時雨と紅葉。

二話 てのひらと一万円札

08

 “下ろす”の意味が分からなかった子どもには、どうして時雨が自分をあのコンビニに連れてきたのかがよくわかっていなかった。

 

「のわ……っ、おまえさ、行動が突然なんだよ……。いきなり何?」

 

 日が昇って明るい影がさした頃、思い切って子どもは“下ろす”の意味を聞いてみることにした。時雨は斜め前を歩いていた。問いかけることのできない子どもは、ちょっと悩んだあとで、さっきのように時雨の左手に襲いかかる。

 

「あー……はいはい。いいたいことがあるのね。ほら」

 

 腕に絡まった手についさきほどの出来事を思い返したからだろう、時雨は子どもに向けて手をパーに開いた。そこにひらがなで字を書く。歩きながらだから、ちょっと難しい。おまけに、男として見たとしても長身な時雨と、成長を忘れた子どものからだでは、体格に雲泥の差があるので、それも含めて難しい。

 

「おろす、何? ……下ろすって、金のこと?」

 

 頷く。

 

「あーえっとね、自分のお金をコンビニに取りに行くの。銀行とかコンビニに預けてあるから。……く、れ、るの……いやくれねえよ。だからー預けてあんの、それ以外説明したっておまえわかんねえよ絶対」

 

 深く聞こうとする前に匙を投げられて、子どもはむっとする。もちろん表情筋が死んでいるので、顔には出ないが。時雨はそんな感情の変化に気づくことなく早足でコンビニへ入ると、さっきの千円でとりあえずなんか買っていろといい残して、いつも子どもの行かない方向へ行ってしまった。

 

 卵かけごはんオニギリを棚からみっつ取っていたら、店員の待機する奥の扉が開く音とともに、いらっしゃいませーというやや掠れた低い声。子どもはぴくりとからだを跳ねさせた。

 

(こんな朝にも、いるんだ……)

 

 子どもには振り返らなくてもわかる。きっとあの男は、自分を既に見つけている。だから、ゆっくりとくちびるに弧を描いて、薄笑いを浮かべている。卵かけごはんを握りしめる手に、力を込める。

 

 それでも、今日持っているのは千円札一枚だけ。男が予期していた展開にはならない。お釣りはどうやったってごまかせないから。

 

 くるりと振り返って、男の顔を見ないように下を向きながら、はじめに店に来たとき同様両手で丁寧に包み込んでいたそれを差し出す。男はやっぱり、乱雑な手つきでそれを手に取った。

 

「三七五円です」

 

(そ……うは、行かないぞ! 今日は、時雨が千円くれたから、このひとがもらうお金はないもん……)

 

 そうして子どもは、八つに折り畳んだせいでややくるまった千円札を出した。視界の端で、それはあっという間に期待とともに無骨な片手に取り込まれる。が、かすかな動揺と、苛立ったような舌打ち。

 

 ……舌打ちは、きらい。

 

(はやく、終わって、時雨の家に戻らなきゃ)

 

 ――と、くしゃくしゃに折りたたまれたそれが、ぽい、と自分の方に投げられた。

 

「なあ――……いつもの方出せよ」

 

 眉をしかめたまま仏頂面でこちらを見下ろす男に睨みつけられていることを知り、子どもは声につられて顔をあげたことを後悔した。

 

 からだが、固まる。一万円なんて、持っていない。どうしようもない。だけど、そんなのはこの男を納得させる理由にはならないし、そもそも伝えるすべを持っていない。男の左手は、レジを挟んだ場所の下に隠れている。

 

「早くしろよ」

 

 繰り返される舌打ちに、子どもは躊躇う。……どうしよう、どうしようもできない。
 こわい。

 

「――さっきから、おまえ何してんの?」

 

 おまえ、と語りかけるトーンが、今まで数回のみ子どもに送られたそれのトーンと酷似していたから、それは自分に向けられている。子どもにはそれがわかる。しかし、目の前の男にはわかっていなかったようだ。

 

 自分のことだと思ってか、それまで逃がさないとばかりに子どもを強く睨み下ろしていた目が、子どもから離れる。声の主――時雨は、男の視線をスルーして子どもの元へ(何をうだうだやってる)とばかりに胡乱げに歩いてくると、その手元を覗きこんだ。

 

「あ? 会計中なの? ……ほらお兄さん、早くお釣り出してよ」
「あ――……っす。千円預かります」
「おまえレジもどんくせえの。金出すのとか遅いだろ」

 

 いつもよりも丁寧に渡されたお金は、六二五円。ぴったりと合うお釣りだった。

 

「ま、いいけど。……ていうか、さ、お兄さんこいつの顔知ってんだね。いつも会計してんの?」

 

 試すような、獲物を見つけたような、獰猛な視線。振り返ってはじめて、時雨の瞳にそんな色が宿っていることに子どもは気づいた。そもそも、どこから時雨は自分が会計するところを見てたのだろうか。

 

 不意に訪れた疑問は、不遜で狡猾な男の見たことのない動揺っぷりと、たたみかけるような時雨のことばによって、確信へと変わる。

 

「こいつもう常連だからね。たぶん馬鹿で、釣りもらい忘れてるときあるみたいだから、しっかり管理してやってよ。……お釣りちゃんと受け取ってないって、あんたのせいにされるのいやでしょ?」

 

 普段、重力に抵抗して口を開くのも億劫といわんばかりに黙っている時雨しか知らない子どもは、はじめてこのひとがこんなにも饒舌になっているところを見る。

 

 腰が引けたせいで、子どもの背中はすぐ後ろに立つ時雨にふれるかふれないかの距離にあった。自分とは違う大きなその存在に寄りかかっても、たぶんこのひとはぴくりとも動かないでいられるのかもしれない。

 

 そんな思いは、男がいうだけいって、早足にそこを後にしたからすぐ消えた。子どもは呆けたような顔でこちらを見る男にぺこりと頭を下げると、「行くぞ」とも「遅いぞ」とも声をかけてくれない無慈悲な背中をのろのろとした足つきで追いかける。

 

「オニギリ三個っていつもそんな買い方してんの?」

 

 時雨がひとりごとみたいに前を向きながらいう。

 時雨は僕のことを庇ってくれたかもしれない。子どもはドキドキしながら、お礼をいわなければと思った。

 

 そんなことよりも早く寝たいのか、すたすたと歩く時雨はこちらを見ない。……声を持たない子どもにとって、見てくれないことには意思表示ははじまらない。お礼もいえない。

 

「おかしくね? サラダとか食えば?」

 

 子どもは勇気を出して腕を伸ばした。右手首に引っかけたビニール袋が、子どもが一気に動きを加速させたのと、生温かい朝の秋風が吹いたので、かさかさ音を立てる。

 

「……ねーおまえさあ、そのイキナリ腕に飛びついてくるびっくりするからやめてほしいんだけど」

 

 そうはいいながらもゆるく開かれた手に、子どもはありがととお礼をした。

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