時雨と紅葉。

二話 てのひらと一万円札

07

 十万円が、あのコンビニに十回行ったらなくなってしまった。

 

 時雨のいる時間を狙っての夕刻という時間、他に食料を調達する場所を知らないという事実、住宅街ゆえあまり利用されないそのコンビニの実情……そのすべてが、子どもから金髪のバイトに余分なお金を与えることを果たさせた。

 

 自分のテリトリーから忽然と消えてしまったお札にうなだれて、今度は細かいお金でもらおうと意気込む。

 

(また、お金くれるかな。くれないかな)

 

 ソファに乗るのは気が引けるから、もう何夜も固いフローリングで眠っている。閉じた足をおなかにくっつけて丸くなりながら、子どもは金髪のバイトに舌打ちをされる夢にうなされていた。

 

 ――やがて、朝方、施錠が外れる音が夢の隅っこで聞こえる。気づけばシャワーの音で目を開いて、きしきしと痛むからだを起こした。カーテンから外を覗くと、細くたなびいた雲が朝焼けに薄くかかっている。十回目のコンビニでみっつ買った卵かけごはんオニギリは、昨日眠る前に食べたのが最後だったから、もうない。

 

 おなか、すいた。

 

 シャワーの音が止んでしばらくすると、いつもと例外なく時雨が寝室へ向かうのを、足音で感じる。子どもはゆっくりと立ち上がって、おそるおそる隣の部屋を目指した。時雨がいないときでさえ入ったことのない寝室へ。

 

 まるで拒絶するみたいにきちんと閉められたドアを、両手でそっと開く。部屋の三分の二を占めるダブルベッド、隙間から覗いた部屋の手前には投げ出された足が映る。疲れているのだろうか、脱力したように動かない裸足、足先からスウェットに覆われた付け根にかけて視線をずらしていくと、裸の上半身と濡れた白いバスタオル。

 

「なんか用?」

 

 ぴく、と、肩が震える。寝室の扉から一番奥にある時雨の顔は、最初から気づいていたというように子どもの佇む方を向いている。脱力したからだによく似合う、面倒くさそうな目つき。

 

「……ハア。入れば? 喋らないんだったらんなところいてもしょうがないだろ」

 

 入っていいの?

 

「用がないなら俺寝るけど」

 

 入る!

 

 慌てて、猫みたいにドアの隙間からすっと入り込んだ。おずおずと、大きなベッドへと近寄る。

 

 寝室は、ダイニングルームと大した違いはなかった。余分なものが一切置かれておらず、あるのは大きなベッドとチェストのみ。時雨の寝転がる枕に一番近いコンセントからは、携帯の充電コードが無造作に伸びている。

 

 子どもが、寝転がったままこちらを見据える時雨の前に、ようやく立つ。立ったはいいが、どうしたらよいかわからない。紙もペンもない。……お金くださいって、どうやって伝えよう。

 

「……なあ、おまえって喋らないの? 喋れないの?」
「……」
「喋らないの?」
「……」
「喋れないの?」

 

 たぶん。喋らないの、と問いかけられたときには動かさなかった首を、縦に二回振った。時雨は自分から聞いたくせに、ふーん、と興味なさそうに呟いた。

 

「ほら。今、紙とかないから、ココに書いて」

 

 子どもの前に、左手が差し出される。うつむきがちだった顔をあげると、時雨が手を左右に小さく揺らす。

 

「ひらがなで書けよ。あと一文字ずつ書け」

 

 びっくり、した。

 

 時雨は面倒なことの一切をきらうって思っていた。きっと、ほんとうにそうだ。だけど、どうやら今、喋れない子どもの気持ちを汲み取ってくれようとしているらしい。子どもは緊張した面持ちで、一歩前に進んで、右手で時雨の左手を取った。ベッドと手の間に自分の手を潜り込ませて、親指と小指の付け根をやんわりと握る。

 

 シャワーを浴びたあと独特の、ホカホカしたあったかさ。

 それに、ベッドからはなんだかいい匂いがした。時雨の体臭だということは気づいていない。

 

 イチのかたちにした左手の人さし指を、自分よりもずっと大きな手のひらに滑らせる――。

 

「いやちょっと待って、ぜんっぜんわかんない。……おまえ、どっち向きに書いてる?」

 

