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十一話水族館とかけひき 033

「あっはっははは! いてえ、腹いってええ……っ! あいつ最高っすね!」
「おまえは今の話のどこがツボだったの」
「いやあだって……、あいつ時雨さんを困らせる天才っすね! ひい、腹がよじれる……」

 そのままよじれてしまえ、と、時雨はたばこを更かしながらひとりごちた。
 部屋では吸わないたばこも、周囲のすれた男軍団によってもたらされる副流煙が刺激になると、つい吸いたくなるのが喫煙者の性である。休憩時間が終わろうとする頃、いつもどおり一緒にたばこを吸っていたリョウタから最近のあきのことを聞かれたので、ありのまま最も近日にあった出来事を話したところ、この大笑いである。

 リョウタが最後にあきと会ったのは、盛大な酒盛りをした十一月の中旬頃。次の日の朝見事に時雨の部屋のトイレに吐瀉物をぶちまけて以来、なにやら部屋の敷居を跨ぐのに遠慮をしているらしい。
 別に来てほしいともほしくないとも思っていないのだが、リョウタの考えにさしたる興味もないため、放っておいている。

「で、そのあとはどうしたんっすか?」
「行かせるわけないだろ。ぶん殴ろうかと思った」

 小奇麗な人形には、最近すごい勢いで自我が萌芽しはじめている。いい加減殴ってもいいだろうと思いつつも、頭を小突いて無言の「行っても知らねえから」という圧のみにとどめた効果は絶大だったらしく、あきはしゅんとして寝室へすごすご戻っていった。

「あいつの場合、……鎌倉行きの電車の乗り方なんてわかんないし、行ったらもう家出だろ」

 電車の路線どころか、各都道府県の位置すら危ういあきが戻ってくることはまず不可能だろう。仮に警察に保護されたとしても、――時雨はあきを迎えに行くことができない。
 そういう事情がなにもわかっていないからこそ、軽い気持ちで時雨を焚きつけるような振る舞いができたのだろう。振ったら鈴の音でもしそうな頭の悪さに、いらだちが募った。あきはなんで時雨がそんなにも怒っているのかまったくわからなかったようだが、これはまずいというのは感じたらしい。以来一度もそういった暴挙に出ることはしていない。

「まあ、水族館行きたかったんっすねえ」
「あいつの周りのやつはあいつに甘いんだよ。ただの我が儘なガキだ」

 一緒に暮らしてないからわかるんだ、とげんなりした気持ちになる。結局リョウタもあいつの味方らしい。一緒に暮らしていれば、面倒なガキでしかないところが大多数だというのに。
 最近一段と、時雨はあきに対して苛立つことが多くなってきた。同時に、からだの傷や病的な細さを見たところで、いたましく思ったり軽く同情したりする気持ちが次々に消えていくのを感じていた。ただの我が儘な子どもじゃないか。と、思う。

「でも時雨さん、毎年クリスマスは店休んでるじゃないっすか。今年は違うんすか?」
「休んでる」

 だれがあんな面倒な日に出るというのか。

「じゃ、行ってやったらどうですか?」
「……クリスマスの水族館なんて耐えられるか」

 時雨はまだしも、あきが人混みにどんぶらこと流されて溺れるのは目に見えている。そんなきらびやかなところになど行かずに、暖房のついた温かい部屋に閉じこもる方がよっぽど有意義だ。

「行ってあげてくださいよー。あいつ、たぶんレジャー施設なんか人生で一回も行ったことないし、縁なかったっすよ。そもそも水族館だって、どこでそんなことば知ったのか……」

 このざまだ……これまでのあきの不幸が、ああいう我が儘を勃発させるのであり、リョウタのような同情野郎を引き寄せるのだ。まったくいいご身分だと、最近すっかりあきへの同情を失い(あいつもしかして今やたらと得してないか)とさえ思える時雨を、むっつりと閉口させる。

(まあ、行ったことはないだろう)

 すいぞくかんということばさえ、これまでの生活とは無縁だったはずだ。学校のどこかで聞いたのだろうが、おそらくあのちっぽけな頭の中に水族館のビジョンはほぼないと行っていいだろう。
 なにを思ってそんなことを言い出したのかはわからないが、あの突拍子もない様子は、おそらく学校絡みだろう。

(課題? ……いや、中学二年生に水族館に行く宿題なんか出さないか)

