時雨と紅葉。

一話 紅葉とペットボトル

04

 いやっすよ、とか、おれ子どもとか汚いのとかダメっす、とかなんだとかギャーギャー喚いているリョウタに子どもを押しつけて風呂に入れさせている間に、時雨は手早くオーナーに連絡した。

 

「ええーそっかあ。どうしようかなあ。僕、意外と子ども好きだからなあ。どうしようかなあ」

 

 うーん、うーん、とこちらでも煮え切らない対応をされて、いつもなら出勤に備えてひと眠りしているところを面倒な雑用を押しつけられた上に知らない子どもというオマケまでついて何やらどっと疲れていた時雨は、早々に電話を切った。

 

 時雨の住む五階建てマンションは、それなりに小奇麗な1DK。一人暮らし向けにコンパクトにまとめられた部屋は、黒を基調とした必要最低限の家具で整えられている。室内がきちんと落ち着いているのは、物に執着のない時雨が買い物をしないから。その代わり、適当に買ったままクローゼット内に放置された掃除機の出番がいつまでたっても来ないせいで、よく見るとやや埃っぽい。たまに部屋を訪れる時雨の女が掃除をするだけなので、頻度が多くないのである。

 

 浴室でリョウタが意識のない子ども相手に四苦八苦しているだろう中、時雨は携帯を投げ捨て、煙草をふかした。

 

「これ……まじでどうするんっすか……」

 

 風呂に入ったというのにリフレッシュした様子はなく、げっそりとしたらしいリョウタが、意識のない子どもにドライヤーをゴウゴウ当てながらいった。ドライヤーの威力が強すぎるのか、栗色の髪はクシャクシャにひっくり返っている。リョウタの服はさっきまで着ていたものと同じだが、子どもの服はひどい匂いが染みついていたのでリョウタに洗濯機にかけさせた。子どもの服もパンツもないので、秋には肌寒そうな黒いTシャツを適当にかぶせた。

 

「それにしても……やっぱり立派な部屋っすねえ。久しぶりに入ったけど……おれもこんな部屋住みてえなあ」
「おまえ来たことあったっけ?」
「なんかの用事で一回くらいあった気がします。時雨さん、基本的に超特別な女しか中に入れないじゃないですかあ」

 

 超特別な女、というのではなく、付き合いの深くなったセフレ、という言い方が正解なのだが。時雨は基本的に目の前で目を輝かせるリョウタのように店の客をダレコレ構わずたらしこんで部屋に入れることはしない。不特定多数の女と適当に付き合うよりも、基本的に一度続いた女と付き合い続けるという方が楽――ということに気づいてから、時雨はとにかくセフレを切りまくった。幾度とない修羅場を経て、現在時雨の部屋に足を踏み入れることのできる女は二人しかいない、というのはリョウタでも知っている職場仲間内で周知の事実だ。

 

 そんな男が、いくらガイジンみたいに中性的とはいえ男の子どもを、まあよく部屋に入れたなあと、リョウタは密かに思った。

 

 四方に髪の毛を飛び散らせているせいでぐしゃぐしゃな顔になっているものの、相変わらずされるがままになりながら深くまで瞼を下ろす子どもは、ひどく中性的である。髪の毛が長いせいか、元々の小づくりな顔立ちのせいか。汚れを落としてきれいにしてやると隠しようもなくなる、値段の張る上等な人形みたいな気品を纏っているからだろうか。

 

「とりあえずオーナーに電話っすよねえ」
「もうした」
「え、なんていってました? こいつに払わせるんっすか? ……おれそういうのいやなんだけどなあ……」

 

 温室育ちの坊ちゃんは、変なところで人情味が出るらしいオーナーと同じようなことをぼそぼそと呟く。

 

 時雨は無言のまま、もう何本目か分からない煙草に手をかけた。ちょうどそのタイミングで、子どもの重そうな瞼がおもむろに開く。適当にドライヤーを当てていたリョウタが、不意に下を向いて、それと目が合った。

 

「時雨さん」
「なんだ」
「……起きました」
「あ、そ」

 

 ソファに座って煙草に火をつけながら、フローリングで寝かされていたからだを見下ろした。あの、黒々とした目と視線が合う。アンバランスな顔は、やはりあのとき公園にいた子どものそれそのものである。

