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十話 ウイスキーと建前 031

 自他共認める風呂好きのあきは、湯船に浸かっている時間が圧倒的に長い。のぼせるという経験をしてから気をつけるようになったが、それでも長い。どうしてもお風呂に浸かっている時間を長くしたいときは、温めのシャワーで頭やからだをあらってから、もう一度めいいっぱいバスタブでプカプカする。

 とはいえ、自分が風呂好きであることに気づいたのは最近だった。
 時雨がそういったからである。

 ――おまえね、風呂長すぎ。すきなのはわかるけど、次のぼせても知らないから。

 そう時雨にいわれて、ぼくはお風呂がすきなのかと納得した。“すき”という感情に疎いあきにとって、いまだにすきなものと自分で自覚しているのは、たまごとお風呂くらいである。

 でも今日はリョウタがいるから、と、いつもよりもすこしだけ短めにバスタイムを済ませて、時雨のおさがりのスウェットを纏ってリビングへ戻ると、ちょっとだけ顔を赤くしていたリョウタがケラケラ笑いながら、

「いやおまえ風呂長すぎだし、女かよお」

 絡んできた。いつもよりも容赦なく抱き込まれて、いたい。
 ソファで座る時雨と、その下に腰を下ろすリョウタの間に置かれたテーブルには、すでにいくらか空になったアルミ缶と、琥珀色のキラキラした液体の入る瓶と、コップと、氷と、さっきリョウタが買い物かごに突っ込んでいた“つまみ”少々。すでにぐちゃぐちゃ。

「かわいいなあおまえは。ぬいぐるみさんかなあ」

 意味の分からない絡まれ方をされながら、あきはちょっとだけ様子のおかしいリョウタと、斜め上でつまらなそうにテレビを見るソファ上の時雨とを見比べる。

(お酒が、リョウタをへんにしちゃった……)

 お酒でひとがへんになるのは知っている。おかあさんも、おかあさんの男たちもそうだった。おかあさんはお酒を飲むとあきの前ではヒステリックになるし、男のひとの前ではチョコレートみたいにどろどろに溶けていた。男のひとは、さまざまだった。暴力的になるひともいれば、あきにへんなさわり方をしてくるようになるひともいた。
 あきはお酒が苦手だったけれど、リョウタのこれくらいなら、別にいい。

「おまえ、いいにおいするー」

 リョウタ、あつい。

 お風呂上がりの火照ったからだに、あついからだが巻きついてきても困る。あきはぎゅうぎゅうしてくるリョウタのからだを押しやって、ソファ上に逃げた。空いていた時雨の左隣に、猫みたいにするりと移動する。

 リョウタは笑いながら、空けてしまったビール缶をガシャンと潰した。

「時雨さんウイスキー飲みましょ! 買ってきましたー!」
「ていうかおまえ、よく休みでも飲めるわ」
「時雨さんザルでしょ? 全然酔わないんですもん」

 そう言いながら、リョウタはふたつのコップに置いていた氷を入れて、その上からテーブルに置かれていた琥珀色の液体を注ぎ込んだ。からからと音がする。

(……半分くらいだ)

 あきは自分のリンゴジュースが冷蔵庫に入っているのも忘れて、食い入るようにリョウタの慣れた手つきを見つめた。
 きれい、甘そう。美味しそう。

「なに、あき。これ気になる? 舐めてみる?」
「おまえはだめ。どうせひっくり返るから」
「うー……保護者の時雨さんにいわれたら、俺はあきになんもできないじゃないっすか」
「保護者じゃない」

 時雨は仕方なさそうに、たっぷりの氷に半分だけ注がれた琥珀色のそれを受け取った。保護者といわれると、時雨はげんなりした顔をする。

「いっとくけどなあ、あき。俺も時雨さんも、中学生の頃なんざがんがん飲んでたんだからな。おまえはまだまだガキンチョだけど、そろそろ酒の味も覚えなきゃだからな」

 あきは時雨のてのひらを取って、『おさけあまい?』と聞いてみる。全然、と返ってきた。それでも、気になる。どうしたって、時雨が口をつけているそれは、なんだか甘そうに見えるのだ。

(きれいな飲み物……)

 試しに手を伸ばして、ちょうだいポーズをしてみたが、無視された。
 む、時雨、ぼくのことわかるはずなのに無視してる。
 前に時雨はぼくにこーひーというものを飲ませてくれた。それなのに、そのういすきーというものは飲ませてくれない。あきはちょっとだけ、むっとする。

「あきーこっちおいで!」

 いやだ。リョウタあつい!