「ね。時雨は今年もクリスマス休み?」
「そ」

 休憩が終わり暗く淀んだ店内へ戻ると、先ほどまでピッチを上げて飲み続けていたからか、顔をやや赤くした客が腕を絡ませてきた。強い香水のかおりが、からだを支配していく。時雨が席を離れている間につけ直したのか、先ほどよりもきつくなっている。客にはわからないような些細な変化だったが、時雨は頭を痛くさせるようなそのにおいに一瞬眉を潜めた。
 並んで寝ているときにかおってくるあきのそれは、同じシャンプーやボディソープを使っているというのに、爽やかというよりはほの甘く感じる。元々持つ体臭がそうさせるのかと、ひとりでに考えたことがあったのを思い出した。

「え! じゃあ前祝いしておこうよ。今日!」
「あー、そ? ありがと」

 喜々として酒を注文すると、周囲がいっそう大きな喧騒に包まれる。その代わり、アフター付き合ってほしいんだけど、と、喧騒にまみれてされた耳打ちに、頷いた。どうやら今日は遅くなりそうである。

 ――枯れている。

 茉優にそういわれたことを思い出した。勃たないといわれているようでその表現こそ面白くないが、たしかに最近の時雨はいろんな意味でそのことばどおりだった。勃たないことはないが、気分が乗らないのはほんとうだった。
 過去形なのは、――十一月に二度だけ、しかも同じ男でありまだあおどけない子どもに、そういう気分にされたからである。あまりにも強烈な、耐え難い誘いに思えた。かなり中性的であるものの生物学上では間違いなく男で、十以上年下で、最近ようやく人形をやめつつあるまだあどけない子どもに対して、である。

 そのままにしておけそうになかった執拗な欲は、ルリやあるいは他の客に向けてぶちまけた。それでも、時雨は自分の内側にこんなに激しい欲を抱えているなど、知らなかった。
 あの顔を見て胸の奥底からせり上がってきたそれは、ほとんど本能といってよかった。だがその対象に唖然として、ついに自分は狂ったかと思う。
 客は満足そうに微笑して、そこそこ肉つきのよい、やわらかそうな身を寄せてきた。

 ――なるべく発散しておいた方がよい。

 最近の時雨の方針だった。あきは最近帰宅が遅くなりはじめた時雨を気にしているようだが、なにをしているかまでは知らないのだろう。安心したように帰宅してベッドに腰をおろした時雨に身を寄せてくる。こんな風にではない――もっと、じりじりと、気づけばそばにいるみたいに時間をかけてくっついてくる。

 相変わらず、時雨からさわるのはいやがるので、気づいていないふりをしつつ子どものようなぽかぽかした体温を間近に感じながら、眠りについた。部屋にあるシャンプーだけではとうてい生成できないような、甘いかおりがベッドにこびりついている。
 時雨があきの姿に気をおかしくしたのは、二回。熱に侵されながらも自分のそばをついて回ろうとしたときと、時雨自身が熱いウイスキーに完全に酔ったときである。そして二回目は、あとちょっとタイミングがずれていたら、完全にそのからだに狂っていただろうと思えるほど、危うかった。

 あのときあきは至って普通だった。時雨が酔いを境目に理性を失っただけのことだった。それが意味することを考えては、導き出される答えを何度も否定している。
 ただひとつ整理できていることがあるとすれば、あの小綺麗な人形が人間になって成長していくことに、時雨に絶大な信頼を時雨だけを頼ることに、我が儘になっていくことに、すこしずつ自分が吸い寄せられていること。
 もしも水族館へ行くことを了承したら、あきは目の前のこの女みたいに、顔をくしゃくしゃにして笑ってみせるだろうか。そんなことを考えている時点で、あきとのこの我慢試合、すでに自分が敗者であるとはどこかでわかっている。

(振り回されている)

 あきという、さして小狡くもなくろくな駆け引きもできず、ただ自分を信用するあまり、自分にだけ我が儘になっていくまっすぐな子ど
もに。

 水族館へ行く旨を了承したときのあきは、能面のままだった。しかしお礼にとばかりキッチンへ駆け出していったその背中は、明らかに弾んで浮足立っている。浮かれて失敗したたまご料理は、焦げ臭かったが。
 あきが喜ぶことで心を支配する妙な満足感と、純粋なかわいいという気持ちを、そろそろおさえることができなくなってきている。

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