きみの傷跡はきれい

07

「あら、あんたにしては良い場所じゃない!」

「そりゃ……よかった」

 

 ヘトヘトになって地面へと座り込む梛とは裏腹に、疲れた顔ひとつ見せない獣人たち。今更ながら、人間と獣人との体力差を痛感する。座り込んだお尻に雪があたってひやひやと冷たい。

 

 春・夏・秋には、広い野原を分断するように細い小川が流れているのだが、浅瀬ゆえに冬には雪がすっぽりと覆い隠してしまう。小川あたりには背の高い木々が生えておらず、草木ばかりが生い茂っているおかげで、幾らか視界良好なのであった。

 

 晴れた空から注がれる午前のやわらかい陽光に、地面を覆い隠す雪が反射する。

 そんな雪の上で「準備体操」というようにぐううっと伸びる乙葉は、いつもよりもどこか生き生きとしていた。

 梛はずるずると木の陰に移動して、座ったままなめらかな幹に背を預ける。

 

「さ、走るわよ! ……あんたも走るでしょ?」

「俺は良い。梛といる」

「狼の本能捨てんじゃないわよ! ……あ、なあに。それとも、年下のあたしに負けるのが怖いの?」

 

 梛のそばで腰掛けようとしたしろが、意地の悪い乙葉の言葉に、「別に」とそっけなく言う。言いながらも、腰掛けるような素振りをやめて、ニヤニヤしている乙葉をじっとりと見下ろした。バチバチと視線が交錯して、早くもお互いを牽制し始めている。

 

(子どもがふたり……)

 

 梛は口元を緩めて、おそらくこれから始まるであろう勝負ごとに、負けん気を発揮する二匹を見上げた。

 

「じゃ、勝負ね! どっちが早いか」

「……良いよ」

「何年も運動不足のあんたになんて、負けないから」

「リーチの差があるし、俺も負けないと思う」

「うっさいわね、図体だけはでかいんだから」

 

 そう言ったのを最後に、目の前の乙葉のからだが、狼の肢体へと滑らかに変わっていく。乙葉の狼姿を見るのは初めてだった。何度も見てきたしろのそれと、親戚と言われてもしっくりくるほどに良く似ている。ただ、乙葉のそれはさすが女の子と言うべきか、気品に満ちたしなやかなからだだった(とてもではないが、運動不足には見えない)。

 

「梛」

「……へ?」

「勝負って、子どもっぽいって思ったでしょう」

 

 あ、拗ねている。

 弁解しようとしたが、その前にしろは狼になってしまう。あっと思ったときには、しろの注意は既に目の前の同族に向けられていた。

 

 大柄な二匹がお互いを見合い、同じ金色の視線が絡まった刹那――それらはなんの合図もなく(少なくとも梛にとって合図と思えるものは提示されることなく)二匹が白い雪の中を、まるで原っぱを駆けるように走っていく。それは時折唸り声をあげながら、競うようにあっという間に遠くなって言った。

 

 真綿のような白い大柄なそれと、背中に灰色がかかったやや小柄な影が、雪の上であちらこちらへと走り回る。視線で追うのも大変なほど、それはすばしっこくあたりを移動していた。

 

(確かにあれが運動っていうなら、ここ数日、乙葉はまるっきり運動不足だ)

 

 まだ舞い降りたばかりの軽い雪が、二匹の後ろ足に引っ掛けられて、吹雪のように散っている。霧のように中を飛ぶ雪の結晶を、また陽の光がきらきらと照らしていて、それはどこか絵のように美しい。

 

(きれい、だなあ)

 

 数がすくないゆえに血族の繋がりを強く持つ狼たちは、他の獣人や人間たちとの交信を徹底的に絶やしてきたと、もう顔だちもはっきりしなくなってきた屋敷の主人が、いつか言っていた。幻のようなその二匹が、まるでじゃれるように重なったり距離をとったりしながら駆け回る光景は、普通の人間にとってどんなに珍しいものだろうか。

 

 同じ小狼と群れるしろは、驚くほど自然で、それが普通で、梛がここにいるほうがへんなのだと実感する。

 

