきにあっち行け、と手をやると、兵隊みたいにその通り寝室を出て行く。時雨はやっと子どもがいなくなったと、からだをうつぶせにして眠る体制に入った。しかし何やら目が冴えてしまったようで、気晴らしに水を飲もうとリビングへ戻ると、あきの小さなからだはソファに包まれていた。

 

 気まぐれに購入したっきりまるで使われなかった、黒塗りのおとなふたり掛け用ソファは、あきと一緒に時雨の目に映ると、いっそういかめしくいばって見えた。

 

 それからすこし経つと、時雨が与えた金やリョウタが与えた服などは、すべて黒い光沢のあるソファへと運ばれた。子どもには不似合いなそのソファは、小さな住居と化している。

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