時雨と紅葉。

二話 てのひらと一万円札

06

 ――ねえこの子気味悪いよ。リョウタああ。

 

 時に一晩で数百の金を動かす時雨の生活空間と比べ、気はいいけれどイマイチ売れないリョウタの家は小ぢんまりとしたそれなりの生活空間だった。時雨に子どもを押しつけられたリョウタは勘弁してほしいと辟易していたが、家に連れてくると「トイレはここ」「風呂はここ」「食い物はー、まあ……買ってきてやるよ。何が好き?」といった具合にペラペラおせっかいを焼き出した。子どもはその一切にことばを発することはなく、ただ頷くだけだった。

 

 アパートは幾らか長い築年数を経てやや古びた様子ではあったが、生活するのになんら差支えなかった。時雨と同じ間取りの1DKながらやや狭く、隣との壁が薄い。

 

 リョウタの住むアパートの一室で暮らしたのは、ほんの一週間だったが、子どもとしてはそれなりに居心地がよかった。リョウタはだいたい営業で家を空けていることが多かったのでひとりでいられる時間が多かったし、美味しくはなかったが適当にその辺で買ってきたらしい食べ物は与えてくれるし、お湯はあんまり張らないようにいわれたが風呂にも入ることができる。

 

 ただひとつの障害となったのが、リョウタが連れ込む女たちである。

 

 ――あーなんか訳ありでウチに置くことになったの。よく見るとちょっと可愛いだろう。
 ――なんかおかしくない? 喋らないし、表情ないし……人形みたいでこわい。

 

 リョウタはチャラチャラしたいかにもホスト、という見た目通り、営業をかねて女を家に呼ぶことが多々ある。子どもはリョウタが連れ込む化粧のきつい女を、覚えているだけで既に五人ほど知っている。女たちはたいていが、鬱陶しげに子どもを蔑む。子どもには、女たちの深い底にある心理を、ある程度汲み取ることができていた。昔、母親が連れ込む男も、こんな風に子どもを邪魔なものとして見た。

 

 それだけならまだましというものだったが、「自分が金をかけたホストが美少年趣味で、オマケに囲っている」という甚だ見当違いな誤解をした女が、叫びながらリョウタを引っぱたき、その勢いで菓子パンを食べていた子どもを引っぱたき出ていく……という小事件が起こった。リョウタは「ごめんなあ……」といいながら、腫れた頬の子どもを連れて時雨の元へ土下座しに向かったのである。

 

 子どもは、せめてものお詫びにと連れて行かれたはじめてのファミレスで注文してもらったオレンジジュースとハンバーグをゆっくりと食べながら、頼みますとかお願いしますとか、目の前に自分しかいないのに電話片手に頭を下げるリョウタを眺めた。

 

 ヘンなひと。
 なんだか、やさしいひと。

 

 でももう会えなくなってしまうかもしれないんだ。

 

 明るくてカチカチの髪の毛も、耳に散らされた痛々しいシルバーのピアスも、昼間の東京には馴染まない派手な服装も、母親の男をどこか思い出させられて全然好きじゃなかったけれど、時雨の家へ手をつないで歩けるくらいには、子どもはリョウタを好きになっていた。

 

 ごめんなあ。
 おまえのこと、結構いいと思ってたんだよ。時雨さんのところ行っても、時々は会いにくるからなあ。

 

 って、何度も謝るから、もう謝らなくていいよと、つないだ右手を力いっぱい握ってみたが、鈍感な男は子どもの気持ちを察することなく延々と泣き言を続けていた。

 

「ほら」

 

 珍しく、というかはじめて子どもがいるこの空間で、ソファに座っていた時雨に手招きされて近寄ると、手の中に軽い紙の重み。一、二、三、……ちょうど十枚。茶色っぽい紙の割には、光沢があって、映るおじさんはキラキラしている。子どもは時雨を見た。

 

「これで、十万。あと、これ見な」

 

 携帯をぽん、と渡されて、覗き込む。そこには青い点と、赤い点をつなぐ線が示されていた。子どもは不思議がってぐるぐると携帯を回しながら、それを見つめる。

 

「それ見て、コンビニの場所覚えろ。で、おまえは今後そこで食い物を調達してくるんだ」
「……」
「わかったか」
「……」
「覚えたか?」
「……」
「これ見てなんでわかんない? マンション出て左だよ。直進。おまえやっぱり馬鹿なんだろうね」

 

 携帯を奪うように取り返されてしまった。子どもはとりあえず渡された、手にしたことのないお札たちを、自分のテリトリーであるダイニングルームの隅っこに持っていき、一万円だけポケットに入れた。

 

「で、おまえが買いに行けるのは、俺が家にいるときだけだから。飢えないように計算して買え。……多めに買えよ」

 

 リョウタにはじめて買ってもらった、卵かけごはんオニギリ、あるかなあ。

 

