きみの傷跡はきれい

11

 部屋に帰ってきてもなお、夜半も深い時刻だった。やや短くなった蝋燭に明かりを灯す。

 とりあえずは、外套もろともボロボロになったしろの手当てが先だった。先ほどまで必死になって梛を引き止めるのに疲れたからか、ひとまず部屋へ梛を連れ帰ってきたことに安心したからか、スイッチがオフになったように萎れているしろをベッド脇に座らせる。

 

 氷へ浸していたような真水に湿らせた布を持ってきて、ベッドサイドの蝋燭の火だけを頼りにしながら、熊の返り血を拭いつつ、怪我した場所を発見していく。狼の時に怪我した場所は、人間に戻ってしまうと、それがどこに該当するのか見つけるのが、梛は苦手だった。

 

「細かい傷があるけど……さすがは狼族だなあ。……深く入ってるところはないみたい」

 

 ぎゅうぎゅうとしろの頬に固まった返り血を拭いながら、そう言う。無意識のうちに放った言葉だったが、しろは“狼”というその言葉に敏感に反応したらしく、いっそう情けなく眉を垂らした。梛は(アホか)と思いながら、その反応を無視する。

 

「梛」

「ん」

「ここに、いる?」

「しつこいなあ。さっき、言ったけど」

 

 先ほど真冬の夜の中で、ついに梛はしろのしつこさに負けて、ついに「分かったから、とりあえず手当てもしたいし、一旦帰ろう」と降参したのだった。この頑固な子どもは、たとえどう小細工をしようと、説得をしようと、おそらく群れへ帰ることはないのだろう。そう悟ってしまった。梛が考えていたよりもずっと頑固に、この子どもは梛のそばを選んでいるのだ。

 

 いつしか梛の方が、良い親でありたいと意地になっていたのもある。

 けれど、とりあえずもう良い。

 

「おまえが、帰らないって決めたんなら……もう良いよ。後悔しても、知らないけど」

「後悔、しない。それよりもあのまま梛を外に出して、すごく後悔した。怖い思いをさせた」

「ひやっとすることなんて、何度かあっただろう。でも、結局おまえが助けてくれただろう?」

 

 殺される。そう感じた刹那、震えが止まらなくなったことに、しろは気づいていたかもしれないけれど、とりあえずのところは強がって見せる。

 

「ん」

「ありがとう」

 

 その言葉に、ぼうっとしていた目の前のしろの顔は、しょげていたそれから、ほのかに嬉しそうなものに変わる。

 

「怖い思いさせて、ごめんね」

「だーかーら……おれを子ども扱いするな」

 

 目の前にあったしろの額を、こつんと小突いた。脇あたりの布が赤黒く変色しているのを見つけて、しろの服をはだけさせる。どうやらそこが、一番の深手になっているようだった。血を吸って汚くなった布を新しいものに変えて、脇腹の傷跡をなるべく痛くしないようにして注意深くなぞっていく。

 

「……っ」

 

 しろのからだが、ぴくりと跳ねた。

 

「あ、悪い。痛い? ていうか、寒いか」

 

 しろの上半身はほとんど裸であるし、その上冷たい布でさっきからからだをペタペタと濡らしているから、さすがの高体温といえども寒いのだろう。梛はそう考えて、ベッドの毛布をしろの肩にかけようとしたが、その手はしろによってやんわりと阻まれた。

 

「ん。大丈夫……ちょっと別のことで。とにかく、梛は良いの」

「……?」

 

 良く分からない。首を傾げて、梛は作業に戻った。

 こうして間近でしろの裸を見ることは、あまりなかったけれど、大きくなったなあと改めて思う。狼姿が立派になったのはもちろんだが、人間のときのからだつきの変化は、同じ人間のからだを持つ梛自身のそれと比較すると、良く分かる。梛よりも全然小さくて、抱っこも出来たそのからだが、今では逞しい男のそれであった。

 

(おれもまあ、後数年したら、こうなる……かなあ?)

