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五話 秋雨と苛立ち 014

 十月に入っても、しばらく晴れの日が続いていた。パリッと乾燥した空気と、陽の光がぴかぴか照る日が繰り返しやってきていたが、主に夜を過ごしている時雨にはどうでもよいことだった。時雨にとって気分を左右するのは、フツーの夜か、雨の降る夜か、どちらかである。

(気分乗らねえわ)

 茉優がその場にいたらじゃあいつ気分が乗っているというのかと、どやされるだろうか。それでも時雨は雨がきらいである。靴は濡れるし、水たまりはうざいし、傘を差すのは面倒だし、といった具合で。

 それでもなんとか仕事を終えて、いつまでもやまない秋雨に内心舌打ちをしながらマンションに帰ってくると、あきが消えていた。

 ソファに散った小銭や今日分のたまごかけごはんオニギリはあった。時雨が気まぐれに与えた毛布もくしゃくしゃなまま。まるで雨雲があきだけを隠して攫ってしまったみたいに、今日までの生活感はそのまま、その姿だけが忽然と消えていた。
 トイレにも風呂にもいない、もちろん寝室にもいない。部屋中を散策しながらいら立って、ついでにもはやすっかりこの家のソファの住人となっていたあきの姿を捜索する自分の姿にも、とにかく苛立った。

 雨が窓を打ちつけている。それは昨夜営業していたときよりも、ずっと強くなりはじめている。

     *

 それが不意に頭に浮かんだきっかけは、先日会ったばかりなのに既に顔も声も夢だったみたいにぼやけてしまっている客の些細な一言だった。

「時雨えー今日この後付き合ってよ。頑張るから」
「いいよ。出せんの?」
「んーたぶん大丈夫」

 おそらく続いていた晴れの日のどこか。あまり混まない休日は、平日の客層よりもやや落ち着いていたり、金の運びが悪かったりするが、その中でもまあよく使う女だよなあと内心ではぼやきながら、時雨はいつものように至極適当に営業していた。それこそ、営業、なんていうことばには不釣り合いなほどに適当に。

 時雨が知る限り、休日にばかり足を運んでくるこの女の服装は、いつも異なっている。妙に若いのに、高価なブランド品に身を包んでいる。……ホストにこういう女は珍しい、と、時雨は考えている。時雨なりに、心はそのまま金だけをぽんと出せる女は、色々な面倒ごとが少ないので重宝している。
 そして女も、時雨にていよく使われていることがわかっているが、女にとって時雨の元に通うのはちょっとした遊びにすぎないので、気にもしない。お金を出してでも『売れているホスト』という肩書きを持つ時雨をとなりにはべらせる機会が、心地よいのだろう。

「明日学校あるんだろ? 俺別にいいけど、おまえはいいの?」

 返答はいつも同じ。

「もちろん一限だよ! まあ遅れても大丈夫ー、もうたぶん留年だし」

 馬鹿女め……毎回違うアクセサリー、違う服装を気にも留めずに眺めながら、時雨は密かに毒づいた。
 聞けばバイトもせず、大学にもいかず、適当に遊びながらたまにホストに通ってはイケメンを捕まえてまた遊んで……どこからそんな金が出るのかと感心させられるが、彼女には父親という立派なパトロンがいるらしい。

 こういう女はまれだ。

 夜の世界において女が大量の金を撒けるのは、たいがいが自分のからだやなにやらを売っているから。逆に――学生やら普通の稼ぎをする社会人やらといったまっとうな人間をこっちの世界に落とすまでが、時雨たちの主な仕事である。そうして落ちた女からは、今まで想像もできなかった金を動かせるから。

 ちょっと頭の構造を疑うほど馬鹿な女だが、すべてを適当に生きている分依存体質なわけでもないので、こういうのは時期が来ればあっという間に夜の街から消えていく。一時の流行に流されていたみたいに。
わかっているので、時雨はいつも適当に金を出させ、適当にあしらう。そして女も適当に遊ぶ。

