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二話 てのひらと一万円札 005

 母親がつけすぎるほどからだに纏わせる香水の匂いと、母親とからだを重ねる男性が吸う煙草のヤニ臭い匂いが、子どもは苦手だった。ヘンな匂いに、栄養の行き届いていない常に飢餓状態の脳は、くらくらと吐き気がしてくるのだ。
 だけど、

(昨日食べた美味しくないパン……吐いたら、なくなっちゃう)

 本能的に、喉元までせりあがるそれを飲み込むたびに、じわりと目じりには涙が浮かんだ。表情筋こそぴくりとも動かないものの。

 だから――母親も男も、この臭いアパートから消えてしまったとき、いよいよ子どもは死んでいくことを悟った。いつも母親に閉じ込められる埃臭い押入れでくしゃみを繰り返しながら、それでももしも母親が帰ってきたときに外に出ていたら怒られるからと、押入れから外へと出ることができない。

 ほんとうに死ぬんだって思った。水も、食べ物もないなら、潔く死ぬしかないのだと。
 だけど人間というものの本能は往生際が悪くできているみたい。何も食べなくても、苦しいばかりでなかなか死ななかった。

 そう――子どもは知っている。ひとはそう簡単に飢えで死ぬことなどできないのだと。

 そして今、再び子どもは、あのときのようなざらざらした押入れの床ではなく冷たくツヤツヤしたフローリングに頬をくっつけながら、死の危険に晒されていた。動きにくくなってきたからだに抗うことなく、1DKのそれまでよりもはるかに小奇麗な住処――の端っこにからだを折り畳んだまま。

(ちょっと、つめたい)

 押入れの中は密閉されていたせいか、蒸し暑すぎて命の危険を感じることが何度かあった。それを考えると、ちょっと寒いのは贅沢なのかな。夏を終えて、秋を迎えるこの季節、冷房も暖房も入っていないのに鳥肌が立つのは、遮光カーテンのせいでも、そもそも今日の天気が悪いせいでもある。

 口の中に唾液が溜まっているのが分かる。あともう一日くらい何も食べなかったら、この間と同じくらい辛くなるかもしれない。横たわったまま、さっきから珍しくぎしぎしという音のするもうひとつの部屋の気配と、しんと静まり返った自分のいるダイニングルームの気配を感じていた。

 基本的に、時雨は家を出ているか、もうひとつの部屋で死んだみたいに物音ひとつ立てず眠っているかのどちらか。だから、このダイニングルームにあるテレビとかソファとかは持ち腐れもいいところ――それが、三日間この部屋で過ごした子どもの感想である。
 というわけで、怪訝そうに眉を寄せていやな顔をした時雨、が、最後に子どもが見た家主の姿である。特にどこにいろという制限はないものの、自分の部屋には入ってくるなという気配を感じたので、ひとりにしてはだだっ広いダイニングルームで、ソファに座ってみたりフローリングをゴロゴロしてみたりしていた。いつの間にか三日が経って、子どもはあっという間に動けなくなってしまった。

「ね、あんたの子ども死にそうだよ?」

 不意に、赤いマニキュアが塗られた素足が二つ、ぼんやりとしていた子どもの視界を占領した。すらっとした足首と鮮明な赤に、子どもはけだるげな様子で視線を宙へと動かす。だけどそれよりも前に、目の前の人が子どもの視線に合わせるようにしゃがんだ。

「紛らわしい言い方するな」
「いやいや事実じゃん」

 三日ぶりに聞く時雨の声。ただ姿が見えない。……きっと隣の部屋のベッドにいるのだろう。子どもの推理がそう働いたのは、目の前にしゃがみ込んだ女の人の上半身が、無防備にも下着一枚になっていたからだ。
 淡いピンクの下着姿に気にした風もなく、しなやかな手が子どもの頬を叩く。

「おーい、生きてる?」

 わずかに首を縦に振る。

 落ち着いたせいで老けて見える時雨よりも、さらに一つか二つ年上っぽい風貌だ。ロングの艶っぽい髪の毛は、真っ直ぐ伸びていて、華を添える程度に塗られた化粧はさっぱりした印象。ブラジャー一枚というのに全く煽情的でないのは、そのひとがまるで着替えの最中かのごとくサラッとした態度だから。

 足に塗られたマニキュアとか、下着がきれいなのとかを見ると、ズボラというわけではなく、ほどよく見た目に気を遣いつつもサバサバしているみたい。母親の影響で厚塗り化粧ときつい香水という女性像に慣れきっている子どもにとっては、珍しいひと。