 しろは分かりやすい。

 

 自分でこう考えるのもアホらしいとは思うものの、乙葉に対するしろの感情は、梛と自分との暮らしを邪魔する存在くらいのものだろう。しかし、その一方で、しろは多かれ少なかれ乙葉に対して同族の興味を持っており、そして同族とこうしてはしゃぎ回るのはひどく心地良いのだろう(しろは絶対に認めようとしないが)。

 

 楽しそうだ。

 こんなに遠くにいても、かりそめだとしても何年か“お母さん”をしてきた梛には、それが伝わってくる。

 

「はあ……あー走った走った! 休憩休憩!」

「おかえり、乙葉、梛。結局どっちが勝ったの?」

「俺」

「あたし!」

 

 勝ち負けを決める合図はどこで行われていたのだろうと考えていたが、意思疎通はやはり不明瞭だったらしい。

 じとりとお互いを睨み合うふたりに、苦笑が漏れる。お互いに思っていることが「往生際が歩い」なのだから、本当にどちらも負けたと思っていないのだろう。

 

 その様子が、梛にはおかしくて仕方がなかった。

 やや息を乱しながら人型へ戻った乙葉が、ごろんと雪のうえに横になる。雪が粉のように、乙葉の長い髪の毛へとくっついた。

 

「乙葉、髪の毛濡れるよ」

「良いの良いの。また走ったら、なくなるから!」

 

 梛もわずかに息を弾ませながら、当たり前にそうであるみたいに、梛の横にすとんと腰掛ける。ぶつかった温かい肩から、どくどくした鼓動が聞こえてくる。

 梛はしろと駆けっこなどできない、しろは絶対に梛のペースに合わせてくれるから。それに、しろは梛に広い場所で駆け回りたいと伝えてきたことはないし、梛もこんなことは数年の間、一度も思い当たらなかった。

 

 ――しろは、もっと走りたいと思っていたのだろうか。

 

「疲れた?」

「ん、別に」

 

 嘘だ。いつもより息を弾ませているし、からだはぽかぽかして温かい。そうして意地っ張りなのは、すこしかわいく思えてしまう。

 

「第二回戦は、あんたがまた言い訳しないように、きっちりルール決めるわよ!」

 

 寝転がったまま頭だけこちらへ向けて、頬をやや上気させた乙葉が挑むようにいう。

 

「もうやらない」

「はあ!? やっぱりあんた自信ないんじゃない!」

 

 ああ。なんというか、乙葉は――わざとそうしているのではないのだろうが、妙にしろを煽るのが上手だと梛は密かに思う。しろの心に再び火がついたのが、肩を通した感じたぴくりという振動で伝わってきた。この調子だと体力が許す限りは、三回でも四回でもふたりは走り続けるかもしれない。

 結局、乙葉はその後も見事にしろを挑発し続けて、二匹はあたりの平たかった雪がめちゃくちゃになるまで、真白い野原を駆け回った。

 

 そうはいってもこんに走る経験などなかったのが仇となったのか。

 

 何度目かの勝負ののち、もう挑発には乗らないと言わんばかりにやってきたしろが、梛の肩にストンと頭を下ろしたと思ったら、そのまま静かな寝息が聞こえてきた。眠ることに関しては、どちらかというと神経質なのは梛のほうなので、(良くこんな寒い雪の上で寝れるなあ)と苦笑する。それだけ体力の削られる“散歩”だったらしい。

 

 ずるずるとした重み。小さな風で揺れる髪の毛が、梛の首筋をくすぐった。

 

「はあ!? 嘘でしょ、寝たの?」

「しろはどこでも寝るから」

「……信じられない。狼としての警戒心がなさ過ぎるわね。襲われたらどうするのよ」

 

 どこかへ行っていた乙葉が、戻ってくるなり目をひんむいた。そうっと近づいて、すっかり弛緩しきったしろに顔を近づける。

 

「本当に……寝てるわ」

 

