背景画像エリアTOP

十二話 キーホルダーと2回目のキス 037

 だって、あの夜のことは、あきにとってあまりにも衝撃的だったのだ。

 簡素なひとり用の部屋には、企業間取引の多いオフィス街だからであろう、男性が泊まることを想定し、ベッドがちょっと大きめだった。ベッドメイクされたそれに乗り上げると、膝を沈めたそこがくしゃっとする。
 それが楽しくて、膝を使ってベッド上を歩き回っていると、後ろからペットボトルを二本持った時雨が入ってきた。入ってくるなりへんな顔をした。なにしてんの、といわれたけれど、説明がつかない。

 部屋は整頓されているし、ベッドはしっかりしているし、ちょっと狭いけれどいやなにおいのないいいところだなあと思っていたあきのそばで、時雨が毒づいた。いわく、こんな狭いのになぜこうもばか高いのか、と。近くに多くホテルのあるような地ではなかったから、しょうがない。

 ビジネスホテルと呼ばれる場所は、時雨がたまに使うホテルとはちょっと違うらしい。

 あの日、終電で帰れる可能性がかぎりなく低いとわかるやいなや、時雨はすぐに行動に出た。しかし電車が動かなくなった場所が悪かったのか、ホテルなどほとんどないに等しい土地だった。そのためやっと見つけたホテルの、しかも二人部屋がないと断ろうとする先方を、時雨が「子どもと一緒なんで」と押し切ってひとり部屋を取ったのである。

 商売上手なホテルにはきっちりふたりぶんのお代を取られたが、やり返した時雨はあきを小学生料金(いわゆる小学生料金である)にした。おもしろくなかったけれど、ふかふかのベッドで遊んでいたらどうでもよくなってしまった。あきが子どもとばかにされる所以である。
 時雨はベッドを一瞥して、せまいな、とため息とともにいった。

「まあいいや。おまえ風呂はいってこい」

 一度脱衣所へ向かったものの、しばらくしてあきはすごすごと時雨の元へ戻ってきた。なんかおふろちがう、と時雨をぐいぐい脱衣所へ引っ張る。時雨は中の様子を見て、あーこれはおまえには難易度高いなあ、とあきの頭をぐいぐい撫でた。
 あきはそこで、ユニットバスという、不器用人間の敵みたいな簡素なつくりを知った。

「おまえカーテンの外までシャワー飛ばしすぎだから」

 あきと同じつくりのナイトウェアを纏った時雨が、がしがしと頭を吹きながら寝室へ出てきた頃、あきはほっぺをくっつけながらしげしげと窓の外を見下ろしていた。

「なんか見えんの?」

 いや、なにも。首を横に振る。

「じゃあおまえはそんな真剣になにを見てんの。……妄想の中では東京の高層ビルにいて、眼下にオフィスの明かりでも見てんのかね。いくらするんだか」

 金勘定ばかりしている時雨を放っておきながら、あきは暗闇を見つめていた。2階に案内されたため、いつも暮らしているフロアよりも更に下からの景色が、数メートル違うだけであきには面白おかしく見えているらしい。子どもの考えることはわからないと思われているとはつゆ知らず、あきはじい、と外を見ていた。ふいに明るい室内を振り返ると、時雨が頭を拭いている。その間あきは(簡素なたまご料理に)数十分かけて挑むため、ごはんを出す頃には時雨のからだからシャンプーのかおりがほのかに香るくらいになってしまっている。まして、髪の毛などはすぐ乾いてしまうもの。

 というわけで、時雨の頭をがしがしする姿は珍しい。うつろいやすいあきの興味は、すっかり時雨へと変わっていった。

「なに」

 ぼさぼさの時雨、ちょっとめずらしい。いつもだらしないけれど身なりだけはそれなりにちゃんとしているのに、へんだ。それに、顔立ちが整った時雨にナイトウェアはあんまり似合わないみたい。へんだ、へん、へんてこ。

「なんだよ」

 仁王立ちになったままの時雨に向かって歩いていき、後ろに回り込んだ。ちょうどあったベッドによじ登って立ち上がると、その高さを借りて目線が時雨と同じくらいになる。後ろからタオルをとって、がしがししはじめた。