「てか時雨のセックスめっちゃとっとと終わるから、しっかり寝ていけるわー」

 こういうあっけらかんとした馬鹿女の方が、付き合いやすい。
 シャンパンを入れた女とグラスを合わせた。鈴のような音が、暗くて淀んだ空気に溶けていく

 ――一限だよ! まあ遅れても大丈夫ー、

 そしてふと思ったのだ。
 終日ソファとオトモダチごっこをしているあの小さな塊は、はたして学校へ行っているのか、ということを。

 とっとと終わるセックスをして朝方帰ってくると、玄関の施錠を聞きつけたあきが、まるで自分に課せられた義務をこなすようにテキパキとキッチンへ移動するのがわかった。
 こんな朝っぱらからよくやるもんだ。
 さっきまでドロドロした夜の世界にいたというのに、たまごを割る音がひどく平和で、そのギャップに辟易する。

(うわ……勢いよく割りすぎ……絶対また殻入ってる)

 シンクに打ちつけるガン、という音を聞いてげんなりした。こう何日も食わされると、食えればいい主義の時雨でさえ飽きがくるというものである。そう考えると、いくらなんでもあきは食に無頓着すぎる。それまでのありえない生活が影響しているのだろうが。

 ――ちなみに時雨はあきに“たまごかけごはんその二”――炒りたまごの禁止令を出した。味つけを茉優にしっかり教えてもらってからでないと不味すぎて食えたものではないということと、また火傷の跡を増やして面倒を起こされるのもごめんだからである。

 あきは禁止令にうなだれたが、頷いて、次の日から朝ごはんには欠かさず“たまごかけごはん一”――もとい普通のたまごかけごはんが登場するようになった。まるで、約束は守るぜ、といわんばかりに今日も差し出されたたまごかけごはん一を食べはじめる、あきは必ず全部食べるまでその場で監視役を担う。ひとの視線に慣れている時雨は気にしないが、とにかく穴が開くほどじっと見つめる。

(しかし……最近殻は入らなくなったな)

 子どもはいったんキッチンへと戻る、――と、再びガン、という音。そして時雨と同じ形の皿に半分以下ほど盛ったたまごかけごはんを持ってきた。並ぶようにして食べはじめたが、あきのたまごかけごはんは失敗したようで、小さな口の中でガリガリたまごの殻を噛み砕く音が聞こえる。

 口の中が切れても知らねえぞ、といおうと思ったが、最近あまりにこの子どもにおせっかいになっている自分に気づいていたから、なにもいってやらなかった。

 普通なら口から出すのに、たまごの殻をそのまま飲み込むあきを見やる。絶対に、口に入れたものは出さない。おそらくこの間時雨に黙って口に含んだ少量のコーヒーも、飲み込んだであろう。

(こいつの習性、だろうな)

 見るからに貧弱なからだつきのこいつが、あのクソボロいアパート生活の中、腹が膨れるほどの料理を振る舞われていたというしあわせな妄想をできるほど、時雨は馬鹿ではない。おそらく最低限の食事でなんとか今日までしぶとく生き永らえたことを考えると、こいつの食に対するケチな習性にも頷ける。それでも、まるで砂利を噛み砕くがごとくたまごの殻を咀嚼している姿を見ていると、出せ、といいたくはなるが。
 こいつと、今朝まで一緒にいた客。社会的最弱者と、強者。なにがこんなに違うんだろうなあと、不慣れなのか危うい手つきでたまごかけごはんを食べるあきを一瞥しながら時雨はぼんやり考える。

(生まれたところかね)

 この世に誕生した瞬間くらいは、母親に大切にしてもらえたのだろうか。見たところ父親の姿は見当たらなかったし、母親がいつから狂ったのかはわからないが、確実なのはあきが普通の育ち方をしていないことである。歪んだ環境でここまで生きてきたのに――だからだろうか、表情が変わらないからわかりづらいけれどよく見るとひどく素直で、そのくせなにも知らない危うい自分に気づいていない。

 要は無知だ。ものすごく。
 それこそ、まるで学校には通わせてもらっていないみたいに。

 あ、と、時雨は昨夜降って沸いたように唐突に思ったことを、特になにも考えずに口にした。

 ――そういやおまえずっと家にいるけど学校いってたの?

 たまごかけごはんを食べていたあきはぴたりと手を止めて、時雨の問いには答えずまたのそのそ動きを再開した。おきれいな能面からはなにも読み取れなかったが、深く考えて質問したわけではなかったので、時雨も会話にならなかった問いかけをそのまま流した。あきはそれからも変わった様子もなく、朝食を食べ終わったふたりはどちらからともなくお互いのテリトリーという配置につく。

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