きみの傷跡はきれい

09

 いなくなってみれば、まるで野分のようにあっという間の居候だったというのに、勝気でおしゃべり好きな同居人を失った家は、どうしてかすこし寂しそうだった。

 

「なんか、家が広くなったね」

 

 そう言ったらしろはちょっと嫌そうな顔で「俺はそう思わないけど」と強がって見せた。それから梛としろはいつも通り、火を焚いた暖炉でからだを温めて、水場から取ってきた冷たいそれで可能な限り体をきれいにし、冬仕様で素朴な夕食をつついた。

 

「しろ」

「うん」

「乙葉いなくなったよ」

「そうだね」

「もう、ふたりで寝る意味ないけど……」

「狭いのも好きだから」

 

 猫族みたいなことを言う。狭いのが好きなら、いつも壁際の梛をぎゅうぎゅうと追い詰めになんて来ないはずなのに。見え透いた嘘なのはしろだって分かっているのだろうが、知らんぷりをして、もう一つの寝床をからっぽにする。

 しろはもう、そうするのが当たり前みたいに、薄い毛布を掛けたその上から梛のからだをすっぽりと抱き込む。

 

「ここが落ち着く」

「じゃあ寝床、変わろうか?」

「いじわる」

 

 そういうことじゃない、と、お湯できれいにしたばかりの梛の、すこし温まった首筋を、しろの顔がぐいぐいとくすぐる。やわらかい髪の毛が触れるのがくすぐったくて、思わず声を出して笑うと、弱いとこを見つけたと言わんばかりに調子に乗って、さらにぐりぐりと頭を擦りつけてくる。こうして甘えてくるのはいつものことなので、梛は軽く「はいはい」とあしらい、ついでに「寝るから、明かり消して」と言う。しろは言われた通りにからだを一旦起こして、部屋の真ん中にほのかについていた蝋燭の明かりを吹き消した。

 

 部屋の明かりがなくなれば、外の空気を遮断したこの部屋には月の光すら通らないのでたちまち真っ暗になる。夜目に慣れないうちに、手探りで梛のからだを見つけたしろが、ごそごそ梛のを抱き寄せて、ちょうど良い位置を探すみたいにして先ほどと同じ体勢に戻した。大した手際の良さである。

 

 背中がぽかぽかと温かい。

 

 しろが小さな頃は、子ども体温だなあと思っていたけれど、真冬も雪の中を平気で歩けるくらいだから、元々狼は体温が人間よりも高いのかもしれない。しろが背中にくっついていると、まるで毛布に包まれているみたいに心地よかった。

 後ろでしろが身じろぎをする。布がすこし擦れる音がする。

 

「しろ」

「ん。梛は今日も、寝れない?」

 

 最近めっきり寝つきの悪くなった梛を心配するような声。しかし眠れないのはきっと、梛だけじゃない。梛は部屋に帰ってから、いつものように何食わぬ顔で暮らそうとするしろの背中に、何度も言おうと思っていた言葉を、再び口にしようと息を吸い込む。

 

「寝れないのは、しろもだろ」

 

 しかしそれは、口から出る寸前でまた、違う言葉になる。

 

「俺は、昼も寝たから」

「良くあんなところで寝るよなあ。寒くないの?」

「んーん。寒くない。俺、小さい頃から、梛はなんであんなに寒がりなんだろうなって思ってた。すごい、たくさん布を着せてきたから」

 

 確かに、この狼が犬の子どもだと信じて疑わなかった頃は、小さなからだがコロッといってしまわないかと気が気ではなかった。しろの体調には常に気を張っており、特に真冬のお出かけのときには、布をかき集めて厚着させていたものだった。しろはいつでも「そんなに寒くない。なぎが寒そう」とぶつくさ言っていたけれど、子どもの言葉だと梛は聞き流していた。

 

「子どもは、すぐ風邪引くから」

「俺は、梛が寒そうだなあってずっと思ってた。梛は自分よりも俺をぬくぬくさせようとする、俺は梛がいれば寒くないのに。……でも梛は夜も、たまに、雪の日はくしゃみする」

「今も?」

「乙葉がくるまでは。一緒に寝たら、しなくなった。俺あったかい?」

「んー……」

 

 答えに迷ったけれど、素直に言った。「あったかいよ、毛皮に包まれてるみたい」と。

 だんだんと目が暗闇に慣れてきて、目の前に古い木の壁が見えるようになる。そうして、梛は会話を続けながらずっと、自分が目を開いていたことに気づいた。

 

 ――明朝、ここを立つ。北へ。

 

 梛は、いつまでも分からず屋のしろに、親として言わなければらないことがある。今日一日、駄々っ子になった子どものようにその話題を話されまいとするしろの雰囲気を感じていたけれど。

 

「しろ」

 