 

 子どもは、パチパチと数回まばたきをしたあと、不思議そうに辺りを見回した。首をぐるぐる回すので、ますますドライヤーに髪を散らされる。どうやら知らないところにいると分かると、自分のからだを見下ろして、黒いワンピースみたいなシャツをにぎにぎと両手で握った。

 

 目の前には、黒塗りの服装で煙草をふかしている目つきの悪い男、後ろにはなぜか自分にドライヤーを当てるチェリーブラウンの髪色をしたチャラそうな風貌の男、おまけに自分は知らないところにいる。叫び声ひとつくらいは上がりそうなものだが、子どもは驚きも泣きもしない能面のまま。なんの感情も読み取れなかった。

 

「なにおまえ……気持ち悪いなあ、顔色ひとつ変えねえの」

 

 リョウタとて、子どもに思うところは同じだったようだ。

 

「……おれたちのことは分からないと思うけど、おまえと一緒に暮らしてる母親……なのかな、とにかく若菜っておばちゃんに用があるんだけど」

 

 ヘルプに入ったとき媚び売るみたいに「若菜さん」「手、きれいっすね」とかいってたやつが、あっという間におばちゃん発言である。

 

 子どもはリョウタに後ろから話しかけられながら、なぜか時雨を見て、それからしばらくしてリョウタを振り返って、首を横に振った。ということは、あの女とつながりのある子どもで間違いはないということだろう。

 

 ドライヤーが終わった。けたたましい音が止んだのをきっかけに、子どもが上半身を起こして、ぺこりとリョウタに頭を下げる。

 

「何それ、ありがとうってこと? はいはい、どういたしまして。……てかおまえ、細いね。食ってる?」
「……」
「さっき死んだみたいになってたから、もしかしてはらへって倒れたのかなって。……部屋もきったねえし、あれじゃ食うもんないだろ?」

 

 さっきまで子どもきらいとかいっていたわりには、なぜか子どもに向かってペラペラ話しかけているリョウタ。見つけ出してからこの短時間で、どっかに絆されたのか、それともこういう世話焼きはリョウタの性分なのか。

 

(腐っても温室育ち)

 

 リョウタから繰り出される一方的な問いかけを他人事みたいに聞きながら、時雨は煙草を潰して再び箱から新しいそれを繰り出す。

 

「なあ、なんか食える?」

 

 子どもが、まるで震えたくらいの小ささで、首を縦に振った。

 

「無理? いらない?」

 

 ただリョウタには伝わらなかったらしい。その辺は鈍感らしく、子どもは伝わっていなかったことに落胆する様子はない代わりにそれ以上動こうとしなかった。

 

「おい」
「へ? はい?」
「今食うっつっただろ。買ってこい」
「え、まじっすか? じゃあ買ってきます……って、なんか家にないんっすか!?」

「ない」

 

 冷蔵庫には、寝酒のために買ったはいいが、あまり飲まれることのない缶ビールが眠るのみである。恐る恐るといった感じで使われないままきれいなキッチンや、その下を覗き込んだリョウタが、「カップラーメンすらない……おれの主食……」と、絶望的な声を出す。

 

「しかたないっすね。コンビニ行ってきます。ついでに時雨さんなんか食べます? オニギリとか」
「いらない」
「コンビニって一番近くだとどのへんっすかね?」
「自分で調べろ」
「う……充電がもう少ないんっすよ!」

 

 といいながらさっさと調べたらしいリョウタが、上着を羽織る。子どもは何が食べたいか聞かれたが、答えることはなかった。声が聞こえていないわけではないのだろうが、人間が見る世界から何枚もの壁を隔てているかのような、不思議な鈍さを持っている。リョウタは小首を傾げながらも「とりあえずいってきます」と、マンションを出た。

 

 扉が閉まる音を聞いて、子どもはリョウタが出て行った方をぼんやりと見つめる。いなくなったことがわかると、ゆっくりと視線を下に彷徨わせた。相変わらずブカブカのティーシャツを着てぺたりと座り込んだまま。

 

