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十三話 ぬくもりと覚悟 039

 茉優さんのこと?
 そう聞かれたときには即座に「んなわけないだろ」と答えられたのに、なぜか「じゃ、あの小さい子だ」と確信を持ったようなことばには、一瞬返答に詰まってしまった。その隙を逃さないといわんばかりに、「やっぱり」といわれると、それ以上いいわけをすることは不可能だった。

 「おかしいね」とそれは電話越しに不気味に笑った。かねてからずいぶんな粘着質だと知っていながら関係を解消しようとしなかったのはどうしてだったか、時雨にはもうそんなことも思い出せなかった。要はどうでもよかったのだ。
 クスクスという押し殺したような笑い声。

「そうなんだ。でもなんでなの? 男で、子どもで、――もしかして声が出ないからかわいそうだった?」
「かわいそうなんて思ったことねーよ」

 むしろ最近は図々しいとさえ思ってる、と付け足そうと思ったが、あきの情報をこの女に知らせる必要などないので、黙っておく。電話越しのルリは、あーそうなんだ、と繰り返した。

「でも、そうしたら、あの子に同情するなあ。だって時雨はもともと絶倫で、節操なくて、エロくて女のあれが大好き、スタイル良い女しか基本的に勃たないじゃん。そんな時雨をこれから先ひとりきりで、ちっちゃい男の子が、お世話できるのかなあー」

「うるせえよ」
「……ねえ、本気なの?」
「だから何度もいってんだろ。もう来んなって」

 つめたいなあ、という甘ったるい声も、前はどうして気にならなかったのだろうと不思議に思うくらい面倒に感じる。声を荒げた拍子に、となりで仮死状態に等しいほど深い眠りについていたそれがもぞっと身じろいだ。先ほどまでいぎたなくすぴすぴと心地よさそうな寝息を立てていたが、夢との狭間で時雨の声に反応していたらしい。

 昨日は仕事が休みだったので、あきになにかしたいか聞いたところ、一緒に寝たいとのことだったので、夜寝る前に多少のいたずらを仕掛けつつふたりベッドに寝転がったのだ。いたずらされてわーわー喚きながら「寝れないからやめて」と抗議した割に、寝つくまでは異常に早い。朝起きて夜眠るというサイクルのあきがあっという間に寝ついた横で、まったく異なったサイクルで生活する時雨はなかなか眠ることができず、暗闇にくっきりと浮かび上がるあどけない寝顔を見ているだけの退屈な時間となった。

(普通、すきっていったやつの前でこんな堂々と寝るかね)

 ちょっとは恥ずかしがってもいいものをと思いつつも、最近目に見えて色っぽい顔をするようになったあきを無理やり思い起こして、拗ねそうになる心を押しとどめた。

 短いまどろみのあと、まだ空の薄暗い夜明け前に目が冷めたところで、ふと思いついてルリに関係解消の電話をかけたのだが、――見事にこじれた。一分で終わる話のはずが、女というもんはどうしてこう簡単いかないのか。時雨は自分の所業を棚に上げて心のなかで愚痴る。

 シーツをくしゃくしゃにしながら、芋虫みたいにうねうねしはじめたあきに、布団をかけなおしてやる。

「とにかく――話は終わりだから」
「……あの子は、時雨に似合わないよ」
「似合うとか似合わないとかそういう問題じゃないだろ。じゃ、切るから」

 待ってということばと、自分の名前を呼ぶ声が聞こえたが、それ以上付き合う気はなかったので電話を切った。時間を見てから、携帯を枕元に放り出し、未だに心地よさげな眠りの世界にいるあきの髪の毛を乱暴に撫で回す。散らばった髪の毛が指に絡んでは解けていく感覚を堪能していると、むしゃくしゃするような感情が、スポンジのようにずるずる吸収されていった。こいつにさわるというのは、どうしてこうも不思議な感情を誘うのか、時雨は最近よく考える。

 夢の世界から引き戻されかけているあきが、不満げな様子でいやいやするように手から逃れようとする。なんだその態度はと、むっとしてそのからだを引き寄せると、寝起きのあきがぼんやりとした顔でぱちぱちとまばたきした。

「はよ。よく寝れた?」

 ずりっとシーツに片頬をつけながら、あきが頷く。

「あーそ。……俺は一昨日の仕事終わりに昼寝して、夜からまたおまえと一緒に寝たから、睡眠が十分すぎてからだがいたいけどね。介護されてるおじいちゃんみたいだよ」

 付き合わされたという嫌味をいってみるが、あきはキョトンとしたままだ。口元が、『かいご?』と、パクパク動く。ほんとうに、日本人とは思えないくらいことば遊びが通じないやつだ。まあ、半分くらいは異国の血が混じっているからだろうが、もう半分は一般常識の欠落である。見事に穴だらけである。
 とん。と、あきが枕元に放置された時雨の携帯を叩いた。時雨がだれかと電話をしていることに、夢と現実を行き来しながらもなんとなく気づいていたのだろう。