 あきは首を横に振って、その場から動かない。リョウタがしょぼくれて、ぐいっとウイスキーを煽った。すこしずつ、あきが虎視眈々と狙うウイスキーが、なくなっていく。時雨とリョウタは同じくらい飲んでいるのに、時雨の顔色がいつまでも変わらなくて、リョウタの様子はどんどんおかしくなっていった。

 しまいには、おぼつかない足取りになったリョウタに追い回されそうになって、慌ててとなりにいた時雨のからだに、キツツキのように張りついた。リョウタは「そこまでしても俺のそばいやなんだあ……ショック、俺、ショックだよあきい」と萎んだ。そうしてまた、お酒を飲む。

 無我夢中で抱きついた時雨からは、さっきまでのボディソープの代わりに、苦いたばこのにおいがした。いいにおいとはいえないそれを、時雨が室内で吸っているのはあまり見たことがなかった。じい、とたばこをくゆらす時雨を見上げる。

(いつも、吸わないのに、お酒飲んだから?)

 時雨は、お酒を飲むとたばこを吸いたくなってしまうのだろうか。そんなひとはあまり見たことがないけれど。
 充満してきたにおいを外に逃がすべく、窓を開けようとカーテンのそばによると、いつの間にか夜も深くなってきていた。窓を開けると、真っ暗な夜の冷たい空気が舞い込んできて、思わず震える。

(冬みたいな、夜だなあ)

 分厚くて重い時雨のスウェットでも、寒さのすべてを取り除くことはできない。あきはしゃがみこんで、転ばないようにくるぶしの上まで折っていた裾をちょっとだけ戻した。転ぶリスクよりも、ぬくぬくを優先したのである。ついでにリビング以外のドアも空けて、換気しようと部屋を回る。

 戻ると、リョウタがテーブルに突っ伏していた。この短い時間で、喚いていた声がなくなったかと思ったら、そろそろ眠くなってきたらしい。お酒ってせわしないなあと思いながら、あきはうごかなくなったリョウタの顔を見下ろした。……完全に目が深く閉じられている。

(寝ちゃった。……あっ)

 そのとき突然降ってわいたアイディアにはっとして、キョロキョロあたりを見回した。時雨はなぜかいなくなっている。トイレかな、もう寝室で眠ってしまったのかな。

 なんにせよ、時雨もいないのだ。

 注意深くだれも自分を見ていないことを確認すると、ほとんど力の抜けたリョウタの手から、ゆっくりとコップを摘出した。起きるかな。ドキドキと胸が高鳴って緊張したけれど、それは案外かんたんに、するりとリョウタの手のひらを抜けてくれた。

 コップは空だ。いつの間にか、たっぷりとあった氷が溶けてしまったらしい。
 そしてあきは知っている。以前に茉優に買ってもらって飲んだジュースは、氷が入っているとちょっと薄くなるけれど、ないとそのまま甘くて濃い味になることに。

(氷ないほうが、甘いもん)

 時雨とリョウタは、甘いのきらいなのだろうか。たっぷりの氷に、ちょっとのウイスキーを舐めるように飲んでいたふたりを思い出して、あきは首をかしげる。ふたりの飲み方はフルシカトして、コップに原液だけを注いだ。注いだ液体からは、弱々しくもかいだことのないかおりが漂ってきた。

 お酒って、なんか、へんなにおい。
 すでにウイスキー自体がそんなになかったけれど、一杯分は残っていたらしい。ちょうど瓶が空になる。

 瓶を適当に散らかったそのへんに置いて、はやる気持ちを抑えきれず、コップを手に取った。はじめての体験に、鼓動が高鳴る。

 ゆらゆらと揺れる琥珀色の液体は、やっぱり、リンゴジュースを彷彿とさせる。けれど、リンゴのにおいはやっぱりしない。
 いただきます、と心の中で手を合わせて、コップに口をつけた――と、いつの間にかそばにきていた手にひょいっとそれをかっさらわれる。あ、と思う隙もなかった。

 あきの最大の誤算は、目の前のそれに意識を向けすぎていたせいで、後ろから歩み寄る影にまったく気づかなかったことだった。そうして。

 あ、ああー……。うう……。

 もし声が出たとしても、そんな、日本語にならない情けないものになっていただろう。唖然とするあきの前で、時雨がすべてを飲み干した。並々注いだはずのそれは、一滴残らずなくなる。吸い込まれるように。

 ショックが止まらなず放心状態のあきを無視して、時雨は何事もなかったかのように、空になったコップを置いた。コツンという音に、リョウタが不協和音を聞いたみたいに眉を潜めて身じろぎをする。

(ぼくの、ういすきー……)

 何事もなかったかのようにソファに座った時雨に、にじりよる。さしずめ、ぼくのウイスキー、という意味だ。

「おまえね、あれ全然甘くないから」

 でも、あの見た目は甘そうだよ! 時雨うそつきなんじゃないの!

「喉が焼けるぞ」

 え、焼けるの? 喉が焼けるって、火がつくの?
 あきが「いまやけてる」と問う。時雨はああ、と頷いただけである。時雨の顔は、奇妙なほど変わらない。リョウタは顔が真っ赤になっていたけれど、時雨はお酒を飲んでもへんにならないのだろうか。不思議に思って、時雨を見上げた。ぱっちりと目が合う。

 時雨は、いつもこんなにも穴が空くほど自分を見つめるだろうか。あきはすこしだけ居心地が悪くなって、目をそらした。

「水」

 ……みず?

