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十一話水族館とかけひき 034

 クリスマスまでの数日間、あきの行動は実に献身的だった。毎日チャーハンである。
 時雨としてはいつあきが自分の指をちょん切るか気が気でないので、「たまごかけごはんがいい」とリクエストしてみたものの、『えんりょしなくていいよ』というへたくそな文字とともに、チャーハンじみたものが朝と晩に出てくる。

 こういうときに限って、茉優は部屋に来ない。気まぐれな女である。

 しかし日によってまったく味つけの変わるこのチャーハンが、あきからの「連れて行ってくれるのありがとう」という気持ちであることが、いわずとも伝わってくるため無下にできない。とことん振り回されているが、ちょこまかと動き回るあきがいっそかわいく見えるのだから末期である。
 振り払えども消えないその想いに、そろそろ時雨は我ながら辟易してきている。

 そんなこんなで二十四日の出勤が終わったが、毎年のオーナーとの約束で「クリスマスに休むのはいいが、勝手なことしてるのがわかっているならそれまではきっちり働いてくれ」というお達しを受けているため、ここまで重労働だった。当たり前だが、稼ぎどきであるクリスマスは出勤が基本である。

 さすがに疲れたので、寝ながらチャーハンを食べて、そのままほんとうに眠りについた。
 溜まった疲れをすべて解消して軽いからだを起こすと、午後二時を回ったところ。当然、朝から遠出する気満々だったあきは、ややすねた様子でじい、と時雨を見下ろしていた。それでも起こさなかったということは、一応仕事が忙しかったことを理解しているのだろう。

 ――そんなわけで、ずいぶん遅い出発になった。おそらく江ノ島につくのは日が落ちる頃であろうと思ったが、これ以上あきを不機嫌にさせても仕方がないので黙っておく。時雨とのおでかけに対し、さっきまでの不満を忘れ、だんだんと期待で目を爛々とさせていくあきとふたり、マンションを出た。

 そういえば、ふたりで外に出るのはやや久しぶりだった。やがて時雨はあきがこんな真冬なのにおどろくほど軽装であることを訝しんで、それからコート以外にはこれといって有益な防寒具を買っていないことに気づいた。そういうところは、無頓着である。

「風邪引くのおまえなんだから、寒かったらいえっての」

 途中で適当に寄った駅ビルのショップで買った白いふわふわのマフラーを、その場でタグを切ってもらってすぐにあきの細い首に巻きつけた。こうしてみると、男のくせに白がよく映える。あきは首元がぽかぽかすることに、ひどく目を丸くしていた。

 乗り込んだ電車は、休日でクリスマスでというシーズンから想像していた、ギュウギュウに箱詰めされるような混雑具合ではなかった。微妙に時間が遅くなったのが幸いしたらしい。それでも混雑は混雑なので、時雨は暑苦しさにストレスを感じながらも、目の前で電車という乗り物を興味津々に観察する子どもがどこかへふらふら流されないように見張った。あきはそんな時雨の想いなど知るはずもなく、窓の外であっという間に変わっていく景色を凝視していた。

 江ノ電はさすがに混んだ。箱詰め状態であった。あきは半分潰されかけていたけれど、これを機にどこかへ行くことの面倒くささを植えつけてしまおうと踏んだ時雨は、意地悪にもそれを助けようとはしなかった。何度か縋るような目で見られたけど、我慢しろと一蹴した。アホで小さいこの生き物は、周囲の人間のエゴに任せていいようにもみくちゃにされている。これで、出かけることの大変さを学ばせることができたと、狡猾な時雨は胸を撫で下ろす。

 ――しかし、水族館の混雑具合を鑑みてからいえば、電車の混雑など序の口だったといってよい。

 すいぞくかん。とひとり言をいうのではないかと思うくらい、目の前の施設に目を輝かせるあきには、あの人混みはもしかして見えていないのではないか。時雨は回れ右をして帰りたい衝動に駆られながら、子どもの強靭なストレス耐性に圧倒された。
 数年前に江ノ島という観光地を彩るレジャー施設として開設されたとき、ニュースになっていたのを今でも覚えている。まだできて新しいというのだから、クリスマスに酸素不足になるほど混むのは安易に想像できたはずだ。