(これから、時雨と寝るのかなあ)
「茉優……何してんの」
「ごはん作る。この子何日なんも食べてないわけ?」
「……そういや、忘れてた」

 偏った性知識の子どもは、思考の鈍った頭で正解を導き出す。生き残ったふたりのセフレのうちひとり――茉優は、子どもから離れるといったん時雨の声のする寝室の方へと消え、薄い水色のブラウスを着ながらキッチンへ消えた。はあ、というため息とともにキッチンを物色する音が聞こえる。
 冷蔵庫を開ける音、戸棚をチェックする音……そして、ガサガサとビニール袋を漁る音。

(寝るの、やめた?)

 さっきまで肌を晒していた茉優は、すっかり色っぽい雰囲気をなくして(それまでも、別にたいしてなかったけれど)カチカチとキッチンで音を立てている。手料理というものをほとんど味わったことのない子どもにとって、野菜を切る包丁がプラスチックのまな板にぶつかる音とか、フライパンに火がかかる音とかは、いちいち不思議でぴくりとしてしまう。

「ほんとは終わってからにしようと思ってたけど、こっちが先でもいいよね。時雨、最近枯れてるみたいだし」
「うるせー……」

 部屋の隅っこから、茉優の姿は見えなかったので、子どもはいもむしのようにフローリングを這って、紺色のエプロンをひっかけて手早く菜箸を踊らせる彼女の後姿が見える位置へ移動した。

 寝室から出てきた数日ぶりの家主は、そんな子どものおかしな様子を気にした風もなく、ソファに腰かけた。ちらりと一瞥すると、その眉間にはわずかに皺が寄っている。煙草をくわえたその姿に、いやなものを思い出して、子どもは視線を茉優へと戻した。
 辺りを、だんだんと何かが焼けるようないい匂いが占領しはじめる。子どもの前にしゃがみ込んだ茉優は、まるで野良猫に食べかけの飯でもやるみたいにお皿と箸を置く。品のかけらもなくフローリングに直接置かれたそれに手を伸ばして、子どもはゆっくりと数日ぶりの食べ物を味わった。

 あったかいものを食べられたのは、いったいいつぶりなのだろうか。

(あったかいものって、美味しい)

 いつも食べている、どっから調達してきたかわからない不味いパンやオニギリとかと違って、やや塩気のあるほかほかなごはん。料理の名前もわからないそれを、子どもは水や卵かけごはんオニギリを食べたときと同じように、ゆっくりと咀嚼する。

「ペット飼うんならエサくらい管理しなよ。あんたみたいなやつはペット飼う資格も、子ども育てる資格もないっつの」
「ちげーよ。無理矢理押しつけられた」
「でも義務ってもんがあるでしょうが」

 飼おうとなんて思ってねえよ、と、時雨がひとりごちた。おまえのことなどいらなかったという直球なことばはそのまま耳のよい子どもの元へたどり着いたが、それは悔しさも悲しさも伴わなかった。子どもはただ、目の前の食事に没頭した。

「あー……、なんか、気ぃ削がれた」

 時雨を無視して子どもの前に再びしゃがみ込んだ茉優が、カラッポの皿を持ちながら「おかわりいる?」と小首を傾げる。子どもは首を横に振った。

「そ? そんなに入ってなかったはずだけど……ずいぶん小食ねえ」

 なのに肌はモチモチだし、髪もツヤツヤだし。今どきの若い子はいいなあ。
 そういって、茉優は皿を下げる。両手で上半身を持ち上げるようにして立ち上がった子どもは、ふらつきながら彼女の背中を追ってキッチンへと入る。背中をじ、と見ていると、彼女が振り返って、流し台のスペースを開けてくれた。子どもは隙間を埋めるみたいにそこへ入り込んでスポンジをあわあわにして、自分の食べた器に手をかけた。

「手伝ってくれたの?」

 こくり、と頷く。

「ありがとう。えらいねえ、人形みたいに表情筋動かなくて、ちょっとヘンだけど」

 ヘン、かな。

 子どもは皿を落として割らないように注意深く泡だらけのそれを洗い流しながら、彼女を見た。女性にしてはすらりと長身な彼女は、子どもよりも背が高い。美人にやさしく見下ろされて、子どもはわずかに照れた。だが照れた本人の他にはだれも、その些細な感情の変化に気づくことはなかった。

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