 最近、なんとなく時雨にさわられるのがすきじゃない。でも、さわるのは平気。
 時雨はもう二、三回なんだよ、なにの類をいったあと、諦めたようにあきの方に倒れてきて、そのままベッドに座った。あきも膝立ちになって、時雨の髪をがしがしした。

 鼻につんとするような、シトラス。時雨の髪の毛からいいにおいがする。すん、とたしかめらるみたいに、においをかいだ。

「くすぐったい」

 なにが?
 そう思っていたら、ぐい、とからだを離された。なぜか、距離を取られる。

 なんとなく、む。つんつんと背中に指を埋める。時雨はデブじゃないから、差し入れた指はすぐに骨っぽいからだに到達していて、すこしも埋めることができない。

 近くで見ると、時雨のからだはきっとあきよりもずっと強くて大きいのだと思う。いつもあまり意識しないのだけど。

 あきの脳裏に、いつまでも焼きついているルリとのツーショットが浮かんだ。艶めかしいルリの肢体とは裏腹に、時雨のからだはすべてが雄々しく、女のひとのからだをすっかり食べてしまいそうなほど大きく見えた。

 侵食される、みたいに。

 おかあさんもそうだった。男のひとがおかあさんを侵食してしまうみたいだった。だから、きっとぼくも大きくなったらだれかを侵食するのだ。それなのに、あきが覚えているのは女のひとのしなやかな裸体じゃない、時雨のからだだ。

(あのときも、あっという間に、背中がソファにぴたってした)

 ぽすんという背中への衝撃と、熱いからだを思い出す。酔っ払ったらしい時雨(あきにはその原因が他ならぬ自分の飲もうとしたウイスキーであることに気づいていない)は、いつもより手つきが乱暴だった。
 そのくせ妙にさわり方が、なんだか逃げたくなるのだ。

(あれ? ……あれ?)

 なんだか、また動悸がしてきた。制御不能の機械をメンテナンスするみたいに、あきはからだじゅうの器官の不調を辿った。おかしいのは胸と、ちょっとだけ熱くなった頬だけだ。さっき窓に額をつけていたから、アイスみたいにひんやりしたはずなのに。

(それに、気になることが、ある)

 あの日からあきは時雨にバレないように秘密にして、こっそり自分のくちびるをさわっていた。
 時雨のくちびるがくっついたのは一瞬だ。だけどそれは、時雨からのなにかとても大切なメッセージだったような気がしたのだ。
 それなのに、朝起きたら時雨はいつもどおりだった。いつもどおりあきの作ったたまご料理を眉間にしわを寄せたりたまに文句垂れたりしながらも基本的にはすべてを平らげて、眠る。そうして仕事に行って――その繰り返し。

 あきと時雨は、あれからなにも変わっていない。
 くちびるがくっついたのに、である。そういうものなのだろうか、と、あきは不思議に思う。

 また、したいのは、ぼくだけ?

 あの感覚を思い出そうと、指のはらをくちびるにくっつけてみた。左手の親指から、右手の小指までぜんぶ。だけどあきの鼓動は正常な速さで胸を売っていたし、頭がくらくらしたりもしなかった。

「気、済んだか? ……とりあえず寝るぞ。せまいな本当」

 待って、と、時雨の手を掴んだ。あきと同じふわふわのナイトウェアが、手の中におさまる。時雨は振り払わず、ちょっと面倒くさそうに眉を釣り上げて「なんだよ」と呟いた。

 なに、なんだよ、は、時雨の得意技。
 手を伸ばして時雨にさわると、ベッドのおかげであきの身長は時雨の顔に近づくのに十分足りた。そのまま、ややおどろいたように目を見張った時雨に顔を近づける。
一気に押し寄せる緊張感のせいで、いつもよりもかたく、不器用な手が、あやまって時雨の耳を引っかいた。

