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十三話 ぬくもりと覚悟 040

 ――あんた、あきの面倒見きれる自信あんの?

 関係を解消したいという話への切り返しは、ルリと比べて茉優の方が鋭かったかもしれない。それにしても、茉優にはその話に含まれた意味がすぐにわかったみたいだった。間髪入れずにあきということばが出たことは、『もうおまえ来なくていいから』というひとことに子どもがすくなからず関わっていることを知っているからこその切り返しだろう。

 まったくかわいくない、勘の鋭い女である。

 ――あの子には、生まれてこのかた家族ってもんがないのよ。だからあんたが家族の枠を超えてあの子を愛することは、またあの子から家族を奪うことになるんだよ。そういうの考えたの? これまでだって自分の世話さえままならなかったあんたが、ひとのこと大事にできんの?

 鋭いことばの節々に現れるのは、目の前にいる時雨ではなく、哀れで不遇な環境に見舞われてきたあきに対する心配だった。
 口論は、なににおいても基本的に事なかれ主義な性分とは裏腹に、珍しく声を荒らげる茉優と、一歩も譲らない頑固な時雨とで、平行線を辿った。

 昼寝をしていたあきが起きてきて、その騒ぎに気づくやいなや、『茉優と会えないのいやだ。また来て』という、ちぐはぐではじまったフォローを境に、休戦状態に入った。

 ――こんな子を不幸にするようなら、私は心からあんたを軽蔑するから。

 茉優は、かばうように時雨から通せんぼするあきの頭をひとなでして、怜悧な瞳できつく時雨を睨みあげると、鞄を持ってリビングを出ていった。安心させるようにあきに囁いた「また来るよ」という小声だけを残して。

 時雨は、ルリを切ったときよりはるかに、苛立ちと沈鬱とした気分が混じり、テンションが下降していった。空気の読めないあきでもその様子が見て取れて、オロオロとしてしまうほどである。

 憤りを隠すこともせずドサッとソファに腰をおろした時雨と、バタンと荒々しく閉じた玄関とをうろうろと眺めながら、あきは茉優をかばった位置に棒立ちになったまま、ひどく困っている。

 ――またあの子から家族を奪うことになるんだよ。

(惚れたもんはしょうがないだろう)

 まるであきの保護者のような口ぶりに、嫌気がさす。それに、あきが茉優をかばったのも苛立ちを倍増させる要員のひとつだった。
 どうしてこうなっているのかさっぱりわからなかったあきは、どうやら逃げることを選んだらしく、そろそろと歩いてリビングへ出ていこうとした。

「こっち来い」

 それが、去っていった玄関向こうの茉優ではなく、自分にかけられたことばと知るには早い。ぴくりと背中が跳ねて、それでもばかみたいに従順なあきは、そろそろと時雨の元へとやってくる。怖がりながらも目の前にきたからだを力任せに抱き寄せた。ぽすんと、小さなからだが落っこちてくる。

「……っ」
「別に、殴ったりしねえよ。ここにいろ」

 そんなのはわかっているけれど、怖いんだよ。なんていうあきの声が聞こえてきそうだった。
 おそるおそる、あきが顎を上げて時雨と目を合わせてくる。いつもよりも遥かに不機嫌な時雨におびえているらしい。それもまた腹立たしかったから、血色のよい桜色の頬をぎゅうっとつまんだ。

 いたい、というようにあきが離れようとする。

「あーいらいらする。おまえのせいだよ」

 ぼく? といわんばかりにきょとんとして、小首を傾げられる。頬は伸ばされたままだったので、美人が台無しだ。アホっぽいその様子にやや溜飲が下がる。そ、おまえのせいだよともう一度いうと、ショックを受けたみたいにカチンと固まった。

「おまえが茉優を庇うから、本気でいらっとした。なんなのおまえ、これちぎるよ」

 いやいやするように、伸ばされた頬を時雨の手から守ろうとするけれど、いらいらを発散するようにぐいぐい伸ばしてやる。いたい、と口パクでいわれたが無視した。涙目になるものだから、ちょっとかわいいと思ったものの顔には出さない。

