きみの傷跡はきれい

10

 ふと、ザザッという不気味な風があたりの木々を揺らす音が聞こえた。寒さで震えるのと同時に、何かが近寄ってくる足音が聞こえる。それは、いつから梛を見つけていたのだろう、気づいたときには随分近くにあった。

 

 梛ははっとして、立ち上がる。

 

 いつもならひとりの時には、より一層の警戒心を持って歩くはずなのに、今日は混乱していたからか、周囲に対する意識がひどく曖昧だった。だから――こんなに近くになるまで気づかなかった。

 

 こちらへ迫りくる足音は、ふたつ、みっつ――よっつ。それは明確な意図を持って、梛の四方を囲むように忍んでいた。

 

「……っ」

 

 梛の視線が、大きな影を捉える。月光がわずかにその姿を映した。梛の何倍も大きな、どっしりと構えるような体躯。それなのに、忍び寄る足音は息を止めているかと思うほど静かだ。

 

 熊である。

 

 梛は踵を返して、走り出す。それはすぐに梛の後を追ってきた。全部で三頭。走り出した梛を、先ほどとは打って変わった、地響きがするみたいに激しい足取りである。

 

「……っ」

 

 ああ、殺される――それに、食われる。

 必死に走るが、獣のそれに敵うはずもない。近くそれに、向けられる牙の感覚、最後には至近距離で、獣のような咆哮がこだました。

 

 回り込まれていたのか、突然目の前から別の熊が現れて、足を止める。執拗に追いかけていた後ろと左右の熊も合わせて、四頭が梛を囲んだ。熊たちはじりじりと梛との距離を詰めていく。すぐに噛みちぎらないのは、梛の捕獲のためというよりも、誰が仕留めるかお互いを牽制しあっているという様子だった。

 

 グルル……という喉を唸らす熊たちが、互いを威嚇し合いながらも、目だけは逃さないというように梛を注視する。

 

「……っ」

 

 逃げられない。

 幾つもの目が、逃がさないよう注意深く梛を見下ろしている。等間隔で囲まれているから、突破できるような隙もない。それらは梛と、同じ種族の息遣いを聞きながら、徐々にこちらへと向かってくる。

 

 真冬だというのに、温かな汗の雫が背中を滴る。そんな緊張状態を、何秒そうしていたのか。

 ついに膠着状態を強引に突き破った目の前の熊が、むき出しにした牙を抱えて梛の方へ突如として襲いかかる。

 

 だめだ、と、――梛はこわばったからだのまま目を瞑った。

 

 ――しかし想像するような痛みと、からだが引き裂かれる痛みに叫ぶような自分の叫び声は、ない。代わりに、目の前に突進してきた熊の、ギャアアッという苦しげな咆哮があたりにこだました。

 

 梛は息を飲む。でも、目を瞑っているのに、何が起きたのかすぐに分かる。

 瞑った目の隙間から、だめだというのに涙が溢れた。

 

 ――だって、それは、梛の身に危険が及んだときに何度も繰り返されてきた。

 

 何かがひらりとそばにきた、それは身軽そうなのにたくましい体躯で、流れるような美しい白い毛なのに、獣たちにとってはひどく怖れるものであることを――梛は知っている。

 

「……しろ……っ」

 

 ひと回り大きな熊の首に噛みついた獣が、その体躯を投げ飛ばす。熊の爪が一瞬だけしろのからだを引っ掻いたものの、雪の上に投げ飛ばされたそれが苦しそうに呻く。その首筋から、吹き出すように血が滴った。三頭の熊が、派手にやられた同族を見てか、じりじりと後ずさりをしていく。

 

 白いその背中が、梛を守るようにして残り三頭の熊を睨み上げた。怒りをむき出しにした金色の双眸が、熊たちを射抜く。

 

 ――狼が荒々しく唸り声を上げた。三頭が一気に狼へ襲いかかる。

 

「……っ」

 

