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十一話水族館とかけひき 032

「そういやおまえ、学校は?」

 十二月が終わろうとする頃である。赤や黄色といった秋の景色を消し去り冬の色を濃くしつつある頃、時雨はなぜだか街全体が浮足立っているような陽気なムードを感じていた。それがなんでかわかったのは、その原因そのものであるクリスマスもあと三日という頃である。
 陽気な髭面のおっさんが鼻歌をうたうような外国の歌と、赤や緑に輝くライトを見たときにはまったくもってピンと来なかったが、オーナーとリョウタに「時雨さん、クリスマス出勤っすか」と聞かれたことで、ようやく思い至った。こういうところの鈍さは、最近飼いならしつつある猫みたいな子どもといい勝負である。

 そんなあきと時雨は、現在珍しくふたりそろってキッチンにいる。あきはまだよいがそこそこ大きな時雨が陣取っていると、妙にキッチンが狭くなる。

 十一月頭から学校へ行きはじめたあきは、相変わらずいろいろなものをどろんこにして帰ってくるものの、最近ではほぼ毎日のように平日は制服を着て部屋を出ていっている。どうやらクローゼットに閉じ込められ母親から殴られながら育った子どもとしては、同級生のかわいいいたずらなど瑣末事……というより自分の身に起きていることだとあまり自覚がないのだろう。

 こんなに反応がないんじゃ、冬抜ければちょっとのいやがらせはなくなるだろうと、時雨は踏んでいる。

 そのあきが、最近またパタリと学校へ行かなくなったものだから、いつ事の次第を聞こうか考えあぐねていたところだった。でもさすがにこのタイミングは――あきがたまごを解いているタイミングでいうべきことではなかったような気もする。
 ぐしゃぐしゃ、という音が聞こえるようだ。不器用な所作で、片時もたまごから目を離そうとせずに(こぼさない、こぼさない)と思いながらたまごをかきまぜるあきに、案の定時雨の声は届かなかったらしい。

 時雨は無視されたことが面白くないので、あきの長くなってきた前髪をどかした。相変わらず濁りのないヘーゼルアイが、おどろいたように時雨を見て、それからおずおずと目を反らした。

(まだその目見られんのに抵抗あるのかよ)

 なに、といわんばかりに、たまごの入った器を置いて、自ら前髪を直しながら問われる。
 気に入らない。

「学校は?」

 ふゆやすみ。
 手の中に書かれた懐かしい響きに、あーなるほどと呟いた。用事は済んだ、といわんばかりにあきは作業へ戻る。

 そもそもことの起こりは、こいつがチャーハンとやらの作り方を教えてくれといってきたことである。あまりにも唐突な要望に一瞬面食らったが、そういうのは時雨ではなく茉優の仕事である。それに時雨にはこんな料理オンチに(そういってしまうとあきは人生における生活のどんなことにも“オンチ”がつきそうなものだが)料理を教えられるスキルはない、第一面倒くさい。
 しかしチャーハンレクチャーへのあきの熱意は相当なものだった。頷いてくれるまで離れないといわんばかりに、金魚のふんのごとくあとをついてはお願いを繰り返されて、とうとうトイレの前で待ち伏せされたところで、時雨が折れた。
 我が儘なほうのあきが発動したのである。こういうときの子どもはやっかいだ。

 不器用なあきと比べて、時雨はだいたいひと通りのことができるくらいの器用さなら持っている。チャーハンくらいならかんたんに仕上がりそうなものだが、不器用人間にはそうもいかない。

「おまえ包丁さばき教わらなかったの? 学校で家庭科とかないの?」

 第二関節くらいまで切り落としそうな包丁づかいにげんなりしながら、時雨は上から覆うようにしてあきの手を直した。小さくて包丁でもストンと落ちてしまいそうなほど細い指に自分の手をかけると、あきは素直にそれに従った。包丁を握る手にも時雨の手を重ねると、必然的にまないたへ向かうあきを後ろから抱き込むかたちになる。それに対してあきは目に見えて緊張していたが、時雨は素知らぬふりをした。

 さく、と、ふたりぶんの力を借りてベーコンが切れていく。
 ぴーっ、と、コメが炊ける音があたりに鳴り響いた。

 ちなみにあきは、暖房の存在を知らなかった。冬に入ってからというもの、あきは寒そうにベッドで丸まっていることが日に日に多くなってきた。てっきり電気代みたいなもんを遠慮してそうしていたのだとばかり思っていたから、(まあそのうち我慢できなくなってつけはじめるだろ)と時雨は軽く踏んでいたのだが、いつまでも震えているのでその存在をさりげなく教えたらきょとんとされた。

 以来あきはそこそこ温かいと感じる日でさえ、暖房をこよなく愛し、つけっぱなしにしている。ぬくぬくとうれしそうな表情を見ると、時雨はなんともいえなくなる。よくよく考えればあきは地球温暖化とか環境保全とかということばを知っているかどうかさえ怪しいし、ついでに電気代とかエコとかいうことばとも無縁だったに違いない。それよりも「時雨が自分のために教えてくれたエアコンだ、使おう使おう」という魂胆なのだろう。うぬぼれているわけではないが、それくらいこの生き物になつかれている自覚はあった。

「水族館?」

 時雨の導きもあって(というか半分くらいは時雨が作って)そこそこ食べれるかたちで完成したチャーハンを頬張りながら、あきがこくこくと頷いた。スケッチブックには、あらかじめ書かれていたであろう『すいぞくかんにいきたい』ということば。

「俺は行きたくない」

 時雨は極めて短く拒否した。あきはなにかいいたそうにしているけれど、どうも腹を満たすことが先決だったらしく、食事へ戻った。本当に最近めっきり意地汚くなった。この分だと将来はデブまっしぐらだなと時雨はひそかに思っているが、どうもあきはそんなに太る体質ではないらしい。食べる量と体型の変化がまったくもって比例しないのである。
 健康な中学生と比べれば大した食欲ではないのだが、時雨はどうしても昔のあきと比べてしまうのと、最近の中学生の食事情など興味もないので、なんとなくあきはよく食べるとすっかり頭にインプットしてしまった次第である。

 チャーハンを口の中へかけこみ(途中喉に詰まらせた)、あきはもう一度スケッチブックになにかを書きはじめる。

『えのしま水族館に行きたい』

 クリスマスシーズンなんてますますいやだ。

「俺は行きたくない。以上。おしまい。諦めな」
『時雨と』

 そんな取ってつけたように書き足されてもな。行きたくないもんは行きたくない。鎌倉なんてとんだ人混み地獄だ、第一健全な環境で生きてきていないこいつにとっても、人混みなんて耐えられるもんじゃないだろう。

『水族館行ったことない。行きたい。お願い』
「いやなもんはいやだ。行きたいならひとりで行ってこい」

 地図も読めない、携帯も持っていない、そもそも人並みの生活にさえ慣れていないこいつが、県を跨いで遠出できるとは思っていなかった。とんだ売りことばに買いことばである。ぐう、とついに(スケッチブックになにも書けなくなるという意味で)黙り込んだあきをよそに、時雨は空になった器をあきに渡して寝室へ向かった。

 恨めしげな視線がビシビシと突き刺さってきたが、気にも留めない。

 数日後、学校はないというのに通学用かばんを持って出かけようとしたあきにどこへ行くか訪ねたら、すねた顔で靴を履きながら『すいぞくかん』と答えた。

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