 

 狼族の成長と人間の成長に差があるせいで、見事に色々なものが逆転したのは、やはり梛にとって面白いことではない。

 

「イテ……っ」

「あ、ごめん」

 

 つい、力を入れてしまったらしい。

 

「おまえ回復早いから大丈夫だと思うけど、一応布当てとこうか」

「俺は、いらないよ」

「はいはい。念のためね」

 

(俺のことは過保護なくせに、自分をすぐに過信するんだから)

 

 梛はため息をついて、しろの脇腹に布を当ててやる。とはいえしろの回復の早さは折り紙つきなので、早ければ二、三日で傷が塞がっていくに違いない。

 

「よし。後は、痛いとこない?」

「ない」

「……後で見つけたらげんこつするけど」

「大丈夫!」

 

 とりあえず信じてやることにして、布を水で洗おうと立ち上がる。しかし、しろの手が追いかけるようにして梛のからだを立ち止まらせた。何、という前に、伸びてきた指が梛の頬をさわる。まるで――あのときの傷跡を確かめるみたいに。

 

「ひどいことして、ごめんなさい」

 

 ぽつりと囁かれた、いたずらした幼子みたいな声。

 

「もう、良いよ。痛くない」

「梛」

「ん?」

「ひどいことも、言った」

「……」

「母さんって、思ったことないって……」

「別に。売り言葉に買い言葉だろう、もう良いよ」

「……思っては、いる」

「しーろー? 今、おれたちやっと仲直りしたよな?」

「や、違くて」

 

 もう良いと、話をうやむやにして片付けようとしているのに、どうしてわざわざ掘り返すのだ。やけになって、思い切りしろの頬を両手でつねってやる。しろは端正な顔を情けなさそうにしながらも、「違くて」と抵抗を試みていた。

 

 その後に続く言葉を、梛はなんとなく察している。

 なんてこった、それはややこしいから勘弁してくれ。

 

 そんな思いで、とりあえず会話を終わらせようとする。しろが言いかけていることくらい察しがつくが、その件については、梛にとっても解決方法が見えてないし、どう対応して良いか分からないのだ。

 

「解決しただろうが。おまえはうちの子、おれは親代わり! それで元通り!」

「うう……」

「それで、今回の話はおしまい。良いだろ?」

 

 親子の親愛とは別の感情からくちびるを合わせるということくらい、梛は知っている。

 しかし、どうしてしろが梛にキスをしたのか、その理由が梛にはまるで分からない。だからはその先の話はぴしゃりと遮断して、はぐらかすことに決めているというのに――。

 

「梛、聞いて。お願い」

 

 今日のしろはどうも、執拗である。

 

 いつの間にか梛の細い腰に巻きついてきていた手に引き寄せられて、一方の手が梛の頬をやさしくさわる。いつもじゃれるようなそれじゃなくて、ベッドに座ったまま梛を上目遣いに見上げるしろの濡れた双眸は、それは梛の知らないそれだ。

 

 変だ。真冬だというのに、体温が急に上昇するみたいになって、居心地が悪くなる。梛はそんな自分を隠すように、目の前のからだをぐいぐい押した。ピクリともしない。

 

「いや、いやいや……おかしいだろう」

「おかしくない。梛がすき」

「意味分かってる? おまえのそれは、絶対違うぞ……。親鳥に雛鳥が懐くみたいなもんだ。そりゃおれは今となってはおまえよりも小さい、こんななりだけど、おまえの飯作ってるのはおれ、朝いぎたないおまえを起こすのもおれ、こうして手当てして面倒見てるのもおれだぞ? 親以外にどう思うんだ」

「梛は可愛くて、お嫁さんみたいだなあって」

「な……っ、なあーんーだーとー?」

「こうやって」

 

 梛の顔を引き寄せるようにしてから、傷跡を確かめるみたいに温かい舌が頬を這う。それから、いたわるようにくちびるが触れた。

 

 しろのそれに、梛のからだがピクリと震える。そして、まるで予測しなかったそれに反応するみたいに、心臓が早鐘を打った。

 

「梛にさわると、胸がどきどきする」

「こ、こら……っ」

「心臓が痛いのに、もっとさわりたくなる」

 

 梛はしろの縋るようなおねだりの目に弱い。行き場を失った子どものようなそれを、小さな頃から見ていたからだ。

 でも、今目の前にいるしろのそれは、縋るようなそれでありながらも、その奥にチラチラと違う色の何かを纏っていて、梛は得体の知れないそれに慄く。自分を見上げるこんなしろの表情を、梛は知らない。

 

 そしてこれは、息子の新たなる成長を発見した喜びというよりも、芽生えさせてはいけない何かを植えつけてしまったみたいな、危険信号が胸の中で鳴っている。

 

 後ろではしろの手のひらが通せんぼするように梛のからだを自分へ引き寄せている。それは緩くそうしているだけなのに、なぜか痺れたように梛は動けない。

 

「梛」

 

 息が詰まるほど近くにあるそのくちびるが、梛の意図しない方向へ動く。

 