 狼よりもどっしりとした体型のそれらが、その重そうな体躯からは想像もできないほど俊敏な動きでそれぞれ狼へ四方から飛びかかる。しかししろのからだは素早くそれらを避けて、梛を守るようにかばいながらその首元へと容赦なく噛みついた。獣が呻く。耳をつんざくような恐ろしい叫び声がこだまする。真白い毛に血飛沫が飛びついて、赤く染まる。ギャアアという痛々しい獣の叫び声に構うことなく、しろは次々とそれらの喉元へ噛みついた。

 

 手負いの熊たちが、やがて、ずるずると狼を避けるように後ろ足で後退していく。忌々しげにしろと梛とを交互に見ていた熊たちは、しかし、致し方なさそうに十分な距離を取ったのち、ふらふらとした足取りで踵を返した。真冬のこの時期、梛は格好の餌だったに違いない。その餌を惜しんだのだろう。

 

 熊たちが去っていくのをいつまでも睨めつけていたしろの背中が、やがて緊張が解かれたようにふらふらとその場に座り込んだ。ひどい手傷を負わされていたようには見えなかったが、どこかを怪我ように脱力したその背中に、梛はぎょっとして駆け寄る。

 

「しろ……おまえ、どこか怪我したか……っ」

 

 赤黒い鮮血が飛び散る雪の上をかき分けるようにして近寄り、狼姿のその体躯に触れる。熊たちの血でべっとりと濡れている場所の他に、あの獰猛な爪が真白いからだを何度もかすっていた。そばへ寄って周囲を回りながら傷を確認する梛を、敵意を収めたしろの金色の瞳が見下ろす。しかし梛はその視線に気づくことなく、ペタペタとしろのからだに触れて傷の深さを確かめた。

 

 一点だけ、爪で深くえぐられた場所から流れた血が、白い毛並みをどろどろと赤く固まらせ始めていた。

 

「おまえこれ、痛いだろ……。ちょっと待って、なんかあるかも……」

 

 引っ掛けてきただけの鞄を地面に下ろして、中に何か応急処置を出来るものが入ってはいまいかと、手で探る。塗り薬を手に取って振り返ろうとして、――柔らかい毛ではなく、荒い呼吸のせいか熱くなった人肌に思い切り抱き寄せられた。

 

「し、ろ……?」

 

 ずいぶん走ったのに加えて、先ほどまで臨戦態勢だったからだろうか、触れてくるそのからだは、呼吸を整えるように深く上下している。

 

「俺――」

 

 吐き出したしろの息が、梛の頬に掛かった。

 

「梛に嫌われても良い。でも、お願いだから、どこにもいかないで……っ」

「……っ」

 

 しろのまっすぐな言葉と、真冬の気温を遮るポカポカとした体温が、すぐそこにある。

 

 ――梛の胸が、ぎゅうっとまた苦しくなった。

 

「梛が好きなんだ」

 

 大人にならなきゃいけない。

 

 しろにとって、良い保護者でいなきゃ、母さんの代わりにならなきゃいけない。そう思っていたのに、まるで理性の壁がガラガラと崩れてしまったかのように、梛の両目からポタポタと涙が溢れる。

 

「なぎ、すき。そばにいたい……っ」

 

 子どもみたいに縋るその声に、梛が心にコーティングしたはずの防壁も、もポロポロと剥がれていく。痛いくらいに抱きしめられて、しろはずるいと、小さく胸の中でこぼした。

 

「梛が、泣くほど俺のこと大切にしてくれてるの、知ってるよ」

「泣いて、ない……っ」

 

 嘘つき。

 

 そう言って、しろの温かい手のひらが、怪我をした梛の頬の位置を注意深く避けるようにしながら、頬を伝う涙を確かめるみたいにさわる。そして、抱きしめる力は強いのに、涙を拭う仕草だけがいやに優しく宥めるようにして、アンバランスに変わる。

 

「梛がすき……一緒にいたい……っ、一緒に帰りたい」

 

 それでも、梛を求める声は雛鳥のように必死で。

 我が儘で頑固で、どうしようもないのに、それと同じくらい愛しくて可愛いその存在に、流される。本当は群れに返さなきゃいけないのに、甘えるような縋るようなその声が邪魔をする。

 

 駄々っ子のように繰り返されるそれに、抵抗することもできずにぎゅうぎゅう抱きしめられた梛が根をあげるまでは、もはや時間の問題だった。

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