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一話 紅葉とペットボトル 003

 額が額だから、とりあえず様子見だけでもしてこい、とは、オーナーからの指示である。リョウタは隣で時間外労働だブラック企業だとかケチをつけていた。歌舞伎町で構えるこの店を改めてブラック企業だと喚くリョウタには脱帽を通り越して新鮮味を感じるが、落ちこぼれは落ちこぼれでも二年間大学に通っていた素養からそんな言葉が出るのだろう。

 別におまえも一緒にいく必要ないだろうと時雨がいうと、いや俺は時雨さんの行くところなら時間外労働だろうとなんだろうとついていくんです!と意気込んできていた。時雨は密かに、そんなんだから金魚のフン扱いされているんだけど、と妙に辟易する。

 一夜にして大量の金を使っていた女の家とは思えないほどのこぢんまりとした古いアパートが、閑静な住宅街の隅に添え物のようにあった。辺りは徐々に開発が進められているらしく、色鮮やかな一軒家の立ち並ぶ周辺からはやや浮いている。

 錆びた手すりにはつかまらず、抜けそうな階段を上がり、二階の端を目指す。鍵が開いてなかったら中の様子だけでもわかれば覗いてくるようにというお達しだったが、――物騒にも鍵は開いたままだった。

(ま、いるわけない、とは思ってたけど)

 もぬけの殻である。ドアノブを回して、木造の軽い扉を引く。ワンルームの部屋に唯一ある窓が遮光カーテンによって覆われていたせいか、室内は不気味なほど暗かった。注意深く見てみれば蜘蛛の巣の一つや二つ簡単に見つかりそうだ。
 くしゃくしゃになった布団と、ぼろいチェスト以外見当たらないそれに、時雨は足を踏み入れることなく背を向けた。さっきまで時雨の背中から中を覗きこんでいたリョウタがぎょっとした表情になる。

「ちょちょっと! どこ行くんですか!」
「帰る。だっていないだろう」
「中見れたら見てこいとか言われてたじゃないですか……アンタってひとは! もー……おれ怒られるのやだからちょっと見てきますね」

 うわあー……客用スリッパすらないのかよお。
 そんなごにょごにょとしたつぶやきが遠くで聞こえていたが、既に時雨は鉄臭い階段を下りた場所で適当に携帯をいじっていたので、あまり耳に入っていない。

(んなの中調べたけど分からなかったって言えばいいのに)

 リョウタは根が生真面目だ。なんの縁があって、どんな思いがあってこんな世界へと堕ちてきたのか時雨には知る由もないし知りたいとも思えないが、大学生くらいまでは普通の暮らしをしていたらしい。そういう人間からは、隠しきれないようなふとした場面でかつての生活感がにじみ出る。

 ……ブラック企業だの、客用スリッパがないと喚くだの。
 だがそういうリョウタに付き合う義理はない、と考えているので、時雨は連絡の溜まっていく携帯の中身をひたすら削除して整理するという作業をしながら、それでも真面目過ぎて足止めを食らう彼をなんとなく待っている。

 と、そのときだった。

 ――バタバタという足音に続いて、リョウタの「な、ななな! ちょ、時雨さん! なんか隠れてやがりました!」という声、その間に地面を蹴る足音は一目散に階段を駆け下りるカンカンという甲高い音に変わっていく。

「ちょ! こら! 止まれ!」

 だから突然、階下で携帯をいじっていた時雨にその影はさした。真昼の空に雲が立ち込めるように薄暗くなった辺りに顔をあげると、姿勢を低くして逃げているせいか、いっそう小さく思えるそれと、目が合う。
 あの日――酔っぱらったせいでどんな記憶もうやむやになってしまっていたというのに、その奇妙でアンバランスな双眸を意識した瞬間、ゲロ臭い公園での出来事が頭を過る。いくらか表情を動かした時雨に対し、子どもが驚いた顔になったのは時雨のせいではなかった。残り数段……というところで、足を踏み外してからだが一気に前のめりになったから。

「え、――うわああっ……時雨さん!?」

 女の悲鳴に似たリョウタの叫び声が、階上から時雨の耳に入ったのは、背中が地面に打ちつけられたのとほぼ同時。
 まるで降ってくるみたいに、斜めになった子どものからだが時雨に突進してきた。すごいスピードできたはずなのに、背中に生えた翼が重力を制限したみたいに、驚くほどふわっと軽かったのだけど。

 鈍い音、地面の匂い、おなかに力なく横たわった子どものからだ。はじめて見たよりもずっと明るい栗色に見えるやわらかい髪の毛ごと、鼻先が潰れて時雨にのしかかっている。

 さっきまでの俊敏な動きはそこになく、完全に弛緩しきっているそれ。

 ガンガン、という音を立てて、慌てたようなリョウタが時雨のそばに寄る。そんな彼には一瞥もくれず、時雨は上半身だけを起こして小さなからだを揺さぶった。

「おい、どけ」

 うんともすんともいわない。

「あの……時雨さん。そいつたぶん気絶してるっす」

 見りゃわかるっつの。と、心の中で答える。

「あと、……そいつ汚くないっすか? ……それになんか」

 臭い。
 リョウタが子どもを乗せたままの時雨から、わずかに一歩退く。

 意識を失った子どもから薫るのは、アパートに交じっていた埃や酒がこびりついたような匂いだけではなく――風呂に入らない人間からだんだん発生する、人間そのものの匂いだ。
 座り込んだまま、汚い物体を見つめる。

「ど、……どうするんっすかそれ……」

 戦々恐々として、リョウタがぼそりと呟いた。
 目を閉じた子どもは、あの不気味な双眸がないからか、儚さの残る薄い顔立ちをしていた。子どもをかたどるパーツがすべて、消えてしまいそうなほど小さく、薄い。

(子どもって、こんなんだったっけ)

 限りなく面倒なことになった、という思考の傍ら、ぼんやりと時雨はそんなことを考える。
 とりあえずこの子どもは、谷口若菜――支払いを無視し飛んだ女の身内ということで間違いはないだろう。このまま放っておくわけにもいかなくて、そのからだを持ち上げた。とりあえず、……風呂か? いや汚いままでもいいのか?

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