「すきだ」

「……っ」

「小さい頃からずっと、梛を守れるようになりたいって思ってた」

 

 梛を緩く支配していた後ろの手のひらが、古い傷跡をなぞるように背中を上下にゆっくりと伝う。

 

「二度とこんな怪我させないって」

「し、ろ……分かったから、もう……離せって」

 

 おかしい。

 

 しろがこうしてペタペタとからだにくっついてきて、甘えるのなんて、梛にとっては日常茶飯事だ。だから、こうしてくっついているのは、なんとも思わないはずなのに。

 

 しろが醸し出す、濃密でどこか甘美な雰囲気が、いつもと全然違って、からだがピリピリと麻痺しているような気分になる。いつからしろは、こんな技を覚えたのだろう。

 

「梛」

 

 しろの温かい息遣いが、すぐそこにある。

 

「キスしたい。いやだったら、蹴飛ばして逃げて」

 

 濡れた金色の双眸が、見透かすようにじっと梛を見上げる。訪れた沈黙は数秒にも、数十秒にも思えた。梛はその温かいからだから離れることも、抵抗の言葉をあげることもできずに、くちびるをつぐんで視線をそらす。

 しろの瞳の色がいっそう扇情的に濡れて、それから、梛の息遣いごと飲み込むように一気にそのくちびるを塞いだ。

 

 受け入れた訳ではない、でも、抗うことがどうしてか出来ないのは、この真剣過ぎる顔つきのせいなのだろうか。

 

(抵抗、できない)

 

 くちびるが触れているだけなのに、たちまち梛のからだに緊張が走る。触れたところから全身に熱が回って、クラクラしてくる。立っていられるのは、しろが後ろ手で梛の細いからだを支えているからに他ならなかった。

 

「――……っ、し、ろ……っ」

 

 それに、息の仕方が分からない。角度を変えて何度も合わさるくちびるに、どんどん余裕がなくなってくる。執拗に迫ってくるしろのくちびるからようやく離れるようにして、ぷはっと息を吸い込んだら、それを待っていたかのように、今度はぬるりとしたしろの舌が口内へ侵入してくる。

 

「……っ」

 

 目を見開いて、(そんなことは話に聞いてない!)と言わんばかりに両肩を押そうとしたが、時既に遅しと言わんばかりに、梛の後頭部にしろのてのひらがあてがわれて、逃げる隙がなくなる。

 

「ごめん、梛。後で殴って」

「……ん、ふ……っあ」

 

 激しいキスの雨による酸素不足と、しろが醸し出す甘美な雰囲気の酔いで、梛の心臓はこれでもかというほど暴れまわっているというのに、からだは痺れて力が入らなくなっていく。

 

(しろの、くせに)

 

 呼吸すらままならない梛の口内を激しく蹂躙しながらも、さわってくる手つきは、なまめかしいほどにやさしい。

 気づいたら、力の抜けたからだを引っ張られて、ベッドにそっと引き倒されていた。今度は頭がベッドへ押し付けられているせいで、うまくしろの攻撃から逃げられない。

 

「梛、かわいい」

「……るさい……っ」

「さわりたい」

「さわるって……なに、ひ……ああっ、ちょ……っ」

 

 服の裾から差し込まれた手が、直に梛の素肌を撫でる。

 

「ごめん。本当にいやだったら、殴って蹴って逃げて。俺、もう、止まんないから。梛、すきだ」

 

 甘く痺れてばかになった脳が、ようやく梛のしたいことを理解し始める。

 

「おまえの、すきって……本当に恋愛の、意味なの?」

「……今さら気づいたの?」

 

 低い木の天井を遮った梛が、すこし拍子ぬけたように苦笑する。

 慈しむように素肌を滑らせていた手を止めて、しろが息の整わない梛をじっと見下ろす。

 

「や……そういう訳じゃないけど……意味分かんないで言ってるのかなって」

「梛は、だれかに恋したことあるの?」

 

 そう言われて、梛はぼんやりとした頭で考える。

 しろに出会うまでの村暮らしは、屋敷に居させてもらうために主人の命令に従ってばかりの日々だ。人間の子どもと出会う機会などなかったし、まして女の子と話す暇もなかった。しろと出会ってからは、獣まみれの森暮らしである。良く考えなくたって、そんな甘酸っぱい経験なんてあるわけがない。

 

 それに――梛は、恋とはどういうものかを、良く考えたことがなかった。

 