 二文字書いて、顔をあげると、時雨がヘンな顔をしてそういい放った。そうして子どもは、自分から見た向きで書いていたことを思い出す。目の前の呆れ顔をよそに、時雨から見た向きになるように顔をぐり、とひねった。おのずとからだもベッドに乗り上げるみたいになって、いつの間にか子どもと時雨との距離が縮まる。

 

 子どもが、自分が寝転がる時雨の手に覆いかぶさるようになってしまっていることに気づいたのは、さっきの二文字を再び書き終わってからだった。だけど子どもがからだを退ける前に、鬱陶しいといわんばかりにのしかかられていた片腕が動いて、いとも簡単に小さなからだをはねのけた。

 

「か、ね……金ね」

 

 再び、距離ができる。心なしか、時雨の声はさっきよりも低く、つまらないものでも見るようにつめたかった。

 

「何、十万円じゃ足りないって? ……おまえも金に汚いね」

 

 弁明は許されなかった。なぜなら子どもがその二文字の後に言葉をつなぐより先に、時雨が立ち上がってダイニングルームへ消えていったからだ。声を持たない子どもにとって、自分を見てくれない限りはどんな会話も成立しない。子どもは再び下を向いて、仕方なさそうに不機嫌な時雨の背中を追った。

 

 スウェットだけを纏った時雨が、ダイニングルームに置きっぱなしにしていた黒塗りの財布の中身を何枚か無造作に取り出して、顔も見ずに子どもに突き出す。

 

「ほら、これでまあ数日は持つだろう……何買ってるか知らないけど、金は大切に使うものだから」

 

 子どもは、時雨の手先に引っかかっている数枚のお札を眺める。……すべてが一万円であることに気づいて、ぐいぐいとその手のひらを両手で押した。いらない、と。

 

(一万円札は……また、なくなっちゃう)

 

 いかつく細長い目つきを思い出して、からだが震える。子どもが無抵抗なのをいいことに、男は子どもが出したすべての一万円札に対し、お釣りをごまかし続けた。子どもが声を持たないことを知ると、客がどこにいようが平気でやるようになるようになっていたから、どうしようもない。

 

「何、どういうこと、おまえ遠慮してんの? ……金がほしいなんて、人間なら普通だよ。受け取りなって」

 

 ぶんぶん首を振って、子どもは一万円札を握りしめる片方の手ではなく、所在なさげにぶらさがっていたもう片方の手に突進した。わ、とか、お、とかいった時雨をそのままに、ぎゅう、と捕まえて捕まえた手に、左手の指の腹を滑らせる。

 

「ち、い、さ……い、かね?」

 

 指の感触を辿るようにして、時雨が呟く。子どもは頷いた。大きな一万円札は、すべて男に持っていかれてしまう。だったら小さなお金があれば、細かく払える。たとえお釣りをごまかされても、今までよりもお金が手元からなくなるのは遅くなるはずだった。

 

 これが、子どもが冴えない脳で絞り出した知恵である。

 

「……ちいさい、って、何? 小銭ってこと?」
「……」
「意味わからないけど……千円しか……って、千円も一枚しかねえな」

 

 子供が手を離さないので片腕を拘束されたまま、もう片方の指で器用に財布を覗いた時雨が、げんなりとした様子で「下ろすか」といった。子どもには下ろすの意味がわからない。

 

「あーあー……これから俺寝るところだったんだけど」

 

 ごめんなさい。

 

 ぺこりと頭を下げる。時雨はいったん寝室に戻って上を着てくると、その上にもう一枚ジャケットを羽織った。ぼさっとしている子どもに、おまえも着ろといわんばかりに上着を顎でしゃくる。子どもはようやく動き出して、のそのそと自分のテリトリーに畳んで置いていた上着に手をかけた。

 

 必死になって時雨の手を捕まえたときのような素早さは、既になくなっていた。

 

「銀行は遠いから、コンビニでいっか……ついでになんか買えよ。多めに、買えよ」

 

(時雨、ぼくのお願い、かなえてくれた)

 

 出かけた先から帰ってきたからか、眠そうな背中を早足で追いながら、子どもはそれがとても不思議に思えた。今まで無視されていたのに……そう考えてはじめて、自分から時雨に話しかけにいっていなかったことがぼんやりと頭に浮かぶ。

 

(ぼくも、時雨を無視してたんだ)

 

 そして時雨は、ぼくが話しかけたらこたえてくれた。
 子どもはそうしてはじめて、狭い自分の中の世界でただ一緒の家にいるだけだった“時雨”という人間に、心を傾けてみた。

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