 信じられない、というようにしげしげとその寝顔を見つめたあと、梛の方をじっとりと見下ろす。美人も台無しな敵意むき出しの表情――というわけではなく、どこか困惑したようなそれ。梛は「何?」と小さく聞いたけれど、それには答えずに、乙葉もしろの反対側に座った。ざっという雪の擦れる音がする。

 

「……なーんか、本当にそいつ、梛のこと信用してんのね」

 

 ため息をこぼすような、力の抜けた声。梛にはいまいち、話の経路が見えない。

 

「なんで、どういうこと? 寝てるのが?」

「普通、異種族の前で寝ないわよ。何が起こるか分かんないもん。捕獲されたら、売られたら……あたしたちは一生元の群れには戻れないわ」

「……希少種だから?」

「あんた、そういう世間一般の常識みたいなのは、知ってるのね」

「しろと会うまでは、普通の村人だったから」

 

 ふーん。と言ったっきり、乙葉は深く探ろうとはしなかった。

 

「ていうか、なんでそいつ、そんなに梛にベッタリなの? なーんか、人間一匹ごときで随分と過保護というか……」

 

 一匹というのは、どちらかというとさっきまで雪を転げ回っていた乙葉たちを指して言う言葉のような気もするのだけど。梛は相変わらず失礼な物言いを軽く流して、「なぜだろう」と考えた。梛がそばにいる意味など、ふたりでいたらへんに考えることもない。

 

「んー、そんなの聞いたことない。おれはしろじゃないから、本当のところは分かんないけど、あのさ、ちょっとそばに来てくれる? ……何もしないって」

「当たり前よ。なんかしたら腕噛みちぎってやるわ」

 

 確かに、やりかねない女の子である。

 梛は(なるほど、梛とは全然違う警戒心だ)と感心しながら、体をずらして梛に背を向ける。

 

「よいしょ。……ちょっと、外だし先のほうしか見せられないけど」外套の襟元を緩めて、肩をすこしだけ出した。「えーっと、ちょっと古っぽい傷があるの、分かる?」

 

 乙葉がコクリと頷いたのを見計らって、肩口をしまう。雪に触れていた空気が、あっという間にからだに入り込むみたいに、寒い。

 

「これ、しろに会ってからすぐあとに、獣に襲われて怪我したんだ。今は痛くもなんともないんだけど、背中をズバッとやられて。たぶん、しろはそれがいやだったんだと思う」

 

 怪我をしたのは、しろと出会ってからどれくらい経った頃だろうか。五年前となると、数ヶ月なのか数日なのか――梛の記憶はひどく曖昧だった。家族と離れ離れになって、梛にも警戒心をむき出しだった頃だ。襲われているところを見てしまったのは初めてだろう、しろはまだ子犬のように小さかったから、いやな記憶として残っていても不思議ではない。

 

「あっそ。ま、良いけど」

 

 乙葉は短くそう言って、梛がなんでもないように話したにも関わらず、ややバツの悪そうな顔になる。梛自身は気にしていないが、男にとっての傷跡と年頃の女の子にとっての“傷が残る”にイメージする感覚は、少し違うのかもしれなかった。

 

「盗まれただかいなくなっただか知らないけど、行方不明の狼族が人間と暮らしているっていうもんだから、まるで想像つかなかった。けど、あんたを信頼してるのは間違いないみたい。……見てるこっちがいやんなるほどベッタリだし」

 

 早口にそう言う。

 

(慰められているのか、認められているのか、苦情なのか良く分かんないな)

 

 それでも、突然ボロ家へ押しかけてきたときよりもずっと近くなった距離が、二人に対する理解に似た何かを示しているような気がする。

 

「あたしも、あんたたちみたいなのは初めてだから良く分かんないよ。でも――」

 

 そこまで言って、乙葉はらしくなさそうに傷ついた顔をした。くちびるを噤んで視線を落としたから、梛には乙葉の言いたいことが痛いほどに分かった。

 

 種の存続は、一族の繁栄にとって絶対だ。きっとそうやって教えられ、この女の子は育ったのだろう。

 

「大丈夫……ちゃんと、返すよ」

 

 なにに、と梛は続けなかったけれど、乙葉は肯定する風でもなく、いよいよ言葉をなくしたように項垂れた。

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