きみの傷跡はきれい

12

 まばゆい日差しに照らされた雪の飛沫が、銀色に輝いている。その中を駆け回る狼を、梛は木の幹を背にして座りながらぼんやりと見つめていた。真冬の季節よりはややぽかぽかとしてきた季節、こうしてじっとしているのがすこしも苦じゃないのは、温かくなってきたからというだけではない。

 

「梛が、おじいちゃんみたいな目をしてる」

「おじいちゃん?」

「ぼんやりして、へらーってした」

「訳分からないこと言うな」

 

 戻ってきた狼がふわりと人の形へ姿を変えて、梛の膝めがけてころんと寝転がる。温かくなってきたとはいえ、水っぽい雪の上に横になるなんてと思ったけれど、黙ってすこし乱れた黒髪を撫でてやる。梛のおなかのほうに顔を向けていたしろは、すっと目を細めており、獣というよりもまるで犬のようにリラックスした表情だ。

 

 撫でた手のひらに伝わる、すこし温かみを帯びた温度。走り回っていたからか、ほかほかと温かい。今はまだこの体温がからだに纏わりつくのが心地よい季節ではあるが、夏の季節になればそれは途端に暑苦しいへと変わるだろう。

 

「俺、冬が一番すき。夏が、一番嫌い」

 

 同じ季節のことを考えていたらしい梛が、ぽつりとこぼす。

 

「おれはどっちもいやだけど。どうしてしろは冬がすきなの?」

「くっついても、梛が怒らない」

 

 やっぱり同じことを考えていたらしい。

 

「夏は暑いからな」

「恋人同士だから、今年の夏はくっついても怒らないでね」

「いつ、だれが恋人になったんだよ」

「……」

 

 梛の頬をつまんでぐいぐいと引っ張る。いひゃい、と言いつつも、どこか嬉しそう。梛はそんなしろの様子にすっかりあほらしくなって、すぐに手を引っ込めた。

 

「家族で、恋人でしょ」

 

 梛はいじわるだ。と、しろは小さくこぼした。梛はすこし赤くなった頬を隠すようにして、さっきまでしろが駆け回っていた雪の原っぱを遠く見渡した。あたりを木々が覆うこの原っぱには、わずかに溶け出した雪のせいで、ところどころに薄く地面が見え隠れしている。夏になれば緑色の原っぱが視界いっぱいに広がるだろう。そうしたらまた、しろが今度は雪ではなく背の低い草を踏み分ける音があたりに響くかもしれない。

 

「乙葉がいたら、おまえは夏も楽しく走り回れるのにな」

 

 しろがあからさまにムッとする。

 

「乙葉、きっと、また来るよ」

「だと良いんだけど、ほら、群れ暮らしだからあの子の一存じゃ、このへんにはもう来られないだろう」

「んん。大丈夫、たぶん。良く通ってたから。どっかへ行くときの通り道なんだよ」

「そうなんだ、じゃああの家で待ってればたまには来るかねえ」

 

 ちょっと待て。と、梛はしろの言葉に首を傾げる。

 

「しろ」

「なに……? あ、」

 

 しろが何かに気づいたようにはっとしたような声を出すが、何かを誤魔化されるように梛は強引に口を開く。

 

「なんで乙葉たちがたまに来るって知ってんの? 今回の一回だけじゃなかったってこと?」

「……もっかい、走ってくる」

「こら」

 

 逃がさんとばかりに、起き上がろうとする梛のからだを押しつけて、あからさまに目を逸らしたしろの顔を掴む。いつもは眩いほどに力強い金色の双眸が、正直過ぎるほどに左右へ揺らいだ。なんとも情けない表情である。

 

「今回だけじゃなくて、たまに乙葉と会ってたってこと?」

「それは、違う! 乙葉と会ったのも、別の狼たちと会ったのも、今回が初めて! ただ……時々近くに気配は感じてた。……なんていうか、監視されてるみたいな……」

「いつから?」

「……三年くらい、前から。――いててっ、なぎ、いたい……」

 

