きみの傷跡はきれい

08

 起き抜けに待ってましたと言わんばかりに「四勝三敗で、あたしの勝ちよ! 余裕ね!」と乙葉に言われたのが気に入らなかったのか、帰り道のしろはすこぶる機嫌が悪かった。ふくれっ面をしているものの言い返さないということは、四勝三敗は真実なのだろう。四勝三敗が余裕かと言われたら、いささか微妙なところではあるのだが。

 

「やっぱりあんた全然だめね!」

 

 ギリギリの勝者は勝ち誇ったようにしろを「のろま」「運動不足」と揶揄している。来た時と変わらないペースで先へ先へと歩いていく乙葉の軽々しい背中を、梛は必死に歩いて追った。梛は乙葉の言葉をフルシカトしつつも、梛に対してはいつも通りのんびりとした声で「梛、おんぶする? 俺寝たから」と意味分からないことを言う。梛もやけになって早足で歩いた。靴の中はとっくに水浸しになっている。

 

 それにしても、やはり乙葉はすごいと梛は思う。行きはあっちこっちと指示したが、帰りは何も言わずとも自分でスタスタと帰っていく。一度の道案内で、この同じような雪景色のなか、道順を覚えるなんて。

 

「梛」

「だああ、おまえうるさい。おれは、自分で、歩く」

「そうじゃなくて、止まって」

 

 そう言われて、振り返ると同時に、しろの手が何かから梛を制するように動く。先ほどまでぽやぽやしていたはずの金色の双眸が、注意深く周囲を観察していた。まるで、敵襲に合ったことを察知したかのように――。

 

「……しろ?」

 

 異変を察知したのは乙葉も同じだったらしい。しかし、敵意を持ってあたりを見回しているしろとはまた様子が異なる、どこか戸惑っているようなそれ。梛をかばうようにして立つしろの回りには、おっとりとしたいつもの様子とは異なるピリピリとした空気が漂っていて。

 

「しろ、乙葉が――」

「あいつは大丈夫。でも……梛は俺から離れないで」

 

 ざわざわと、雪ごと風が木々を揺らす音が耳に深く入ってくる。誘われるようにして梛も注意深くあたりを見つめると、木陰になにかがいた。そして、その影が一つではなく――梛たちを包囲するように四方に潜んでいることに気づく。幾多の木々の影に浮かんだ幾多もの金色の双眸が、注意深くしろと梛を見つめていた。影と溶け込むような黒の体躯もあれば、梛やしろに似たような白と灰色のからだを持つものもいる。それらは逃げられないように四方を囲っているというのに、それ以上近寄ろうとはしない。まるで何かを、待っているように。

 

「しろ――」

 

 梛が言葉を言いかける前に、目の前から雪を踏む音が耳の中へ聞こえてくる。白の大きな背中の隙間から、周囲の狼たちよりもひと回り大きなその存在が、厳かな足取りでこちらへと近づいてきた。その音が、つかず離れずの距離を残して静かに止まる。たくましいしろの背中の横からそっと顔を出すと、慣れ親しんだ狼姿のそれよりもやや大きい、雪には似合わない黒い体躯が目に入る。まるで漆で塗ったような毛並みに、今朝積もったばかりの新雪がやわらかくくっついていた。

 

 梛はしろがどんな顔をしているのか、見ることができたらどんなに良いだろうと考えた。

 

「……梛と俺に、なんの用だ」

 

 警戒心をあらわにしたような、ピリピリとしたしろの声。いつもよりも低くて、声を絞るようなそれである。

 

「きみたちに用はない。いつまでも群れに帰らない娘を迎えにきただけだ」

 

 嘘だ。だったらどうして、この狼はしろの前に立ち塞がっているというのだ。

 

「お父さん、あたし――」

 

 こちらへ駆け寄ろうとした乙葉の周りには、いつの間に乙葉と同じくらいの細い狼たちが数匹、道を塞ぐように立ちはだかる。

 

「娘は返してもらおう」

「元々居座られただけだ、言われなくても返す」

 

 ねえ、とか、ちょっと待ってとか、控えめにつぶやく梛の声はまるで届いていないかのように、狼たちがグイグイとそのからだを群れの中へと押していく。

 

「……っ」

 

 振り返った乙葉と目が合う。

 

 ――あたし、人間って嫌いなのよ。必要以上に近づかないでよね。

 

 乙葉の金色の目が、痛みに耐えるようにくしゃりと歪められる。何か言おうと口元を動かして、しかし結局そのくちびるからそれ以上の言葉が紡がれることはなかった。諦めたようにくちびるを引き結んだ乙葉の小さな背中が、狼たちの元へと帰っていく。

 

 ――帰っていった。まるで、そこが本当の居場所だったかのように。

 

 いや、違う。乙葉にとってはその場所が、乙葉のいるべき場所だ。着々と数を減らしていく一族を守るために、同族たちだけで暮らし、濃い血を子孫へ残すところ。

 

 でもそれは、その使命を持っているのは、乙葉だけじゃない。

 

「明朝、ここを立つ。北へ」

 

 静かな佇まいに似合う老成した低い声が、確かに梛としろの元へと届く。斜め後ろから、しろの表情を見ることはできない。しろはついに、その言葉に答えることはなかった。

 真っ黒い狼のからだが、ゆっくりと踵を返していく。同時に、四方を囲んでいた狼たちが、金色の目で梛としろを静かに見つめながらも、二歩・三歩と、一族の長であるその主人に続いた。まるで雪の見せた幻だったかのように、数十匹の影がたちまち姿を消していく。

 

「しろ、あの」

「帰ろう」

 

 梛が、ぽつりとそう言う。感情の読めない声に、言い知れぬ不安が募るのに、思い切ってしろの目の前へ回り込む勇気がない。梛はそれ以上なにかを伝えるのをやめて、うん、と頷いた。

 

(四方を囲んでいたあの狼族の中に、梛の本当の両親がいた)

 

 どんな気持ちで、梛のようなちっぽけな人間をかばう息子を見ていただろう。

 梛には想像もつかなかった。

 

 ――明朝、ここを立つ。北へ。

 

 男のはっきりとした声が、いつまでも心に引っかかって、ガンガンと響いている。それは、強制的に迎えに来た乙葉へ向けられた言葉じゃない。

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