 梛のからだを抱きしめていたその手に、力が入る。

 

「おまえ、あの狼たちのにおい覚えただろう」

「分かんない」

 

 嘘だ。どこにいたって森と雪の濃密なにおいの中、梛の場所を目ざとく見つけるくらいに、しろの鼻は良いのだから。

 

「――おまえ、群れに帰りな」

 

 心のどこかで分かっているのだ。お別れしなければいけない、あの狼の言葉の裏を理解できないほど、しろはもう子どもではない。

 

「梛と一緒にいる」

「あのなあ……」

「梛、しつこい。俺は何度も言った。梛のそばにいる。離れるのは絶対いやだ」

 

 しろのそれはまるで、お気に入りのおもちゃを手放したくないと駄々をこねているようなものだ。梛の胸が、キリキリと痛みを増していく。この胸の痛みがしろに伝染して、自分がしろと離れたくないと苦しんでいると悟られてしまうのではにないかとひやひやして、気持ちが伝わってしまわないようにからだを離したかった。しかししろは一層強く、梛のからだをぎゅうっと抱きしめる。

 

 梛は深く息を吐いた。

 

「あのなあ、しろ。おまえ、あの狼族の群れがそばにいること、どうせ知ってたんだろう。あんなにたくさんいれば、同族の匂いなんて分かるだろう」

 

 同族から過保護なほど心配されていた乙葉の姿を見たときから、薄々感づいてはいた。あんなに心配するのだったら、乙葉を野放しになどしていなかったはずだ。しろが幼い頃雪の中に放り出されたことには、どうしようもない深い訳があるのだろう。

 

 乙葉がこの部屋にやってきたことに、群れの意向が含まれているのかは分からないが、狼族たちは注意深く自分たちを観察していたはずだ。だとすればしろもまた、同族が近くにいる気配は感じていたはずである。

 

「……乙葉を監視していると思ったんだ。俺には関係ないよ」

「おまえの狼族の長は、おまえに帰ってこいと言ったんだ。しろはもう子どもじゃない、それくらい聞き分けられるだろ」

「俺は、なにも言われてない」

「しろ。良い加減に駄々っ子はやめろって」

「子ども扱いしないで」

 

 梛が言葉を掛ければ掛けるほど、しつこい――と、しろの言葉がだんだんと感情的になっていく。聞き分けの悪さに、こちらも怒りに任せて「帰れ」と言いそうになるのを必死に抑えて、しろを宥めようと口を開く。

 

「おまえだって、分かってるだろう。あいつらがおまえを連れて帰りに来たの。何も考えず乙葉がうちに急に来るわけもないだろうし」

「知らない」

「しろ――」

 

 どうしてそんな頑ななんだ。聞き分けてくれ。

 そう口を開こうとしたけれど、拘束されていたからだを力任せに掴まれて、ひっくり返される。抵抗する暇もなく、強い力に引き寄せられた。仰向けになった梛の頬を、天井を遮るようにして梛に乗り上げたしろの温かい手のひらが掴む。

 

 灯りがなければ真っ暗だというのに、真正面から見るしろの金色の目だけが、ゆらゆらと強い光を放っていた。ひどく困惑しているような、寂しいような双眸が、まっすぐ射抜くように梛へと見下す。

 

 ただでさえ力では勝てないというのに、のしかかられていては分が悪過ぎる。梛はからだに力を入れて抵抗しようとするけれど、難なく押さえ込まれた。

 

「梛は――俺に、出て行ってほしいの? いなくなって欲しいの?」

 

 胸が痛い。

 ひとりぼっちだった梛は、知ってしまった。温かな体温に包まれた暮らしを。

 でもそれは、普通の暮らしじゃない。

 

「おれは、しろに」

 

 許されるなら、縋りたかった。行かないでほしい、そばにいてほしい、家族でいてほしい。

 

 でもそれと同じくらい、梛はしろの足手まといにはなりたくない――。

 

 梛は言葉が溢れないようにくちびるを引き結んで、それから理性的に言葉を紡げるように、すうっとゆっくり息を吸いながら、慎重に口を開く。

 

「おれは、しろに――普通の暮らしをしてほしい。普通の家族の元で、生きてほしい」

 

 銀色の雪野原を駆け回る美しい狼の姿が、脳裏を駆け巡る。

 梛とふたりなら、しろはあんなに自由に走り回ることなど出来はしない。

 

 きっと、そういうことがまだ、たくさんある。だからこそ、しろは群れへ帰るべきだ。

 

 梛の言葉に、図体だけは大人の男になったはずのしろの表情が、まるで子どもに逆戻りしたみたいに、くしゃっと歪む。

 

「……おまえがおれと離れたくないって思うのは、刷り込みだよ。小さい頃世話して、あの日おまえをかばって背中に傷がついて、それでおまえはきっと、おれから離れちゃいけないって思ったんだ」