 となりでウキウキしている子どもが、恨めしい。

 ただここまで来て「やっぱり帰ろう」といえるほど鬼畜な性根ではない。時雨は腹をくくって、行列しているチケット売り場へと歩き出した。てっきり入り口へ行くのかと思っていたらしいあきは、なぜかその横の行列へ向かう時雨に首を傾げている。
 まずチケットを買うのに十分以上並ぶのだから、すでに時雨の気分は急降下している。もっとも、ジェットコースターのように上がっていたときはないのだが、更に深海に向けて下降気味である。

 チケットを二枚もらう。それぞれ異なる海の生き物の写真がプリントされていたので、あきにどっちがよいか選ばせると、たっぷり一分ほど立ち止まって悩んだ末に、ペンギンを選択した。選ばれなかったイルカは時雨の手の中へと収まる。

「おまえ水族館は……行ったことないよなあ」

 あきは元気よく頷いて、ゲートをとおる。心なしか、いつもより歩くスピードが早い。展示スペースに行ったら今度はきっと、いつもよりのろまになるだろう。

(全部回るまで、何時間かかるかね)

 遠い目をしながら、軽快な足取りのあきを追った。

「おと……お兄さんから離れないようにしてくださいね」

 チケットを通している最中に、スタッフがあきと時雨とを交互に見てから、困った様子でそういった。どっちかはかなり悩んだらしい。時雨の見た目は至って年相応だが、纏う雰囲気や実年齢より確実に幼く見えるあきとの組み合わせが、スタッフを惑わせたらしい。
 あきは知らないひとに話しかけられたことにびくついて、了解、と恥ずかしそうに頷いた。うつむいたのは、スタッフの視線から自分のひとと違う双眸を隠すためだろう。どうやらそうかんたんにコンプレックスがどうにかなるわけではないらいしい。

 薄暗い室内をすこし歩くと、色とりどりのライトに照らされた館内が見えてきた。同時に、魚たちが小分けにして詰められた水槽がぼんやりと浮かんでくる。ただ、それとあきや時雨との間には、大きな渋滞が待ち構えていた。
 あきは不思議そうにひとだかりを見つめて、時雨に向かって水槽のある方を指差しながら首を傾げた。さしずめ、あれなあに、であろう。

「おまえそれも知らないできたの? 水族館は魚とかちっこいのがいっぱいいるんだよ。ペンギンとかイルカもいるけど。まずはそれを見るの」

 呆れた。あきは水族館を、水族館ということば以外はどうやらなにひとつ知らないみたいだ。
 よくもまあそんなすくない情報の水族館に想いを寄せて、マンションを飛び出そうとしたものである。

 家族連れ、恋人同士……いろいろな関係の人間たちとすれ違う中、俺とおまえはどう見られてんだろうな。周りのことなどお構いなしに、見えない水槽へ背伸びして熱い視線を向けている小さなつむじを見ながら、時雨はそう思う。

「見たいなら並びな。一生見れないぞ」

 さっきから背伸びをして仁王立ちになったままのあきを、小さな子どもたちやカップルが抜かしていっている。小さな左右の肩に知らない男女のからだがあたって、水槽を泳ぐ魚みたいにふらふら頼りない。――まったく、見ていられないほどどんくさい。
 このままだとあと一時間くらいは平気でこのへんで棒立ち状態のままになりそうだったので、そういうと、あきはこくりと頷いてひとの波に乗るべく並びはじめた。「見たいんでしょ」といわんばかりに時雨を手招きしている。余計なお世話だと思いながらも、時雨も一緒に並んだ。上背のある時雨には水槽の様子が上から見えていたけれど、ちびっこ同然のあきは目の前に水槽がくるまでほとんどその全貌を見ることができない。
 途中でそのことに気づいたあきが、すこし羨ましそうに時雨を見たので、「おんぶするか? おまえあの赤ちゃんと同じになるぞ」とあきの半分くらいの子どもを指差すと、おとなしく引き下がった。