「水持ってこい」

 こくんと頷いて、キッチンへ行く。時雨は水がすきなのかな。知らなかった。コップは出払っていたので、マグカップに水を注いで、時雨のいるソファへ戻る。

 ソファに座る時雨は、――時雨の様子は、なんだかへんだ。纏っている空気がいつもと違うような気がする。本能的にそう思いつつも、ぼうっとしている時雨にマグカップを持っていく。
 時雨が伸ばしてきた手に、マグカップを当てた。そうして時雨が持ったのを確認してマグカップを自分の手から離した――つもりだったのに、それはするりと時雨の手を抜けて、あっという間に落っこちた。

 ごとん、という音とともに、ソファの下とあきと時雨の足に、水が飛び散る。冷たい水の感覚に、思わず下を見た。室内の明かりに照らされた床は、びっしょりと濡れた。

(マグカップ……割れちゃったかな)

 しゃがんで、落ちたそれを確認するように手を伸ばした。よかった。割れたりはしていないみたい。
 ふいに、追いかけるようにしてきたあつい手の甲が、無防備にマグカップを注視していたあきの頬を滑った。時雨からふれてきたことに驚いたからだが、固まる。

(時雨……?)

 見上げると、強い視線に絡め取られた。常に脱力しているみたいないつものそれとは、今日はぜんぜん違う。まるで、獲物を見る獣のような目で、あきを見下ろしている。ぴくりと、からだが固まった。
 時雨はまぎれもなくあきを見下ろしている。でもその双眸には、いつもと全然違う景色が映っているみたいな、奇妙な雰囲気だ。なんだか、時雨がおかしい。

 からだに緊張が走る。

 ――逃げようと思ったあきよりも早く、時雨がそのからだをすくいとった。無遠慮に回された手に、悲鳴をあげるみたいにくちびるが動く。声はひゅうっという、喉から空気が出ただけの音に変わる。

 なにが起こったのか、すこしも理解ができなかった。あきはそこではじめて、自分の抵抗くらい時雨にはどうってことないことを知る。

 あきの腕をソファに押しつける手には、制御不能になった強い力が込められている。押したって引いたって捻ったって、ピクリともしない。

「ムカつく」

 口を吐いて出たことばは、いつもより低く掠れている。

「おまえなんなの。なんで俺がさわんのはビクビクすんの」
「……っ」

 そんなの、知らない。首を横に振る。

 視線をそらそうとしたら、伸びてきたもう一方の大きな手が、あきの顔にふれてきてすっかり固定される。せめてもの抵抗にとばたつかせた足さえ、時雨が乗り上がってきたせいで封印されてしまった。

「おまえ見てると、イライラする」

 そのことばとともに降りてきたそれに、これまでで一番、固まった。そのことはあきのことば少ない辞書には説明書きがなかったのだ。……まず、なにが起きたのか全然わからなかった。

 ぽかんとした半開きのくちびるに、時雨のそれが当たる。やわらかい感覚に、目をぱちぱちしばたかせる。すこしだけくちびるを離した至近距離の時雨が、「くそ色気ないな」と低く唸る。

(今の、なに? ……くちびると、くちびるが、……くっついた)

 くちびるからかおったのは、強いお酒のへんなにおい。それは奇妙な酩酊感を誘った。決して、甘いリンゴジュースの味ではない。
 ピントが合わない位置で、時雨を見上げる。時雨にさわられている原因不明の緊張と、なにが起こっているかわからず置き去りにされた疑問とが重なって、あきの心はすっかり混沌にまみれている。

 ずり、と頭を動かして、首をかしげる。今のなに、と時雨に問うている。その様子を見ていた時雨が、なにかをこらえるように。息を吐いた。

「なんか、」

 時雨がことばを切る。顔を掴んでいた手が、あきの骨格を確かめるように首筋や肩を伝った。

「俺、おまえ見てると無性に、ヤりたくなんの」

 なんなんだもう。そうつぶやいて、時雨はなにかを必死でこらえるように、あきの肩口に顔を埋めた。それは燃えるようにあつかった。

 そのあつさを感じてはじめて、あきは気づいた。時雨も、リョウタと同じように、お酒でおかしくなっていることに。

 ――俺、おまえ見てると無性に、ヤりたくなんの。

 それはどういうことなのだろう。心もからだもすべてが幼いあきには、それが意味することを紐解くことができない。自分に寄りかかってくるからだの重みが容赦なくなってくるのを感じながら、あきは緊張を落ち着かせるように目を閉じた。

(胸、いたい)

 いつからだろう。ウイスキーの入ったコップを手に取ったときなんかとは比べ物にならないようなドキドキが、あきのからだをいつの間にか支配していた。まるで病みたいに早まった鼓動に、胸をさする。

 それから、おそるおそる自分の薄いくちびるを撫でた。

 ――一瞬だけ、それでもしっかりと、時雨とくちびるが重なったことは、なんだかとても特別で、大切にしなければならないことに思えた。ほんのり芽生えた高揚感と、時雨がふれているという緊張感、一晩中同衾していた。

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