未来へ、
04
時雨がチーフになってから早半年。三日も店も開けることはこれまで皆無だったため、なんとなく気がかりになって『店は?』と短く連絡してみると、『平気だけど早く帰ってきて。三日も研修とかふざけないでよ』と返ってきた。なぜだ、研修へ行かせたのは他ならぬこの女だというのに。時雨は八つ当たりにややイラっときたものの、問題はないようなのでそのまま返信をせずに三日目を過ごした。
その日もご丁寧にみっちりと八時まで、ワークショップや座学を交えた講義を受けさせられたのち、解放された。人生で初めて研修、もう一度行きたいかと言われたら首を傾げるだろうと時雨は思う。あきから連絡が入っていた通り、時雨は店のある駅まで向かう。慣れない講義に疲れこそ溜まっていたが、あきと会うのは2週間ぶりなので、やはりそれはそれで認めたくはないけれど心がはやるのであった。
(振り回されてんなあ……)
家で待っててくれればさっさと抱いて寝れんのに、よりによって駅待ち合わせ。と、煩悩だらけも良いところである。
『どこいる?』
『改札』
『いない。本当にいんの?』
『いる』
『何見える?』
『パン屋さん』
「おまえなあ、そっちは西だよ。東から出てくるっつたろ」
スマホでの連絡は幾分かスピーディーに行えるようになったものの、天然も度を越しているため根っこの部分で肝心の意思疎通が図れない。西口前から「絶対に見逃さないぞ」といわんばかりに改札を懸命に凝視していた小さな影を見つけた。大股で近寄っていき、その頭を横からグリグリ押しつぶすように撫でて、時雨はそう言う。振り返ったあきは悪びれる様子もなく「そっか、間違えた。時雨おかえり」とちょっと微笑んだ。最近ようやく、あきは自然と微笑むことを覚えている。
怒りたかったものの、いつものように時雨はすっかり毒気を抜かれてため息をついた。久しぶりに会うのにガミガミ言うのも変な話だろう。
「ただいま。で、今日は店集合なんね。俺んちじゃだめだったの?」
「ん。今日はだめだった」
「あー、そーですか」
意地悪をするつもりはないのでそれ以上詳しくは聞かずに、あきと時雨は並んで慣れ親しんだ店への道を歩く。
「時雨、けんしゅう楽しかった?」
「楽しいわけあるか。動いてた方がまだマシだよ、長いんだよ。リョウタとか、あんな感じの講義受けに大学行くんだもんなあ、やばいよ」
「ふうん。勉強した?」
「勉強はした。勉強といえばおまえは期末どうだったの? 数学大丈夫だったの?」
「……えっとお、英語が良く出来てた」
誤魔化すのが下手すぎるのも、かえってツッコミづらくて効果があるのかもしれないと時雨は呆れながら思う。
「時雨、止まって」
すっかり店じまいをしている様子の入り口まで来ると中へ入ろうとした時雨のからだをぐいぐいと押して、急に通せんぼするようにあきが目の前に立ちはだかる。時雨は命令通り大人しく止まって、次にくるであろう命令どおりちょっと膝を折ってやった。
「それでちょっと、下がって」
肩をぐいぐいと押してくるので、しゃがんで、という意味だろう。膝を折ってやるとあきがポケットからくしゃくしゃの細い布を取り出してあっという間に時雨の目を覆った。あっという間に……というよりは、やや時間が掛かって不器用に結ばれたのだが、きつく結びすぎて痛い。
(通行人に変な目で見られてんなあ、たぶん)
この辺りは駅と近いこともあり、平日9時ごろでもそこそこの人通りがある。街灯もチカチカしているだろうし、遠目から見ても目隠しされている男と制服の子どもの組み合わせは風景に合わない妙な違和感となっていることだろう。
閉ざされた視界でじっとしていると、片方の手のひらを小さなあきの手が繋いでくる。目の前の子どもにとってはなんのことはない、時雨を誘導するためのそれが、ひどく嬉しい。
「こっち」