「俺の気持ちを、梛が決めつけないで」

 

 梛を押しつける力が、感情に任せるようにギリギリと強くなっていく。

 痛い。

 

「しろ、頼む。言うことを聞いて」

「やめてよ! 俺は――、俺は……梛を……っ」

 

 しろの表情が、一層苦しそうに歪む。いつの間に、そんな表情まで分かるほどに近くに来たのだろう。何かを言おうとしたしろが、何度か逡巡して、それでも最後は力任せに言い放つ。

 

「俺は、梛を……母さんだなんて思ったこと、一度もない……!」

 

 なんとか宥めよう。言うことを聞いてもらって、この駄々っ子状態の子どもを群れに帰さなければ。そう思っていた梛の頭が、その言葉に、真っ白になる。梛を見下ろすしろの表情が、梛を傷つけたことを瞬時に悟ったのか、一層悲しそうに歪んで、でももう引けないと言わんばかりに、――わずかな隙間を残していたふたつの影が、ぴたりと重なっていく。

 

 何が起こったのか、梛はまるで理解出来なかった。

 気づいたときには、しろのくちびるが梛に覆いかぶさるように降りてきた。

 何を言われたのか考えたくないと言わんばかりに鈍くなった頭に、追い討ちをかけるように、しろのそれが深く重なる。

 

「……っ」

 

 どうしてそうなったのか、何がこの狼のスイッチになったのか。今――何が起きているのか。

 燃えるように熱いしろのそれは、梛の困惑を振り払うかのごとく、何度も深く梛のくちびるを深く吸う。乗り上げているからだを押し返そうと、しろの肩を押すが、屈強なそれはぴくりとも動かない。

 

「……ちょ、……しろ……っ」

「梛、俺、なぎを――……っ」

「や……――っ」

 

 頬を掴むしろの手が、乱暴に梛の顎を掴む。

 

(これって――なんで、キス……)

 

 くちびるを合わせるという行為を、梛はほとんど意識したことがない。小さな頃から村の友達は少なかったし、森で暮らすようになってからはしろの子育ての日々である。かろうじて知っていたのは、それが恋人同士や夫婦の間で愛情を育むためにあるということだけ。

 

(くらくら、する)

 

 くちびるを吸われているからか、段々と呼吸が整わなくなって力が抜けていく。それと同時に、痺れるようなめまいが梛を襲う。それはほとんど初めての感覚だった。

 

 からだから力が抜けていくのを感じた刹那、我に返った梛はほとんど本能でそうするみたいに、手足をばたつかせて抵抗した。どうしてこうなっているのかは、分からない。それでも、段々と状況を飲み込んだ頭が、これは絶対にダメだと梛の脳内に警告を鳴らすのだ。だって、梛はしろの――こんなことする相手じゃない。

 

「……し、ろ……! はな――っ」

 

 熱を持ったしろの大きな両手が、梛の顔を逃すまいと包み込む。梛はぎゅっと目を瞑って思い切り抵抗するように顔を左右に振った。

 

 ――と、頬を何かがスッと切り裂くような感覚がして、ピリピリとした痛みが走った。

 

 しろの爪が、梛の頬をかすったのだ。

 

「……あ」

 

 至近距離にいたしろが、それに気づいたのか、まるで我に帰ったように目を見開く。梛はその瞬間を見逃さないと言わんばかりに、一瞬力の抜けたその隙間で、目の前にあった梛の頬を力任せに打った。

 パシン、と頬を叩く音と、梛のからだから完全に力が抜けるのはほぼ同時だった。

 しろの動きがぴたりと止まり、あたりには沈黙と、梛が呼吸を整える息遣いだけが響く。

 先ほどまで強引にからだを支配していたのが嘘のように、しろのからだからずるずる力が抜けていく。

 

「……梛、おれ、ごめ……」

 

 暗闇の中でも、しろの表情がはっきりと見えた。しろは両手を伸ばすようにして恐る恐る、梛の頬の傷に触れる――しかし、気づけば梛はその手を振り払うようにしてその体躯を押した。

 梛は手の甲で頬を拭う。わずかに血のついたそれ。

 深く切れたわけではないらしい。

 でも梛は当然、傷跡のせいでしろの手を振り払ったわけじゃない。

 

「ごめ――……梛、ごめんなさい……っ」

「もう良い」

 

 ――俺は、梛を……母さんだなんて思ったこと、一度もない……!