 聞きたかったけれど、時雨は用事済んだといわんばかりにさっさと踵を返して寝室へ入ってしまったし、子どもには時雨を呼び止めるすべがない。いつもみたいに、問いかけを諦めて隅っこのフローリングに寝そべった。
遮光カーテンをつまんで外を覗きこむと、薄暗くなりはじめている。空と住宅の境目が薄紫に染まっているのを見て、(こうしちゃいられない)と子どもはのそりのそり立ち上がった。

 

 ――で、おまえが買いに行けるのは、俺が家にいるときだけだから。

 

 時雨は夕方になると出かけてしまい、ひどいときは太陽が高く昇る頃まで一向に帰ってくる気配を見せない。昨日から着続けているリョウタに買い与えられた服をそのままに、リョウタに買い与えられた真新しい靴、真新しい上着を羽織って、恐る恐る重い扉に手をかけた。

 

(ぼくは、扉を引いたら外に出られる)

 

 子どもの脳裏に、野分でも訪れようものなら吹っ飛びそうなほどボロボロの、木造の玄関が映る。わずかに開いた押入れの引手から覗いたそこから、何度も飛び出してみようと思ったけれど、足が震えてできなかった。

 

 ドキドキ、子どもの小さな胸が高鳴る。

 両手でつかんで、からだ全体で押すようにしておもむろに開く。肌寒い風が子どもの前を突き抜けた。

 

「……っ」

 

 ひゅ、という喉奥の声にならない音。子どもが、微かな興奮とともに息をあげた。

 

 すっかり、秋の寒さが押し寄せてきている。

 

 ドキドキする心臓を抑え、(マンション出て、ひだり)と頭で繰り返しながら、エレベーターがあるにも関わらず階段をトントン四階分降りて、コンビニを目指す。

 

 住宅街に馴染まずぺかぺか光るコンビニについたところで、ほっと一息つく。後ろを振り返って、はじめて見るその場所へ足を踏み入れた。聞きなれない音が、子どもの通った後を辿るようにして耳に届くから、ピクリと肩が上がってしまう。

 

(卵かけごはんオニギリ、卵かけごはんオニギリ……。時雨は多めに買うよういっていたから、みっつ、買ってもいいかな)

 

 一万円ならたくさん買えるのは、子どもでも分かる。辺りを注意深く眺めながらたっぷり時間をかけて一周した店内の最後のエリアで、それを見つけた。リョウタに買ってもらった売れ残りのそれは、つぶつぶの炒り卵が丸いオニギリに交じるチャーハンに似たものだったが、なぜか卵かけごはんをうたっていた。子どもにセンスのないそのネーミングが分かるはずもなく、いつもよりも弾んだ手でそれをみっつ手に取った。

 

 店員は、髪の毛を金髪に染めた細い目つきの若い男だった。子どもが店内に入る際に響いた音につられるようにして出てきてから、四方に顔を動かしながらちまちまと店内を散策する様子を眺めている。首からぶら下げたネームプレートは、名前が見えないよう胸ポケットにしまわれていた。

 

 だるそうなバイトは同じオニギリをみっつ、大事そうにレジに持ってきた子どもを胡散臭そうに眺めた。子どもがそっと持っていたそれを乱暴に持ち上げ、値段を確認する。子どもは乱雑に扱われたオニギリに何かいいかけたが、すぐに口をつぐんだ。

 

「三七五円です」

 

 子どもは小さくたたんで丁寧にしまっておいた一万円札を、そっと差し出す。リョウタに服を買い与えてもらってもなお貧相さを隠せない子どもの雰囲気と、紙幣とのアンバランスさに、店員が一瞬瞠目した。

 

 細い目がますます細められて、まるで訪れた獲物を慎重に観察する蛇のように、注意深く辺りを一瞥した。

 

 一万円札をさっと取り上げると、釣銭機から慣れた手つきで小銭を取り出した。レシートもろとも投げるように、子どもへと無骨な手を差し出す。子どもは反射的に手を伸ばして、それを受け取った。続いて、みっつのオニギリが袋に入れられる。

 

「六二五円のお返しです」
「……?」

 

 小銭を眺めて、店員を見上げる。店員が子どもをゆるく睨めつけた。

 

「何か」

 

 子どもは、お釣りと、出したお札の方向とを、交互に指さす。既にお札は回収されているらしく、見当たらない。子どもが一万円を出した証拠はどこにもなく、店内には子どもと店員以外だれもいない。困ったようにもう一度、お釣りと出したお札の方向とを指で確認しようとした。

 

「うっせーな。買い終わったなら出てけよ」

 

 お釣り、違う。

 

 ひゅう、と喉元が鳴るだけ。ここには主張できる紙もペンも見当たらない。しかしだれかがこの場所に仲裁に来たとして、どこかみすぼらしいこの子どもから一万円札が出ることを想像できるだろうか。

 

 帰ってこなかったお札を、子どもはついに諦めた。頭上に舌打ちが降ってきたから。震えたからだをぎゅっと抱きしめて、でもかろうじてビニール袋は腕にひっかけ、コンビニを走り去った。

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