「おまえは茉優がすきなわけ、こら」
『すきだけど、しぐれもすき』
「ぶっ飛ばされたいの?」
『さっき殴らないって』

 あきとしては茉優にも時雨にもフォローを入れたつもりだったようだが、鈍感なあきのことばに、一旦下がっていた時雨の苛立ちがふつふつと募っていく。

 あきは、すきということばの持つ本質的な意味が、未だにぼんやりとしているのだろう。時雨も、茉優も、おそらくリョウタも、“すき”なのだ。頭ではわかっているが、つい数分前に茉優にいわれたセリフが重なり、いつもなら大目に見れるこの子どもの言動が、どうしても癪にさわる。

 あきの気持ちがついてくるまで待つつもりとはいえども、時折鈍すぎるあきに対して我慢できなくなることもある。

 ここ数日、何度か口づけているそれに、深くキスをしてやると、うろたえたようにからだがびくつく。息継ぎがへたくそなのを知っているのに、わざと苦しくなるほど長いキスを仕掛けた。あきは頬を赤く紅潮しつつも、苦しそうに時雨の胸を何度も叩いた。

「……っ、……!」

 今日は絶対にやめてやらない――そう心に決めて、時雨はあきのからだが限界になってふにゃふにゃになるまで、しつこく小さなくちびるを吸った。
 
 
 
 ――こんな子を不幸にするようなら、私は心からあんたを軽蔑するから。

 だれもがあきを、かわいそうな子だと思っている。家族に見放され、時には暴力を振られ、ろくに学校も行けずに軟禁されてきた子ども。そうして、同情して腫れ物でも扱っているような口ぶりになることがある。

「おまえ、かわいそうだな」

 胸の中でゆっくりと呼吸を整え終えたあきが、気だるげに時雨を見上げる。普段崩れることのない表情がやや歪んでいるからか、妙な色気があったが、なんとか思いとどまる。これ以上先に進んだら、――おそらくもう引き返せない。

「だれからも一人前の人間として認められてない。家族がいないからって、腫れ物扱いされてんの。おまえそういうの、どうも思わない?」
『かわいそう?』
「そー、だって普通の生活送ってないでしょ」
『ぼく?』

 そうおまえの話。

 トロいなあと思いつつテンポの遅い会話を繰り返していると、不意にあきがぐいっと頭を傾けながらすこしだけ眉間に皺を寄せた。なにやら空っぽの頭で、すこし落ち着きながら息継ぎをしながらも懸命に時雨のことばを分析しているようである。

 そこも可愛いと思うのだから、もうどうしようもない。

 やがて、あきがなにかを書きはじめる――が、いつもと長いものだから読み取れない。

「長い」
『家族』
「それじゃ短くてなにいいたいか全然わかんない。ばかなの?」
『いっしょにくらすのは、家族』

 後ろに、『と思う』ということばがくっついた。

「なんで? 母親と暮らしてたから?」

 こくりと頷かれる。

「じゃ、おまえは全然かわいそうじゃないってこと?」

 もう一度深く、深く頷いた。

『まえはおかあさん。いつもは。しぐれ』

 時雨は、頭をかきむしりたくなって、そんなの家族じゃないといってやりたかった。それをしなかったのは、あきの思うしあわせのかたちを、どうしても変える気になれなかったから。

 信じられないほどにばかで、鈍感で、しあわせから遠いというのに――自分はかわいそうではないとどうして確固としていい切れるのか。
 理由はわかっている。こいつが呆れるほど世間を知らず、無知で、だれにたいしても従順すぎるから。

「おまえって、強いのな」
『しぐれの話むずかしい』
「あーそう悪かったよ。あと、何度でもいうけど俺はおまえのそのポワンポワンした頭に入ってる家族なつもりないから」

