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九話 たまごやきと半分こ 027

『――れ、時雨。ねえ、聞いてる?』
「あ? 聞いてるよ」

 聞いてる? と、聞いてくる女はきらいだと時雨は思う。だいたいにおいて、そうやって聞く女は相手が自分の話を聞いていないことを知っているし、知っている上で注意を促しているのだ。

 聞いてねえよ、と思いつつも、次は善処して聞くという意味での「聞いている」と答えながら、時雨は連絡が繋がった耳の奥で話を続ける機嫌のよい声を、右から左へと流す。ベッドに寝転がっているため、携帯を耳に当てる必要はなく、枕元に方っておいている。そのせいか、聞こえてくる声には距離がある分雑踏が紛れている。

『で、時雨。今度はい会えるの? この間は急に呼び出しておいて。茉優さんから時雨は枯れ気味っていわれたんだけど、そうでもなかったし安心しちゃったよ』
「あーそいやおまえら連絡取ってるんだったっけね」
『後輩として、色々と時雨のこと教えてもらうと思って、わたしから連絡先聞いたの』

 だろうなあ。
 茉優はこういう頭のゆるそうな女とは、基本的に付き合わないだろうし。妙に納得がいって、時雨ははあと気のない返事を返す。どんな情報がやり取りされてるんだかと、茉優からそのことを聞いたときはややおっかなかったが、おおかたルリがペラペラと一方的に喋っているくらいのことだろう。

 まあ、いらん情報が飛び交っていたところで、どうということはないけれど。

 そろそろ切ろうかと、天井をぼんやりと見つめながら手探りで携帯を探す。お目当ての携帯ではなく、昨日した会話のページに折られたまま放っておかれているスケッチブックに指先が触れた。最近めっきり、このあたりに放っておかれている。学校にはスペアで買ってやったもう片方を持たせてある。

 発熱して以来、あきの住居はあのソファからこのだだっ広いベッドの片隅に変わった。引っ越しはスケッチブック一冊のみでいつの間にか終わっていたようなので、しばらくは気づかなかったが、最近確信した。

(ベッドのほうが寝心地いいって、気づいたのかね)

 時雨とあきが揃って眠るタイミングはめったに訪れない。たまにそのときが訪れると、横目で「邪魔だな」という視線を向けてみるけれど、鈍感で妙に無神経なところがあるあの子どもには全く効果がなかった。しかたなく肩を並べても別に対した害もなく眠れたのは、あきが特に寝相が悪いわけでもなく、寝ている間はまるで仮死状態かのごとく歯ぎしりも寝言もなく、おまけにからだもほぼキッズサイズだったから。――ようは、さして気に留めるもんでもなかった。

『もーやる気ないんだから。この間のあの呼び出しはなんだったんだか』

 わざとらしいため息と、甘えたような声。
 確かにこの間は、無性に女を抱きたくなって、とっさにルリの携帯を鳴らした。問答無用で来いとだけいったのにノコノコやってきたからだを、となりであきが眠っていると知りながら、ひたすらに貪った。

 つい数週間前だというのに、ルリの肢体どころか、吐息ひとつとして思い出せないのは、あまりにも度が過ぎるほどの興奮を感じていたからではない。

 女のからだをかき抱いたのは、もっと別の理由だった。抱かなければいけなかった。そんな気がしていた。
 寝室の向こうで、開けっ放しの玄関がゆっくりと開かれるのを感じた。ドアを開ける仕草までも妙にどんくさいのを感じながらも、シーツにぴたりとつけていた背中を持ち上げる。

「わり。切るわ」
『えー? ほんとに?』

 何か続くかもしれなかったが、その前に通話を終了させ、ベッドから降りた。

 時雨を起こさないためにだろうか、遠慮がちに音を立てる玄関に敏感になってベッドを降りる瞬間、いつから自分はこんなにもあの子どもに振り回されるようになったのだろうといささか腹立たしくなる。

 ほんの2ヶ月前までは、時雨の世界の片隅にも存在しなかった、時雨のきらいな生き物ランキングでまず上位にランクインするであろう“ガキ”カテゴリーのあいつが、ぶっ倒れた日から妙に気にかかる。
 時雨は素知らぬふりをして、脱衣所を覗き込んだ。よれたワイシャツが肌にくっついているせいで、背中しか見えていないというのに、不健康なほど痩身なのがわかる。……これでも最近はやや肉がついたが、“肉がついた”と表現してよいのやら困惑するほど、依然としてあきは細っこい。

(そういや、セーターでも買ってやろうか)

 その辺にいるガキは真冬も半袖半ズボンといううす気味悪い肌の分厚さをしているが、こいつの場合寒さに適応できるようなからだの厚みがほぼ皆無である。また風邪を引かれたら、面倒極まりない。時雨はちょっと考えて、リョウタを使おうと勝手に決めた。

 あきがそそくさと洗濯機に突っ込んでいるのは、体操服。一週間前と、三日前と同じ光景。たまに風呂で洗っているらしい上履きを今週に入ってから見かけたが、とてもこの間与えてやった新品とは思えなかった。