「おい、こら」

 ふに、という音がしそうなくらい、しっかりと、あきと時雨とのそれがくっついた。背伸びをして時雨のかたちのよいくちびるをつついて――一瞬後に、時雨がいつものトーンでそういった。諭すように――でもそこに含まれる熱が、いつもと違う。
 刹那、からだを一気にひっくり返された。かつて経験したことのないほどダイナミックにあきの視界がくるりと半周ほど回って、後頭部を打ちつける。やわらかなベッドが、あきの頭をよりアホにしてしまうのを助けた。

「……っ」

 しぐれ、と、唇を動かそうとしたけれど、それは簡単に抑え込まれた。
 同時に、さっきの拙いそれとは打って変わって、角度を変えてぴたりとくちびるが合わせられる。押しつけられるように深く、探るようにしてくるそれに、自分でしたときとは比べ物にならないくらい心臓が高鳴った。

 治らない病気なのかと思うくらい、それに、心臓の音が張り裂けそう。時雨に聞こえてしまいそうなくらい。

「……っ」

 やがて息ができなくなって、どんどんと時雨の胸を叩いた。あえぐようにからだをばたつかせる。まるで深海を泳いでいた魚が急に淡水魚になってもがいているみたいに苦しい。あざ笑うようにわざとゆっくり離されて、一気に酸素を吸い込む。

 明々と照らされた室内に影を作った時雨が、「ふざけんなよ、ほんと」と毒づいた。声のトーンはいつもと同じなのに、あきは本能的にいつもと違う時雨の空気を感じ取った。日頃のクールさはどこかへ行ってしまったみたいに、あるのは甘ったるい雰囲気だけだ。

 時雨の四角く骨っぽい手の甲が、あきの頬を確かめるように滑る。
 また、いたい。あきは痛みを訴えるように、胸に手を添えた。それなのに、時雨がその手をさらって、自分の指と指に絡める。
 押しつける力は強いのに、その指先はまるで繊細な砂糖菓子にでもふれるみたいにやさしい。

「……なんか、もう、やめた」
「……?」
「ひとが我慢してんのにおまえばかだから距離感わかってないし、煽ってくるし」

 あおる、って、なんだろう。

「らしくないし、もういい。――だからおまえはどこ向いてんだよ」

 ぐい、と顎を捕まえられた。生乾きの湿った髪の毛が、あきの乾いた髪の毛と絡まってしまうくらい、ふたりは近くにいる。あきはなんだかむずがゆくなって、逃げようとするけれど許されない。

「……っ」
「逃げんなよ」

 時雨に通せんぼされて、抗議をしようとしたところで、いつの間に近づいてきたそれに、半開きのくちびるを塞がれた。コントロールがすっかりできていないあきのそれとは裏腹に、時雨はしっとりとしたそれをあきにぴたりと合わせて、なぞった。シーツの間を縫って後頭部に回されて、いっそう深く口づけられる。
 息切れの音が情けなく出て、めまいがして、おまけに心臓は制御不能だ。

「なんで、こっち向かない」
「……」
「いつも穴が開くかってくらい見てくるくせに」

 夜の色に染まった時雨の瞳が、やや三日月になる。惜しみなく次々と出される知らない時雨の姿に、すでにキャパシティを超えているあきの頭は対応することができない。
 苦しいはずなのに、胸の奥がぞくぞくした。味わったことのない気持ちに、不安になるほど。くちびるを離して逃れようとしても、時雨のくちびるや手やからだすべてが追い打ちをかけてくる。

 あどけないあきのからだをどうにかするなど、時雨には造作もないことだった。

「……っ」

 声の代わりに出る、ひゅう、という空気の音さえ、時雨は吸い込んで塞いだ。それはいつか男のひとがおかあさんに、そして時雨がルリにやっていた、食べる口づけだった。
 あきはただ、甘い雰囲気を漂わせはじめたおとなの時雨にただ翻弄され、溺れた。しつこいそれは、快楽を知らない幼いからだを、ぐったりとブラックアウトさせるまで続いた。それほどに、時雨は止まらなかった。

 あのときのことを考えると、あきは自分のおなかの下あたりが、ずきずきいたむ。
 くちびるの感触や温度、いたいくらいからだを抱きしめてくるたくましい腕の力、――すべてが、知らない時雨だった。

« | »

Copyright 2018 Moe ――Tsuki to Nemuri All Right Reserved