 その後鬼のような表情で梛に詰問され続けたしろは、とうとう仕方なさそうに洗いざらい話した。三年前くらいから同族らしい狼が時折自分たちの場所を監視しにきていたこと、会話こそしたことはないが近くにいることは察知していたこと。しかししろは、狼たちに警戒心こそあるものの、何かするつもりがなかったことにはすぐに気づいたため、梛に余計な心配はかけまいとこれまで黙っていたこと。

 

「今回も同じだと思ってた。……だから、乙葉が突撃してきたのは、意味が分からなかったけど」

「なんだそれ。もー……早く言えよ。言ってたら……」

「言ってたら、梛は俺を、どうしてた?」

 

 自分だけが何も気づかずにのうのうと暮らしていたのかと項垂れる梛の頬を、膝を枕にしたままのしろが包み込む。じっと見上げてくる金色の双眸に、今度は梛が目を逸らした。

 

 言っていたら、きっと、梛はしろを狼たちの元へ返した。

 そういうのが分かっているみたいな、しろの目だ。

 どうしてしろが言い出さなかったのか、今なら分かる。しろは梛のことを良く知っているから、だから言えなかったのだろう。

 

「だから、言いたくなかった。それだけ」

 

 運動終わりの熱っぽい手が離れていき、膝の重みがすっと取れる。頭を起き上がらせたしろが、ぐいっと伸びをするように立ち上がった。気づくと、さっきまで真っ青に晴れ渡っていた春の空は、山の稜線がやや紫に染まってきている。そうはいってもまだ冬色のこのあたりは、すぐに暗くなり始めるだろう。

 

「帰ろっか」

 

 しろが梛の両手を引っ張るようにして、立ち上がらせる。

 梛もその手に捕まるようにして、地面に足をついた。すこしおしりが冷たい。

 

「知ってたら、おれはしろが、帰るのが最善だって思ったと思う」

 

 梛は小さく、前へと足を進めていたしろの背中へそう言う。

 

「――でも、やっぱり、迷うよ」

 

 恥ずかしくてたまらなくなって、梛は怒ったときのように、水っぽくなった雪の上を乱暴に踏みしめて歩き出す。しろを抜き去るような早足だったのに、すぐにその背中ごと、すっぽりと大きなからだに包み込まれた。ぎゅうっと抱きついてくるそのからだから、素直過ぎる“嬉しい”という感情が伝わってくる。

 

「俺はそうしたら、いつまでもその迷ってる梛に、つけいる。それでずっと一緒にいる」

「おまえ、聞き分け悪い……」

「一緒にいるためだったら、なんだってする」

 

 まっすぐ過ぎるその感情が、梛には眩しい。

 

「……はいはい。つーか、離せって」

「なんで? やだ」

「歩けないだろう!」

「梛、最近恥ずかしそうだね」

「もーおまえうるさい」

 

 梛は、しろが梛の早すぎる心臓の音に気づいているなど思いも寄らずに、絡みついてくる腕を振りほどく。後ろでくすくすと笑いながら、大股でついてくる足音。梛は自分の顔がやや赤らんでいることには気づかず、しかしなんとなく決まりが悪くてしろの顔を見られないまま、歩き出した。

 

(だって、おまえがベタベタさわるから)

 

 さわってくるのは前からだったというのに、どうにも最近はその頻度が激しくて落ち着かない。それに、昔は小さなからだが纏わりついてくるような可愛さがあったのに、最近は抱きつかれるというよりも抱き込まれるような様である。――つまるところ、そういう包み込まれるような感覚に、梛はいつまで経っても慣れない。

 

 後ろでしろが何かを呟くけれど、自分の感情に鈍感な梛は最近のしろについてぐるぐると考え込んでいたせいで、可愛いと笑われたことに気づかない。

 

きみの傷跡はきれい ――本当の意味で梛が恋の感情を知るのは、まだ先のお話。
Fin.

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