 

 悲痛な声で、でもたしかにそう言い放ったしろの声が、今更になって、棘のように梛の胸を刺す。

 

「おれが、ここを出ていく」

「梛!」

「ついてくるな……っ」

「お願い、梛、行かないで……!」

 

 立てかけてあった外套をまとい、小さな荷物を肩に掛けた。

 

「おれは最初から、おまえにとって、母さんの代わりなんかじゃなかったんだ」

「そうじゃない……っ」

 

 しろが梛の腕を掴む。先ほどの力が嘘みたいな弱々しいそれを、今度は梛が力任せに振り払った。

 

「良く分かったよ! 最初から、おれたちはなにも、上手くいきっこなかったんだ……っ!」

「梛……っ」

「ついてきたら、嫌いになる……っ。おまえは群れに帰れ!」

「なぎ……っ、お願い!」

 

 行かないで。

 背中に刺さるすがるような声を無視して、冷たく暗い外へ出る。刺すような冬の風が梛のからだを覆ったけれど、不思議なほどなんとも感じない。まだ昼間のお出かけのせいで乾ききっていない、気持ちの悪い靴を履いて、雪の中を走った。

 

「梛……!」

 

 早く、しろの声が届かないところへ。

 まるで、あの家から逃げるように。今夜は雪が降っていないからか、ふわりとした新雪の積もっていないそこはすこし硬くて、梛はみるみるうちに小さなあの家から遠ざかっていく。

 呼吸が乱れて、息が詰まった。しろの声が夜風にかき消されていくのと同時に、梛の視界がふわふわと揺れていく。

 

「……っ」

 

 梛の瞳からとめどなく溢れる温かい涙がぽたぽたと頬を伝い、雪の中に落ちていく。冷たくなった手のひらで何度拭っても、それは止まらなかった。

 

 いたい。

 どうしてか、誰かがぎゅっと握りしめているみたいに、胸がいたくて堪らない。

 

 梛と、何度も悲しそうな声で呼んでいた。そのしろが、もうそばにいない。

 しろがいなければ、梛はもう母さんじゃない。

 

 梛は子どものように泣いた。

 

 梛は――俺に、出て行ってほしいの? いなくなって欲しいの?

 子どものようなしろがそばにいなくなれば、そこには十八が少年だけがいた。

 ひとりにしないで。ひとりになりたくない。

 そばにいて。しろが大切なのに。おれがずっと一緒にいた、ずっと大切にしてきた。

 今さらひとりになるなんて、耐えられない。

 

 それでも、しろには居場所がある。

 

 小さなしろが眠っていた隙を見計らって、子どもの倒れていた場所へ「誰かいないだろうか? 迎えはきているだろうか?」と見に行っていたときも、迎えの足跡が雪の中に残っていなかったことに、ひどく安堵していた。まだ、あの子と一緒にいられるのだと。

 

 いっそのこと、あの日迎えにきていたら、まだこんな胸が痛くはならなかっただろう。

 走り疲れて息が切れる。

 どくどくと胸をうつ心臓を抑えて、呼吸を整えるために周囲の木陰へ移動した。何度も顔をこするのに、涙が止まらない。

 

「……っ」

 

 雪のついた木の枝を背にした梛が、そっと涙で霞んだ周囲を見渡す。静かな夜の森にはわずかに月明かりが差し込んでいて、梛の息つく音だけがあたりに響いているみたいだった。

 

「しろ」

 

 小さく子どもを呼んだ声は、虚しくあたりに溶けてかき消えていった。

 

 梛は空気にふれて冷たくなった頬を、もう一度手の甲でさわってみる。血などとっくに止まっていた。こんな小さな怪我なのに、しろはあんなにも動揺していたのだと、梛はちょっとおかしくなる。寝床に無理やり押しつけられた肩の方が、ずっと痛かったというのに。

 大きく逞しく成長したしろが自分を、過保護なほどに自分を大切にしてくれているのを、梛は知らないわけではない。でもそれは、小さな頃からそばにいた自分に対する依存のようなものだ。

 

 群れで暮らすようになれば、幼い頃の記憶なんてなくなっていくに違いない。

 梛の脳裏に、悠然と雪の上を走り回る狼の姿が、残像のように浮かぶ。しろは群れの存在を知ってしまった。梛と一緒にいれば、しろはいつか群れに帰らなかったことを後悔するかもしれないのだ。

 梛は、しろと離れるのは胸が張り裂けそうなほどに痛い。でもそれ以上に、しろの足手まといになりたくなかった。

 

(明朝が過ぎたら、あの家の様子を見に行こう)

 

 しろはきっと、こんな風に途方に暮れれば群れへ帰るかもしれない。

 

 息が整ってくると、たちまち夜の寒さが梛を襲った。小さなからだをまるめて、すこしでも夜の風を避けられるよう木陰に身を寄せる。吐いた息が白く霞んでいた。

 

 四年前に主人の元を勘当されているから、村へ戻るという選択肢はとっくに潰えている。梛にとって、家はあの小さなボロ屋だけだった。

 

 今夜は雪の気配がないのか、さやかな満月があたりを照らしている。

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