「ああ、ルリ。おまえ覚えてる? ……一瞬会ったことあるけど」

 あきはなぜか、胸にちくっと針が刺さったような顔をして、またずりっと頷いた。シーツと擦れて痛そうだったので手のひらを挟んでやると、されるがまま頬をベタッとつけてくる。警戒心のかけらもない。
 だがこの反応を見ると――茉優が大丈夫だったから気にしていなかったが、どうやらルリはだめらしい。「安心しな。もう来ない」というと、あきは目をしばたかせて、空いていた時雨の手に文字を書く。

『もう、ルリにしないの?』
「なにが?」
『あれ』
「だから、なに」
『あれ』

 ことばからはまったく伝わらかったが、あきが意地でもその『あれ』とやらを文字にしようとしなかった。そのままもじもじしている素振りと、困惑した表情を見るうちに、やがて時雨はひとつの仮説にたどり着く。

「……なにおまえ、知ってんの?」
『見た』
「いつだよ、ったくもー」

 思い出そうとするけれど、いったいどのタイミングなのかさっぱりわからない。時雨はつくづく最低なツクリになっている自分の脳みそを棚に上げ、勝手にていよく察したあきを恨めしげに見下ろす。つまり、どうやらあきは自分とルリの姿をどこかで見かけたらしい。

「もうルリとはしない。つーか、だれともしないよ、たぶん。……約束」
『やくそく?』
「そ」
『やくそく』

 あきは、くちびるを動かした。そうして不可解そうに、もう一度時雨を見る。どうして時雨が自分にそんな約束をしているのか、わからないようである。世間知らず――というよりも恋愛どころか人間関係のいろはすら知らないあきは、色々なものが上手く結びつかない。
 時雨があきをすきなこと、キスをしたいことは、最近なんとか理解の域に達したらしい。ここまで理解させるだけでも随分と苦労したが、今度はキスに続く先のことと、すきという感情とがどうもリンクしていないようだ。

 まあ、それは仕方がないかもしれないと、なんとなく思う。

 この幼い子どもの母親の様子や、子どもをクローゼットに閉じ込めたまましていた母親が、いったい部屋でどんなことをしていたのかは、想像に難くない。そういう背景があるからこそ、あきはすきとか、キスとか、そういう感情と『あれ』とが結びつかないのだろう。

 いっときあきは、時雨に触られるのをひどく嫌がった時期があった。今も慣れてこそいないが、あからさまにびくついていたあの時期は、たしかルリを部屋に入れていた時期と重なる。どこかで見て、嫌な記憶でも思い起こしたのか。
 もごもごと口を動かすあきを抱きなおして、何かを懸命に考えているあきの、ベッドに散らばる男としてはやや長い髪の毛にキスをした。前にリョウタが髪を切っていたようだが、あれからずいぶんと伸びてきた。

「見たとき、気持ち悪いって思った?」

 あきが一瞬だけ頭を動かす。手のひらを直に頬へひっつけていなければわからないほどの小さな振動は、首を横に振っているように感じた。それでも曖昧な返答だと思っていると、あきが慌てて時雨の手のひらを探す。

『べつのひと、みたいだった』
「なんか変なもん思い出した?」
『すこし』
「あー、そ。ま、これからは、おまえとするから」

 気まずそうにしていたあきの表情が、そのことばで一瞬にして固まる。何をいわれているかわかった刹那、みるみるうちに肌が真っ赤に染まる。くちびるをもごもごさせながら下を向いたあきに、ぞわぞわと背中から何かが這い上がるような感覚。ああ、もっと困らせたい。日頃あきの行動の逐一にぶんぶん振り回されている時雨は、自分のことばに素直に感情を露わにするあきを見ると、どうも妙な気分になってしまう。

 振り回されるのは、先に惚れた方の弱み。だから、せめて、たまには俺のことばに慌てふためけばいい。

 それから恥ずかしそうに顔をすっぽりと布団にしまいこんでヤドカリのようになったあきに、知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。時雨は最近、この小さな生き物に対してふいに零れている微笑に、未だに自分ですら気づいてはいない。
 そこにもしリョウタがいたら、卒倒する勢いでいうだろう。時雨さんって、……そんな顔もするんっすね。と。茉優がいたら、レアすぎて気持ち悪いと引くかもしれない。

「おまえなんで出てこないの」
「……」
「こーら」
「……」
「で、おまえ、今日学校なんじゃねーの? 時間大丈夫?」

 デジタル時計に示された時間は、いつの間にやらとっくにあきが起きている時間を指していた。知っていたけれど素知らぬふりをしていた時雨がネタばらしをすると、さらにびくっとしたあきが跳ね起きて、時雨をポカポカと二、三回叩いたあと寝室を出ていった。赤みはまだ、引ききってはいない。

 慌てふためきつつも、遅刻しても学校へいくのかと、時雨はちょっとおもしろくない。もぬけの殻になった布団に興味はなくなったので、忙しない背中を追う。

 いっそのこと学校になど行く気がなくなるようないたずらをしてしまおうかと思ったが、最近のあきの学校への執着を考えて、やめておいた。

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