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十一話水族館とかけひき 035

 散々歩き回ったせいでエネルギー切れになってしまったのか、あきの歩幅がいつものほぼ半分になり速度もがくっと落ちた頃、休憩がてらその辺のファミレスで夕食を取った。はじめての外食に、あきはしげしげとメニューを見つめていたが、種類が豊富すぎて自分じゃ決められずに時間だけが経過したので、見かねた時雨が勝手に注文をした。

 そうして夕食を取り終わった頃には、クリスマスムードが黄色い照明の照らされた室内へ移動しているみたいに、夜も深くなっていた。これからひとつ県を超えて帰ったら一体どんな深夜になるのだろうと、帰宅するのが半ば面倒になりつつも時雨とあきは、ポツポツ間を空けてひとが座るだけの電車へ乗った。

 クリスマスの跡地みたいなそこは、ほとんどのひとが疲れ切ったように首を垂らしている。ほぼ路線の終点である鎌倉は、昼の街が混んでいるのに対して夜は静かに息を潜めるようだった。

 そのうち、水族館からの名残で手をつないだままのあきの首がゆらゆら揺れて、時雨の肩口に寄りかかってきた。買ったばかりなのにもう持ち主に馴染んだふわふわのマフラーに口元までをすっぽりと隠している。
 疲れてんのはこっちだよと思いつつも、なぜか眠る気にはなれなくて、窓ガラスのせいで暗い闇の中にぽつんと映っているおかしな組み合わせのふたりをぼんやりと見つめていた。

 普段の自分が考えないところまで深く思考を落とすこととか、いらん心配ばっかりをかけさせることとかをひっくるめれば、もうこんなガキとは金輪際出かけたくない――そう思う気持ちとは裏腹に、ようやく心が静かになってきたころだった。

 ――突如として、明らかにどんな小さな駅のホームも見当たらないところで、電車が止まった。

 急停車します。ご注意ください。
 緊急であるはずなのに、まるで他人事のように流れる機会的なアナウンスと、バランスを失ったからだに、あきが眠そうに目を開いた。

 えのしま水族館に行きたい、時雨と。

 もしも時雨がその願いを「はいはいいつかね」といいながらすこしだけ先延ばしにしていたら、それにあきが納得してこの日はおとなしくふたり部屋で過ごしていたら、そうしてこのとき同じ路線内の二つ前の電車がそれまで生きていただれかを轢いてはいなかったら、――ひとつのボタンを掛け違えたらすべてがちぐはぐになってしまうみたいに、時雨とあきの関係は今までと変わらなかっただろう。
 すくなくとも、しばらくは。

 けれどピッタリとしたタイミングで、偶然が重なった。なににでも、どうしても抗えないときはあるはずなのだと、時雨は不思議なほど冷静になった頭で、そう思う。

     *

 だから、俺は。――時雨は麻痺した頭で、必死に状況を回想していた。だから俺は、なにも悪くない。もういい。
 しぐれ、と、あきのくちびるが震えていた。

 扇情的なムードを演出するようなほの暗い照明に、息を切らしたあきが見える。長いまつげが震え、ヘーゼルアイの不思議な色をした目が、時雨を静かに捉えている。同じように冷静に見えるけれど、ちっともそうではなくて、ひどく動揺しているのが手に取るように伝わってきた。

 時雨の部屋にあるベッドみたいに、スケッチブックやお釣りの小銭は投げ出されていない。まるで幻惑のように用意されたしわひとつないシーツが、時雨の手を離れて身をよじるあきに合わせて不思議な模様を作っていく。

 俺はなにも悪くない。
 元々我慢は性に合わない。――ちぐはぐで幼稚な駆け引きは、もうもう無理だ。

 さっきまでの時雨のせいですっかり濡れてしまったあきのくちびるにもう一度親指をかけると、活きのよい魚みたいにあきのからだがぴくりと跳ねた。逃げようとしたところを、肘で塞ぐ。

「……っ」
「逃げんなよ」

 吹っ飛んだ理性を置いてきぼりにして、時雨は薄く小さな――そしてすでに口づけようと目論んだことが決してすくなくはなかったくちびるに、その日何度目かわからない深いキスの雨を降らせた。

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