(まあ、格好の餌食だわ)

 声が出ない、トロい、要領が悪い、周りに助けを求めることを知らない。それなのになにに対しても無関心な面を引っさげて、傍から見れば(毎日くそつまらん)という表情で茫洋としている。見方によっちゃ、ムカつくやつもいるだろう。
ひどく整った顔立ちは、青春期に入ればもてはやされるかもしれないが、中学生くらいじゃまだ気をつけて見るやつはいないだろう。

 同い年だったら、時雨は無視するだろうし、リョウタはいじめるだろう。

 ――周りに助けを求めることを知らないこの子どもは、当然時雨を頼ることもしない。だが周囲から爪弾きにされていることに対し、たとえば恥ずかしいとか悲しいとかというなんの感情もないらしく、時雨を前にしてもなにも気にかけることなくこうした平気な顔で粗末にされたものたちを片づける。

 振り返ったあきが、ぴくりと肩をあげた。そうして、ああ、という顔をして手を振った。さしずめ、ただいま、といいたいのだろう。時雨が覗いていたことに気づかなかったらしい。トロい、鈍い、だからいじめられんだ。

 こちらに歩いてくる足取りに違和感を感じていたら、目の前で急に石にでも足をひっかけたかのように、こけっとすっ転びそうになった。条件反射のような形で、おまえは羽かといいたくなるような軽々しいからだをキャッチする。こいつほんとうに中身空洞なんじゃねーのと思うほどに。

 同時に、どうやら左足の調子が悪いことに気づいた。
 最近の流行りである、時雨に触れられるとからだを固くする病が発動したのがわかったので、すぐに離してやった。あきが距離を取る。

「だせえの。……でも、足やるのは子どものいたずらにしちゃやりすぎなんじゃねーの」

 あきは首を横に振った。下ろしっぱなしににしたカバンからスケッチブックを取り出す。

『ひねられてないよ』
「ばかか。捻られてたら逆にやべーよ」

 そういいながら、寝室に直行したあきに、あきに料理を教えるために買い物に行っていた茉優がストックしていたらしいビニール袋に、製氷機にあった氷を突っ込んで持っていってやった。案の定、「意味がわからない」という顔をされた。
 用途を教えるとぽかんとしていた。教えにしたがって素直に氷をの付け根に当てる。しばらくすると押しつけたり離したりして、冷たさと格闘しはじめた。

「なあんか、おまえいじめられそうだよね」

 最近あきがいつでもどこでも無遠慮にベッドに上がるため、ものすごい勢いで汚くなっている気がする。学校帰りでもおかまいなしで、伸ばした足に氷を当てるあきに顔をしかめながらそういうと、『ふくは、全部いっこしかないからやめてほしい』と妙にズレた回答が帰ってきた。俺に抗議されてもな、と時雨は思う。

 意を決して、というわけではないのだろうが、せっかく訪れた心境の変化から通いはじめた学校で、この子どもが周りの子どもに溶け込めていないのは、なんとなくわかっているし理由はともかく理解もできる。なんとなくだが、時雨にはあきと周りで何不自由なく育った子どもとは、なにひとつ融和しないような気がしていた。

 別に本人が気にならないんだったら、自分が口を挟むことではない。とはいえ――……。
 冷やしたせいで赤くなっている、棒きれのような足首に目を向ける。

 ガキのいたずらがヒートアップしなければよいが。
 ルリとあきのせいで完全に目が冴えてしまった時雨は、あきが自分の陣地である壁側に座っているのを横目に、手前に座った。寝転がったって、どうせ眠れはしない。ルリとの通話を終了させてから放置してあった携帯を手に取って時刻を確認する。出勤までは時間があるようだ。

 ふと、壁側に背をもたれていたはずのあきが、ずるずるとシーツを伝って、時雨の横に座った。ひねった足をベッドから投げ出し、また氷を押しつけている。そうしながらゆっくり、ゆっくりと、時雨のそばへ近寄る。

 なんだよと思う反面、動いたらこの小動物が驚いて逃げてしまうような気がして、なにをするわけでもなく携帯の画面を見つめていた。

 やがてあきは、時雨の腕に肩がくっついてしまうほどにそばにきて、横並びになる。スロースピードでもたれかかってきて、斜めになったあきの頭が時雨の二の腕に触れた。

 たんまり数分をかけてゼロにされた距離に、内心では舌打ちをしながらも、時雨はまるで葉裏のカタツムリみたいに息をひそめた。

(俺が触るのはいやがるくせに)

 でもそういったら、きっとこいつはちょっと眉を下げてすごすごと壁際に戻るだろう。そうしたら、時雨とあきの間には侵すことのできない透明な壁が現れるだろう。
 やがて、ゆっくりと氷が溶けていくまで、ふたりはそのまま動かなかった。そこには会話すらなく、ただ空が刻々と薄暗くなっていくのをじっと待つ。

 今寄せられているからだに腕を回したら、こいつはあっという間に俺のパーソナリティスペースから脱兎のごとく去っていくだろう。

 なに、じゃあおまえはよくても俺はおまえに触っちゃいけないってこと?

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