「恋って、どんな感じなのかも、知らない……」

「じゃあ、恋は、俺が先だ」

 

 しろが柔らかく顔を歪ませて破顔する。あどけないそれは、梛を組み敷いているこの状況と、それまでの甘い雰囲気にあまりにも不釣り合いで、それなのになぜかその笑顔に、梛の胸がぎゅうっと苦しくなる。

 

 梛としろの世界には、お互いだけだったはずだ。梛が恋を知らないというのなら、間違いなくしろもまた、そんな感情を知らないはずだ。それなのに、いつの間にそんな感情を覚えたというのだろう。

 

「なんで、おまえそんなの知ってんの。……教えてないよ」

「梛が教えてくれた」

 

 しろが梛の頬や額に、ちゅっと音を立ててキスを落とす。でも梛には、その意味が分からない。分かるのは、梛が知らないことを先に知ってしまった大人びたしろの様子が、どうしてか落ち着かず、心臓が変に早鐘を打っていることくらいだ。

 

(恋って、なんだろう)

 

 どんなふうに、一緒にいたいと思うのだろう。

 どんな気持ちになったら、それが恋と分かるのだろう。

 梛はまだ、あまりにもそれに無知である。

 

「俺が、梛に教えてあげる」

「お、おまえは、どうして、恋だって分かったの?」

「んー? それは……えーっと、話すと長くなるから、……とりあえず続けて良い?」

「気になる」

「……続き、する」

「こら、しろ! はぐらかさない……っあ」

 

 うやむやにされて、また、しろの意図を持ったような手が梛に襲いかかる。

 

「もう、十分待ったし」

 

 しろの額が擦りつけられるようにして、梛のそれにコツンと当たる。さっきからまるで知らない男のそれみたいな手つきで梛のからだをさわってくるというのに、こうしてじゃれるのは子どもみたいで、それがひどくアンバランスだった。

 

 ああ、しろの体温だ。

 夏も冬も、どうしてか梛よりもぽかぽかと温かい、人肌なのに狼に触れているみたいな、その体温。

 

「……っ」

 

 何度も重ねられるくちびるも、そこから溢れる自分のじゃないみたいな吐息も、大きな手のひらがからだに触れる感触も、いつものしろと全然違うのに――不思議といやじゃない。

 

(どうして、ドキドキするんだろう)

 

 張り裂けそうなほど、胸が痛い。

 しろのそばを離れようとしたときと同じくらいに。

 

「なぎ」

 

 梛のからだをすこし浮かせるようにして、服の中から背中をなぞるしろの指先が、梛の背中の傷跡をつーっと撫でる。古傷なんてどう触られようと痛くもかゆくもないのに、確かめるようにやさしくそっと手を這わす。

 

「……っ」

「傷、残った」

「あんまり、見ない方が良いよ。……気持ち良いもんじゃ、ないだ――っ」

 

 最後まではいえなかった。何度目か分からないキスに、反射的に目をきつくつむる。

 くちびるを離したしろが、んーん、と甘えた声を出す。

 

「きれい。梛は、どこもかしこも」

「傷が?」

「俺にとっては、傷ひとつないのが、きれいってことじゃない。でも、もう絶対に、梛に傷がつかないようにする」

 

 あの、出会ってから数日が経ったある日。

 消耗していたはずの体力を振り絞るようにして屋敷の離れを飛び出したしろを、梛は必死で追いかけた。それでも、すばしっこい子犬に、寝不足に栄養不足な人間の足がかなうはずもなくて。

 

 ――おいで、こわくないよ。

 

 村を出てすぐの森近くで、うずくまる子犬にそっと手を伸ばした。しかしそんな梛の後ろを、どこからともなく現れた一匹の獣が襲った。どちらかといえば、背中を引き裂かれたあの凄惨な現場を客観的に考えれば、しろのほうがよほどトラウマなのではないだろうかと、梛は思う。

 

 怪我は、しろのせいではない。

 それは逃げたしろを追ったのは梛の意思だからとか、実際に襲いかかってきたのは獣だからとか、そういう単純な理由ではない。

 

「梛、すきだ」

 

 真白い雪の中で倒れた、小さな身寄りのないかたまりは、梛の運命だった。

 ひとりぼっちがひとりぼっちと出会い、ただ惹かれて、ただ――一緒にいたいと思った。

 

 そんな梛のエゴは子どもには難し過ぎて、だからこの傷は梛の自己満足みたいなものなのだけど、そういう感情については――もうしばらくしろが大人になりきるまで、伝わることはないのかもしれない。

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