チリン、と、店内の扉を開く鈴の音がした。一年以上勤める店なので、つくりは心得ている。しかし、あきのあまりにもガサツな道案内に、時折膝をぶつけながら歩いていく。やがて体当たりするようにして立ち止まらせたあきが、固く結んでいた時雨の目隠しを解いた(こちらもやや難航することになる)。
目を開けると、視界いっぱいに広がったのは店内一角のソファ席。店じまい後に似た薄暗い店内に、大量の料理と登録を灯された大きなケーキ。そして、目の前にはあきと、あきが呼び集めたであろうメンツが、次の瞬間――妙にばらけたタイミングでクラッカーを鳴らした。と、同時に、カチッとだれかが店内の明かりをつけた。
「時雨、お誕生日おめでとう」
「時雨さんおめでとっすー!」
「おめでとーございます」
「はいはい、おめでとうー。めでたい、めでたい」
「いやあ若いねえ。祝われる年齢っていいねえ」
勢いよく鳴り響いたクラッカーの音と、自分に向かって飛び出てきた紙くずが頭やらからだやらに思い切りひっついていく。そばにいた城田からクラッカーをもらい受けたあきもまた、ワンテンポ遅いタイミングでパンッとそれを鳴らした。
「あ、うん。ありがとう」
「時雨さん全然驚いてないじゃないっすか!」
「ね。時雨、全然驚いてない!」
驚いたリョウタとあきの声。それに引き換え、城田や茉優の笑みは(やっぱり……)というようにやや生暖かい。新山に至ってはおっさんのテンションなのか、にやけた笑みを浮かべながら「ひゅーひゅー」言っている。
自分の誕生日になにかしでかすだろう――時雨の勘は見事に(というか当たり前のように)的中した。
「なんで、時雨。驚いた? 驚いてない?」
「あー、びっくりしたびっくりした」
「時雨!」
「……だっておまえ一ヶ月前から変だったもん」
あきがあからさまにショックを受けた表情になるのが、正直バカでかわいいと思いながらも、誘われるままに料理の並ぶ席に座る。
ことの始まりは、夏休み真っ只中の八月上旬だった。城田と映画を観に行ったらしいあきが、初めての映画館から物語の内容・顛末まで、まるっとネタバレしつつ話していた折(予定もなかったので別に良いが、時雨が観るつもりだったらどうする気だったのだろう)、不意に誕生日の話になって、自分の誕生日を打ち明けたのであった。それからのあきの様子ときたら、もう、隠す気ないだろうと感じるほどまであからさまだった。
『時雨、いちご好き?』
『時雨の誕生日、平日だけど、会っていい?』
『お店の駅で待ち合わせしよう。なんとなくの気分で』
これで何かを疑わない方がおかしいだろう。
「なるほどねえ。でもそういうのは、言わないでいてあげるのが優しさよ」
「無理。嘘つけないし」
ショック状態のあきを、「ほら、あれの準備!」とリョウタと城田のコンビが回収してから、そばで最近のあきの話を聞いていた茉優が、「大人気ない」と呆れ顔になる。新山は終始意地の悪い笑みを浮かべながら「いやあ、いいなあ。藤野の三十の誕生日、かわいく祝ってもらっていいなあ」とちょっかいかけてくる。
そのうちあきが危なげな手つきで大きなホールケーキを持ってきて、時雨に向けて「わかってるよね?」と言わんばかりに突き出す。新山が焼いたであろう形の良いホールケーキと均等に塗られたクリーム。その上だけ妙に不恰好なかたちで、三つの蝋燭と変な盛り付け方のいちご、大小様々な形で盛られたホイップ。
「おめでと」
「はいはい、どうも」
吹き消してやると、あきは嬉しそうにはにかんだ。重そうな手つきを振り払うようにしてケーキを取り上げて、厨房の冷蔵庫へ持って行こうと立ち上がる。
「あ、待って!」
「ケーキは後でだろう」
「時雨は誕生日だから、ずっと座ってるの」
「やだよ。おまえ落としそうだから」
厨房へ向かう背中に「相変わらず過保護っすね……」と声が掛けられたが、無視を決め込んだ。