 すこしずつ、移動をしながらも、予想通りすべてをくまなく見ないと気がすまなかったらしいあきは、端から端まで興味津々に眺めていた。ようやく水槽の眼の前にくると、あきがうっとりとした様子でそれに見入っている。暗い照明の中、人工的に照らされたカラフルなライトと、まるで本当の海の中みたいに悠々自適に水を蹴る生き物は、何時間でも見られるほど珍しいらしい。空気を読まずに見入り続けているため、時雨には後ろからの苛立ちがビシビシと伝わってきたが、当然鈍感な子どもには伝わるはずもない。時雨は半ば強引にあきを引っ張りながら進ませる。

 そんなこんなで、子ども心などとうに忘れ去った時雨にとっては、異常に長い時間が続いた。

 ガラス張りの水槽をペタペタさわるあきの横顔が、青や緑、ピンクに照らされる。
 とりわけあきが気に入ったのは、くらげ、である。

「ほら。行くぞ」
「……」
「こら。後ろ詰まってる」
「……」
「イルカショーあるけど、間に合わなくなるぞ」
「!」

 もしイルカショーで釣れなかったとしたら、あきは途方もない時間をくらげのいるスペースで過ごしていただろう。

(それにしても、くらげは地味だろう)

 普通、ペンギンとかラッコとか、そういう大きいものを好きになりそうなものだが、こいつの場合はやはりどこかズレている。くらげなんてただ狭い水槽を漂流しているだけだったのに。
 糸のように細長い触手をたどっていた指を名残惜しそうに離して、やっとのことであきはくらげスペースを出た。
 その日最後であったイルカショーの開演時間に間に合わなくなるというのは、実際ほんとうのことだった。あきと時雨は、一番後ろからそのショーを立ち見するはめになった。座れると思っていた時雨は、ブレない混み具合にげんなりする。一方のあきは、雰囲気だけしか味わえていないはずなのに、終始手を叩いてごきげんな様子だった。

「おまえ、なんか見えてるの?」

 あきが腕をくねらして、イルカがジャンプする様子を表現した。おそらく切れ切れでしかないだろうが、見えているは見えているらしい。こいつが「見えない!」とぐずるタイプでなくてよかったと、後ろですぐとなりで「見えない!」とぐずっているガキを横目にひと息ついた。

(あーひまだ。……ヤニ切れだ)

 二十分のショーが終わり、怒涛の勢いでひとが移動しはじめる。あきには悪いがそのへんにいてもらって、たばこでも吸ってこようか(そもそも喫煙所はあるのだろうか)。そんなことを考えながら、時雨は四方を見回す。
 最近めっきり喫煙者の肩身が狭くなりつつあるが、どうやら喫煙所はあるらしい。標識を見つけてからあきのいた方を振り返って、動きを止めた。

「見えなかった!」
「仕方ないじゃないの。ほら、ペンギン見に行くよ」
「ううー……」

 唖然とする時雨の真横を、さっきまでぐずっていた子どもと母親が手をつなぎながらすれ違っていく。
 人の波に流れたか、そこにあったはずの姿が忽然と消えている。

 四方を見回したが、それらしい姿はない。すべて、わずかに目を離した隙に起こった。喫煙所を無視し、歩き出す。この人混みじゃ、走ることすらできそうにない。

 かすかに残る冷静な頭で考える――名前を呼んでも無理だ、あきはしゃべれない。あとばかだしおまけにコミュニケーションに問題がありすぎるから、周囲の人間に助けを求めることも出来ないだろう。