 既に室内はヤニ臭い匂いで満ちている。煙草の火を潰して、時雨は子どもを放ったままキッチンのン流しへ向かった。酒……は出勤前なので、水を飲もうと思ったからだ。普段からだが酒を欲することは少ないのだが、今日はなぜか酒を飲みたかった。

 

(出勤したら、どうせ飲むだろうし)

 

 そうして移動しようとしたら、それまで緩慢な動きを繰り返していた子どもがなぜか立ち上がり出した。そして、時雨の後ろをついて回ろうとして――ふら、と足元を揺らす。まるで力が入っていないように弱々しい足が崩れて、からだは時雨の方へ倒れていく。

 

「……おまえ、誰かに突っ込むの、趣味なの?」

 

 子どもは答えなかった。代わりに、時雨のからだをずるずる伝うようにしてへたり込んだ。まるで、ほんとうに足に力が入らないというように。

 

(軽い)

 

 何もモノが詰まっていないような、奇妙な軽さだ。それに、骨っぽい感触。シャツの裾から覗く二の腕や手首、足を見ただけで容易に想像できるが、かなり貧弱なからだである。

 

「ほんっとになんも食ってねえのな、おまえ」

 

 立ち上がったまま時雨に見下ろされた子どもが、うなだれた。時雨は、足元を掴む子どもの手を乱雑に振り払い、水切りに置かれたコップに不味い水道水を注ぐと、さっきと同じ場所に座り込んだままの子どもの元へ今度はしゃがみ込む。

 

 コップを差し出すと、両手で受け取った子どもが、零さないようにおずおずとふちにくちびるをつけた。こく、こく、と、少しずつ水を嚥下する音が、辺りが静寂に満ちている分鮮明に時雨の耳に響く。

 

 時間をかけて、だけど一滴も残さないというように飲み終えた子どもが、時雨にコップをぐいぐい押しつける。もう一度水を汲んできてやると、さっきリョウタにしたみたいにぺこりと頭を下げて、こくこくと飲みはじめた。

 

(猫……)

 

 飲むスピードといい所作といい、猫を想起させるような子どもである。そんなことを思っていると、さっき放り投げたソファの携帯が振動した。ヴーヴー、という音に、表情は変わらない者のやや驚いたらしい子どもがコップを取りこぼしそうになる。

 

「はい」
『あー時雨? 僕です、僕、僕』
「なんすか」
『あのね、とりあえず谷口さんのこと考えたんだけどね。とりあえずきみさ、飛んだ女のお金払えるよね? で、子どもの方なんだけど、僕の方で色々と考えておくから、ひとまずきみのところで預かってよ』
「……は?」
『いや、だってね、谷口さんいなくなっちゃったんでしょ? その子ひとりじゃ生きていけないんじゃないかな。きみお金あるし、ひとりくらい養えるでしょ? ね、売るなんてかわいそうでできないんだけど、このままじゃ施設にも入れてあげられないしねえ。じゃ、頼んだよ?』

 

 こく、こく、と一定のリズムで、我関せずとばかりに水を貪る子どもの音は、「はい戻りました! ほらごはんですよ!」というリョウタの帰宅の音にかき消されていった。

 

 時雨といえば、たださっきの仕返しといわんばかりに一方的に通話終了場面にされた画面をただ無表情で眺めた。

 

「いや、なんかあんまり打ってなくて。卵かけごはんオニギリとか、なんかヘンなの買っちまいましたー……って、時雨さんなんでそんなに機嫌悪くなってんすか!?」

 

 水を飲み続けている子どもの前にしゃがんで、ビニール袋から卵かけごはんオニギリを取り出したリョウタが、嬉々として

 

「どうだ? ヘンなオニギリだろ」と話しかけている。とりあえず時雨は、携帯を放ったままリョウタを呼んだ。

「え、なんすか? 時雨さんも卵かけごはんオニギリ食べたいんっすか?」
「おまえそいつ気に入った?」
「は? え、んー……そりゃその辺のガキと比べたら静かでいいっすけど、おれ元々子どもはにが……」
「じゃ、連れて帰れ」

 

 は?

 

 リョウタが素っ頓狂な声をあげて、不器用な手で卵かけごはんオニギリをビニールから出す作業に夢中になっている子どもと、時雨とを、交互に見た。

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