きみの傷跡はきれい

06

「なぎいー。あたし、運動不足な気がする」

 

 晴れの日の朝、ぽかぽかした日差しのせいかいつもよりも早く起きて、からっぽになった鍋を洗っていると、起き抜けの乙葉があくびをしながらそばへきた。美人だというのにふああーと大きな口を開けてあくびをするのだから、百年の恋もなんとやら、である。

 

 そんな様子に口調しながら、「運動不足?」と梛は聞き返す。

 

「なんか、からだが重い。……太ったかも」

「そう? 全然細くてきれいだと思うけどな」

「そんな痩せっぽっちのあんたに褒められても嬉しかないわよ」

 

 本当のことを伝えただけなのに、なぜか嫌味返しをされてしまった。

 たしかに、ここへ突然押しかけてきてからの乙葉といえば、たまに周辺を見に散歩に出ているか、部屋の中でゴロゴロしているか、しろにちょっかいをかけているか、夜中にこっそり残り物を食べているか……。狼族同士の群れ行動について、梛は知る由もないけれど、すくなくともここより運動量はありそうであった。

 

「なんであいつはあんなスクスク育ってんのよ。こんなところじゃ、こんなちっぽけで終わっちゃいそうなのに。……やっぱり遺伝かしらね?」

「遺伝? 狼族の?」

「それもあるけどー、あいつのお父さん、大きいもん。うちのパパとは大違い」

「そうなんだ」

 

 と言いながら、なんとなくしろは干し終えた衣類をたたむ手元へと視線を戻した。

 

「ねえ、なんか、すっごい広いところないの? あたしが走り回れるところ!」

 

 乙葉は梛の心情に気づいた様子もなく、たたみかけるように聞いてくる。基本的に乙葉は、しろが絡まないところであまり梛へ話しかけることをしないため、おそらく純粋に散歩がしたいのだろう(散歩というと、「犬族じゃない」と吠えられそうである……)。

 

 梛は服をたたむ手を止めて、すこし考える。

 

「雪は平気だよね?」

「当然でしょ! 雪国ばかり旅してるんだから」

 

 いささか得意げな様子である。

 

「そうだなあ。乙葉のいう“広い”がどれくらいか分からないけど、視界がひらけている場所はあるよ。ちょっと遠いから、一緒に行く?」

「あんたと行くわけないじゃない! ……と言いたいところだけどお、どうせ場所分かんないし、一緒に行っても良いわよ」

 

 ただならぬ上から目線である。

 乙葉はしろよりもまた一段と、生意気な中にも子どもっぽさがにじんでいるから、不思議とすこしも腹が立たない。梛は二つ返事でOKを出して、まだ奥の布団で眠っている梛のもとへと向かう。ふたりで行ったら、後でどんなに拗ねられるか分からない。乙葉の機嫌はもちろんであるが、梛のご機嫌取りもまた面倒である。

 

 梛の眠っていたほうはもぬけの殻だというのに、しろは律儀にも梛のスペースを空けたまま、目をつむってすぴすぴと眠りこけている。梛は良く眠る。獣人として栄養価も運動量も足りなかったとなれば、成長の秘密はこのあたりにありそうだと、梛は寝汚いその姿を見ながら思った。

 

「しろ」

「……ん、なあに」

「何じゃないよ。もう起きな」

「さむい」

「なんだそれ、寝てたって起きてたって寒いよ」

 

 ほら。と言いながら、まだ熱のこもった眠そうなからだを引っ張る。しかしその腕をむんずと掴まれて、あっという間に形成逆転された。勢い良く倒れたからだが、目をつむったまま手探りでやってきたからだに抱き込まれる。

 

「ちょ……こら! 離せって」

 

 しろの上でからだをばたつかせる、ぴくりともしない。

 

「おひるねしよ」

「昼寝には早すぎるって」

「ちょっと! 遊んでないで早くしなさいよお、ふたりとも子どもじゃないんだから」

 

 しまいには一番年下の女の子に“子ども”扱いされる始末であった。子どもによって諭されたのが気に食わないのか、すこし不機嫌になったしろが「朝からうるさい」と聞こえないように呟く。はあ!? あんたらの方がうるさいわよ」と数倍の声量で一蹴された。地獄耳である。

 

 しろは梛を抱えたまま気だるそうにむくりと起き上がる。さらさらした黒髪には、ところどころ寝癖が跳ねていた。手櫛で梳かしてやると、お利口な髪はすぐに元の通りさらさらと整う。

 

「おはよ」

「おはよう、起きた? これから乙葉とさん……出かけるけど、おまえも行く?」

「行く」

 

 梛の言い間違いに気づいて、しろがちょっとおかしそうに吹き出した。

 それからのそのそと起き上がり始めたので、三人で支度をして、梛と、朝から梛を挟んでキーキーといがみ合うふたり(二匹?)が家を出た。

 

 時折風が強い日になれば耐え難い隙間風に襲われるこのボロ家も、一応は屋根と壁があるため幾分か温かいのだと感じるほど、外の空気は刺すように冷たい。昨夜も雪が降ったからか、古いそれにかぶさるようにしてふわふわとしたやわらかそうな雪が、昨日出かけたしろと梛の足跡に蓋をしていた。すっかり真っ平らになった新雪を、再びかき分けるようにして歩き出す。雪国での群れ暮らしという自称に違わず、乙葉は雪の中でも歩くのが早い。

 

「ねえ、遅い! 早く、早く! 運動するんだから」

「だって。梛、大丈夫?」

「おまえら獣みたいな運動神経ないから……ちょっと待って」

「あんた全然体力ないわね」

「梛、おんぶしようか?」

「結構だ! 自分で歩ける」

 

 乙葉が一緒だからか、いつもよりもハイペースな移動に、息が上がってしまう。隣で心配そうに覗き込んできていたありえないしろの提案を却下しながら、梛は密かに(本当はこいつも、あのくらいのペースで歩くんだな)とつまらないことを考えた。

 

 森の冬は危ないのだから、片時も離れないように。

 

 コロコロとした小さなからだで雪の上を走るのが大好きだったしろに、梛はそう何度も伝えた。遠くへ行きすぎないこと、梛の視界の範囲に必ずいること、と。

 

 春は色鮮やかな花や草木、秋には燃えるような赤や黄色の葉っぱが、目印になる。どのあたりにいるのか、どこへ行けば以前たどり着いた場所へ向かえるのか。しかし冬は、葉の落ちて枝のむき出しになった裸の木も、どれも等しく雪をかぶった緑色の木も、良く見分けがつかない。おまけに雪は一夜で景色を変えてしまうこともある。もちろん足跡を辿るのはたやすいが、だから大丈夫だと油断していれば、獣たちによってかき消されたり、吹雪によって跡形もなく消されてしまったりする。

 

「梛い! 次どっち? 右? 左?」

「左! ……乙葉、あんまり遠くに行くなよ、分かんなくなるから!」

「大丈夫よお。あたしはあんたと違って、こんな景色見慣れてるんだから」

 

 乙葉は軽い足取りで梛の言葉に忠実に従いながら、ずんずんと進んで行ってしまう。梛はハラハラと心配そうにしている後ろの鈍い獣を無視しながら、歩みを早めた。

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