未来へ、

01

 なんとなく薄ぼんやりした朝日がからだに注いでいるような気がして、もぞもぞと手探りでスマホを探す。薄目を開けてアラームを開くと、だんだんとピントが合ってくる。時刻は5:55。どうりでまだ眠いわけだと、茉優は心のうちで静かに思った。アラームが鳴る5分前に起きるのは、不思議なからだの仕組みである。

 

 ずりずりと、腰を持ち上げるようにしてうつ伏せていたからだを起こすと、素肌に直接なめらかなタオルケットが擦れて、心地よい温もりが広がる。

——Side Story Mayu

(あ、そっか。そういえば昨日泊まったんだった)

 

 ベッド、テレビ、小さな本棚、その向こうには一人暮らしとしてはややゴツいつくりのキッチン。総じて少々広めな部屋は、しかし、整えているといえば整っているがよく見ればところどころがやや埃っぽくて。仕事に忙殺されている男の、寝に帰るためだけの部屋に成り果てている様子がありありと伝わってくる。

 

 家でも調理に勤しみたかったためだろうキッチンも、まるで使用感がない。実に金の無駄ではあるが、金だけはある男なのでまあいいだろうと思う。

 

 散らばった服を身につけるのも億劫で、茉優はしばらくベッドでぼうっとすることに決めた。目は覚めているのだが、連日研修へ赴いている男のせいで、男の穴を埋めるべく一店舗まるっと面倒をみなきゃならないのだが、なかなかどうして大変なのである。というわけで茉優は、微妙に疲れの取れないままなのであった。

 

 シャワーの音が聞こえているということは、新山はすでにお目覚めらしい。

 

 茉優よりも早く三十路の壁を超え、茉優よりも部屋を埃っぽくするほど忙しくしているというのに、朝から優雅にシャワーとは余裕な男である。と思ってみたりする。

 素肌にふれるタオルの感覚が気持ちよくて、からだに巻きつけたままスマホに手を掛ける。昨日の9時ごろに届いていた連絡をすっかりチェックし忘れていた。昨日は締めまで頑張り、夜も頑張り、今である。連絡をチェックする暇などなかった。

 

「……うーん。かわいいやつめ」

 

 茉優は唸るようにして、いまだに慣れないらしいスマホで打たれたその文字を見る。唸りつつも、なんとなく頬が緩んでしまう。

 

「なにーかわいいって。俺のこと?」

「なんでそう思えるのかわからない」

 

 ふわあ、というおっさんくさい欠伸が、耳のすぐ近くで聞こえる。いつのまにシャワーを終えたのだろう、洗いたての石鹸の良いにおいと、ほかほかと温かい体温がすぐ後ろにあった。それは後ろから茉優の手元を覗き込むようにして、そうして「ふむ。これはかわいい」と同意してみせた。

 

 よく吹ききっていないのだろう、生温かい雫がぽたぽた肩へ落ちてくるのがくすぐったくて、肘でその大柄なからだを押しのけた。

 

『まゆ。まだおきてる? ケーキつくるの、にいやまさん? 飾りはぼくやりたい。いちごとクリーム』

 

 キラキラした絵文字があるわけでもないのに、かわいくてしょうがない。まず9時代に連絡をしておきながら『まだおきてる?』というのがかわいい。それに、『いちごとクリーム』というのもまた、ステレオタイプでかわいいことこの上ないのである。

 

 茉優は親になったことこそ一度もないが、親とはこういう気持ちになるのではないかと、今よりもっと小さな雛鳥であった子どもへの感情を考えると、そんな風に思えてならない。

 

「ということで、いちごとクリームはあきのために取っておける?」

「いいよー。俺もなんか、藤野のためにクリームデコったりいちご乗せたり、チョコレートで『時雨くん、30歳おめでとう』とか書くのなんかやだもん。変だよヘン」

「チキン焼くのも変? サラダ作るのも?」

「それはパーティー料理と思えば、まあなんとか。他ならんあきくんの頼みだからやるけどね。……ふああ、にしてもねみーね」

 

 じゃあ致さなければ良いだけの話である。あれにより、忙しいはずの二人はさらなる体力と睡眠時間の削減に遭っている。しかしこのあたりは茉優も同罪なので、口には出さないでおいた。

 

「茉優、シャワー浴びんでしょ。で、飯食って今日も俺んとこに出勤ねえ」

「時雨が店空けてるからね」

「研修行かせるって決定したのは茉優でしょ。そこは嫌にならずに責任持って……といいたいところだけど、チーフの穴埋めきついだろうなあ」

「ね、いつの間に出世と同時にこんな仕事やらせてたんだあって、反省した」

「でもこれから、さらに仕事押し付ける気でしょ」

 

 新山がニヤニヤしながらいたずらっぽくそういう。

 

 三十五を過ぎたおじさんの笑みほど嬉しくないのであるが。茉優は人ごとのようにそういっている新山も満更でもないのを知っているので(というより、犯人はほぼ新山である)、「そ。あいつ優秀だから。良い拾い物したわ。持つべきものは顔だけホストねえ」と笑ってやる。

 

 実際に、ホストを辞めた時雨の働きぶりは優秀すぎるほど優秀だった。あっという間に店舗を任せる存在になったのを、元知り合いである茉優のコネであると嘲笑する輩は、チーフになって半年過ぎる頃には誰もいなくなった。態度とは裏腹に働きぶりは真面目そのもの、……とはいえ多少顔に出やすい傾向はあるが。