「……っ」

 背筋がひやりとした。心臓がいやな音を立てていて、――自分が異常に焦っているのがわかる。

(落ち着け)

 最悪、出口のゲートで待っていればいい。それに、あんな子どもがひとりでいたらちょっと心あるおとななら確実に助け舟を出すはずである。

 でもあきはどうする?
 人馴れしていなくて、自分だけを頼りきっているあの子どもは、たぶん――俺がいないとわかると不安がる。最近は妙な図太さを覚えてきているが、根は繊細だ。そんなとき、あきはどうする。大人についていくか、迷子センターにおとなしく預けられるような子どもか。

 色とりどりのライトと、優雅に泳ぐ海の生き物に反射して、きらびやかに輝くヘーゼルアイを思い出す。――あ。そうだ、こういう切羽詰まったときに、あきがしでかしそうなこと。以前にした脱走未遂のことを思い出して、時雨は大股でひとをかき分けながら歩いた。

(いてくれよ、頼むから)

 こんなばかみたいな人混みで、放っておけばふらふら歩いてしまうあきを視線で追うだけにとどめたのは、なぜか手をつなぐという行為が、いやだったからだ。いや、もっと厳密に自分の心を解剖するのなら、いや、ではない。むしろ――。
 そんな想いをしている自分が、ばからしくなる。無理強いしてでも、どこへいってもわかるように、しっかりと手綱を引いていればよかったのだ。

 焦燥に駆られつつも早足で歩いた先にあったくらげスペースで、ぼんやりとくらげに顔を向けて弱ったようにうなだれていたあきの姿を見つけたとき、心底そう思った。

 大股であきの元へ駆け寄ると、足音に気づいたあきがこっちを向いて、変わらず表情はぴくりとも動かさずにぎゅうう、とおなかに絡みついてくる。突進と同時に絡まったからだがすこしだけ震えていた。

「勝手に行くなよ、あほ」

 深くうなずくせいで、小さな顔がいっそうぐりぐりとくっついてくる。
 以前行き場を失ったあきが、紅葉の赤く色づいたあの人気のない公園へ腰をおろして途方に暮れていたのを思い出したのだ。

 ――あのときと違うのは、あの公園では呆けたように見上げるだけだった小さなからだが、今日は時雨を見つけた瞬間に、迷わず胸の中へ飛び込んできたことだ。

 時雨はひと知れずほう、と息をついて、おしおき、といわんばかりにつむじをぐりぐり指で押しつぶした。喫煙所を探した際にあきから注意を外していた自分の落ち度はすっかり棚に上げる。しばらく時雨がいるのを確認するみたいにラッコ状態になっていたあきが、やがてちょっとだけからだを離して、スケッチブックになにかを書きつけた。

『手つないでいい?』

 元よりそのつもりだ。頷くと、あきはまた、その下に文字を書いてよこした。

『ほんとうはずっとつなぎたかった。しぐれが、そばに来てくれないからいやだかと思った』

 スケッチブックとペンを片手に持ったあきが時雨の手を探るより先に、マイペースなその手を時雨が捕獲する。ぴく、とした手が、ぎゅう、と時雨のてのひらを握り込んできた。
 それはおとなの時雨からすれば些細な力でしかなかったが、あきにとってはせいいっぱいの不安だったのだ。時雨のからだを連れ回すみたいに、子どもが遠慮がちに歩き出した。どうやらもう一度満員状態のくらげスペースを回ってから、移動するらしい。

 ――ほんとうはずっとつなぎたかった。

 あー。くそ。

 隠しようのない気持ちに、心がぐらぐらと揺れる。ライトに照らされてひとつになった影を尻目に、すっかり調子をおかしくした胸に、懸命に蓋をする。あきはすっかりいつも通りの装いになって、狭く息苦しそうな水槽の中を漂うくらげを目で追っていた。

 もう、いっそのことこいつを――……。
 その先に芽生えた暴力的な感情を、あきは知るすべもない。

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