 どうしたってこいつの環境や経験からじゃ、時雨の気持ちは直球でつながっていかない。回路がないのだ。だったらすこしずつ、こいつの経験に刻み込んでいくしかない。

「あき、買い物行くぞ」

 あきの表情が、ぱっと輝いた――実際は、無表情から口がぽかっと開いただけだったが、それだけでも機嫌が一転したのが、時雨には手に取るようにわかる。
 てのひらを求めて伸びてきた手をキャッチして、そのまま指を絡めてソファから降りた。

「おまえいつもたまごしか使わないから、たまには別の教えてやるよ」

 あきは不思議そうに首を傾げて、時雨のてのひらに『しぐれ、りょうりできる?』と書いてきた。失礼な物言いに、そのことば忘れんなよと宣戦布告する。その挑発どおり、数時間後に出来上がったカレーを見下ろして、あきは感嘆としたため息を吐いた。野菜の切り方から、ルーの溶かし方、煮込みのコツまでをレクチャーして出来上がったカレーを、『待て』を仕掛けられた子どものように見ている。

(どこまで作り方が頭に入ってるか、見ものだな)

 『ヨシ』の合図とともに、ほかほかのそれを口に含むあきを見下ろしながら、時雨はひとりごちた。食い意地の悪いあきは心底美味しそうに(それでも小盛りの)カレーをかけ込み、最後には『時雨すごい』『お料理じょうず』『すごいすごい』と手放しで褒めてくる。悪い気はしないが、たかだかカレーひとつででこうもベタベタに褒められるのはむずがゆい。

 あきが危うげな手付きで洗い物をしている姿を横目に、すっかりあきの寝床でなくなったソファに腰掛けながら携帯をいじっていたら、先ほど激昂して去っていった茉優から着信があった。

「何」
『あんた、本気なの?』
「だからそういってんだろうがよ」

 カシャンと、すこしでも大きい皿がぶつかる音がしようものなら、(皿割ってんじゃないか)とか(怪我してんじゃないだろうな)とか考える自分が怖いと、時雨は我ながら考える。

『今、リョウタから泣きの電話が入ったよ。あんた、仕事辞めるって』
「……まともなしごとにつかなきゃ仕方ないだろ」
『あんたがあの仕事をまともじゃないって思ってたところにびっくりしてるわ』

 はあ、というため息と辟易したような物言いに、時雨は茉優がさっきまでの怒りを沈めていることを知る。

『で、どうすんのよ』
「探す」
『ばか。ばーかね、あんたばか。あんたみたいなこれまで普通に生きてない男が、いまさら普通の仕事につけると思って「探す」とかいってるのがやっぱりばか』
「喧嘩売ってんのか」
『しょうがないから、あきの可愛さに免じて仕事一つ紹介してあげる。あんた顔だけが取り柄のばかでも働けるところ、一つだけあるわよ。どうする?』

 洗い物を終えたあきがひょこひょことリビングに戻ってきて、当たり前のように時雨のとなりにちょこんと座る。これまで散々さわられていることに警戒してか、拳ふたつぶんくらいの間を空けているのだけが腹立たしい。時雨は何食わぬ顔であきの腰を掴んで、ぎゅっと自分の方に引き寄せた。
 あきは一瞬からだを硬直させたが、それ以上なにかするわけでもないとわかると、こてんと時雨の肩に頭をあずける。

 仕事を辞めたからって、自分の生活やあきとの関係の何が変わると考えたわけでもなかった。ただ、あきをこれからもずっと手の中におさめようとしたときに、――もうすこしだけまっとうな人間として生きてみるのも悪くはないと考えた。ただ、それだけだった。

 時雨の色のない人生を、あきという人間がすこしずつ作り変え、そしてこれまでとは別の色に染めていく。そんなことをしているというのに、張本人は人形のように時雨に寄りかかったまま、さっきまでのようにうとうとと、まぶたを重くしはじめていた。

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