 

 それもこの小さな連絡主あってのこと。

 

「いやあ成長したなあ、時雨も」

 

 出会ったのは、何年前だったか。類まれなる美貌だけを武器に夜の街を生きてきたその男に出会ったときは、まさかこんな未来が待っているなんてだれが想像しただろうか。誰にも興味を示さず、ただ生きているだけといわんばかりの、どこか危うげだったあの頃に比べたら。

 

「人間らしくなったよね」

「俺は一年前くらいのあいつしか知らないから、茉優から聞く藤野像の方がおったまげるけどねえ」

「いや、あいつ本当にひどかったからね。……このまま、あきに上手いこと手綱握ってもらえれば心配いらないわ。さてさて、シャワー借りるね。今日も忙しいし」

 

 なんせ、今日は9時から臨時休業&貸し切りパーティーである。かわいい子どもの無茶な頼みごとを叶えてやるべく、茉優と新山は8時までの営業をこなしながら、それから始まるパーティーの準備担当なのであった。

 

「へえ、藤野はもう安心ね」

 

 シャワーへ向かおうとした茉優のからだを引っ張るようにして、後ろで絶妙な距離を保っていたからだが、ぐるりと巻きついてくる。浴室の香りが一気にからだを覆った。濡れた髪の毛がくすぐるように茉優の頬にすり寄ってきて、肌はしっとりしているというのにたまに当たるまだ未処理の髭がすこし痛い。

 

「茉優、おまえ何歳んなった?」

「今年31でーす」

「なるほどね。んで、おまえの大好きな時雨は、そろそろ放っておけない存在じゃなくなりつつある、と」

「そうね」

「じゃあ、おまえ。そろそろ潮時じゃないの?」

 

 茉優にとって、何のことかなど聞くまでもない。

 ここ数年並走してきた仕事上のパートナーである新山とは、もうずっと、平行線が続いていた。そしてその平行線を突破するべく、新山が機会を伺っているのは知っているし、そのタイミングを見計らっていたことにも気づいている。茉優はあきのようにピュアな箱入り人間ではないし、実際そこまで鈍感でもないのだから。

 

 ではどうしてガードしているのかというと、それはもう、臆病だからということに他ならない。こうして踏み込まれるのは――堪らない。

 

「そろそろ、自分のしあわせと、おまえとしあわせになりたい哀れなおっさんをしあわせにすることも考えて欲しいんだけど。そこんとこどう?」

 

 柔らかくて間延びしたような口調とは裏腹に、振り返れば真剣な目が茉優を射抜くことを知っている。だから、茉優は振り返らない。

 

「……はっきり言いなさいよ」

「結婚して」

 

 いつもは繊細な手つきで、芸術のような料理をデザインするその手が、茉優の頬をとらえて深く口づけてくる。いつも冷めたような口ぶりのくせに、枯れたような身のこなしのくせに、そのくちびるはひどく熱い。

 

 そこには媚も、甘い台詞もない。ただ人を惹きつけてやまない美貌だけ。滑らかで生活感のない手のひらや、来るものを拒まず去るものを追わないスタイル。――絵に描いたようなクソ男だと思った。

 

 自分とは価値観も住む世界も違う、醜い感情の持ち主で。それでも、カラスの羽のような濡れた双眸は、真っ直ぐで歪みがなくて。まるで子どもみたいな時があったのだ。その目が見たくて、自分だけで独占したくて、離れていれば恋しくて、気づけば藤野時雨というアンバランスな男に溺れていたのだ。

 

「私、ただのホスト狂いの女よ。しかも、時雨の周りにいる女の中じゃ、特に重症級の」

 

 あの騒がしい夜の街は、とっくに時雨という麗しい男の存在を忘れ去っているだろう。入れ替わり王様となった誰かがまた、一晩で信じられない大金を動かして女たちを虜にしているだろう。そうして移ろっている。それでも茉優だけが、未だに時雨に囚われ続けていたのだ。

 

 しあわせにしたかった。でもそれは、時雨が求めていたような“後腐れのない女像”ではなくて、それは時雨の求めに応じて茉優が作った借りものの姿であり、本当の茉優は時雨から愛されたいただの都合の良い女だ。

 

「知ってるよ。何年見てると思ってんの」

「愛が重いかも」

「その狂った女を口説き続けてる、俺の執着心を舐めてもらっちゃ困る」

「あと美形好き。正直、おっさんは趣味じゃないけど」

「それは……毎晩高級パックしてやるよ」

 

 茉優の口元に、思わず笑みが溢れた。

 

 

「しあわせにしてくれる?」

 

 

 あきに返信をしなければいけない。

 

 あの子はきっと、今日店に来たら、きっと時雨を想いながら不器用にケーキを完成させてみせる。そうしていつまでも純真無垢なあのヘーゼルの双眸で、真っ直ぐに時雨へとぶつかっていく。今日は時雨にとって、しあわせの一日のはじまり。

 

 それは、かつて茉優が時雨にしてあげたかったこと。

 そして、嫌われるのが怖かった臆病者な故に躊躇ったもの。

 それでも、だからこそ、茉優はあのふたりが愛おしいのだった。

| »

スポンサードリンク