きみの傷跡はきれい

01

「……はあ……っまだ、いる」

 

 周辺に築かれたどの里からも等間隔くらいの割合ではなれた、孤立した場所にある村があった。梛(なぎ)の住む場所は、その村をさらに壁のように四方を囲む深い森の中であった。こうして冬の季節になると、丸裸になった木々か深緑が雪化粧している木かどちらかしか見分けがつかないものの、春や秋には豊かな色があちらこちらへ萌え出てくるのである。そうはいうものの広すぎて、どんな季節も気をぬくと迷ってしまいそうになるほど、静かで深い森なのだけど。

 

 生き物も声を潜め合う静かな季節だというのに、そんな季節に似合わない獣の唸り声を聴きながら、梛はもう何度目かわからないため息をついた。

 

(こっから、よく見えるなあ)

 

 眼前に広がる景色には雪の降り積もった木々の頭がちょこちょこと見えていて、とにかく見晴らしが良い。木の上へ登ってすぐに、枝に高く積み上がっていた雪は退けたものの、しっとりと冷たい枝の肌が原因なのか、徐々にからだが冷たくなっていくのを感じる。梛は現実逃避を取りやめてみて、遠くへ伸ばしていた視線を自分の真下にある地面へと見下ろす。分厚い雪のかかった野原では、飢えた獣が「おい、いい加減観念しておりてこい食ってやるから」といわんばかりに刃をむき出しにしている。

 

「……しつこい」

 

 こんなに寒いのだから冬眠していても良いというのに、久々に嗅いだ美味しそうなにおいに我慢が出来かねているのか、弱そうなものをいたぶって暴れたい欲望が抑えきれないのか、今日の猪たちはしつこいとひとりごちる。

 

 ちらりと向けた視線の先。四頭の立派な猪たちが(男の狩人だろうか?)木の下を派手に陣取っている。「ほら、降りるとしたらここっきゃないだろう、さっさと諦めな」という声が聞こえてきそうだ。

 

 もう数刻も、木に登る格好の餌と狩人たちによる膠着状態が続いている。

 

 追いかけられて逃げるのに必死だったせいで、木に登る時に引っかかってちぎれた着物の袖のことも、おもしろくない。森暮らしにとって、服はとても大切である。しかも、季節は冬の真っ只中。

 植物たちも見の縮むような環境だというのに、そのなかでポツンと成っている木の実を見つけてから、すこし経った。今日も木の実を拝借しようと思い立ったら、うっかり眠そうな猪と遭遇してしまい、逃げているうちになぜか木の上にいる。テリトリーの猪にしては、あまり見ない子たちではあったので、目が合った刹那嫌な予感はしていた。

 

 木によじ登った拍子に引っ掻いた腕から左肘にかけての切り傷が、乾燥した空気と当たってピリピリと痛む。しかし、だから家へ帰って手当てをしなければと思って木を降りたらもっと痛くなってしまう。

 

(困った……木の実食べちゃったし……)

 

 細い木の上でバランスをとるのも、夕方のまばゆい光が雪と反射するようなキラキラした景色も、いいかげん飽きて来た。しかし、しびれを切らしたのは梛だけではなかったらしい。

 

「……わっ! え、ちょっ! ちょ、ちょちょちょ……」

 

 ガサガサッと木の上が揺れて、慌てて太い幹の方を両手で押さえながら下を向くと、この状況を持て余した獣たちが額をぶつけるようにして木を大きく揺らしている。梛は落ちないようにバランスを取るが、幹はすっかり冷え切っていて、触れた手はあっという間にかじかんでいった。

 

 梛はもう何年もこの森と付き合っているのだから、何度かはこんなふうに、ご近所さんに追いかけ回されることはある。お腹すいた系だろうか、いじめたい系だろうか……落ちないように必死に目の前の木にすがりつきながら、ぎゅううっと目を瞑って考える。

 

(ああ、久しぶりにやばいかも……)

 

 そう思って空を仰いだ刹那、降り積もった雪の上を激しく4本足で蹴る音がどこからともなく聞こえてくる。ああ、と梛が安堵のため息をつくのとともに、威嚇するような鋭い獣の咆哮があたりに響いて、驚いた猪たちの攻撃がやむ。あっという間に激しい足音をすぐそこにまで響かせた正体が、四匹の猪たちの前に佇む。走ったのだろう、息が上がったまま、足元の雪と見紛うほどの白い巨体のそれが、激しい唸り声を轟かせた。梛が目を眇めてよく見ると、からだのところどころに、跳ねたようにキラキラとした雪がついている。よほど梛のことを探し回ったに違いなかった。

 

 真白いさらさらとした毛皮をまとった狼が、獲物を見定めるようにぐるると喉を鳴らす。厚い猪の体躯も噛み切るだろう、鋭い刃がちらりとのぞいた。

 

 四匹は仲間でいるというのに小さく見えつつある。見事な形勢逆転であった(梛は何もしていないのだけど)。猪たちは刃をむき出しににしたその獣と対峙しながら、徐々に、徐々に――梛のいる木からも後ろ足で後退していく。

 

 そしてついに――十分に距離を取れたという判断は一瞬で、まさしく脱兎のごとく、猪はその場を離れた。と、梛は思わず狼の背中へ声を飛ばす。

 

「ちょ、こら、しろ! 追わないで!」

 

 当然のごとく獲物を仕留めようとしたしろのそれは、野生の本能というべきか。しかしそれは困ると梛は思う。追いかけていってしまわれたら、またこの獣――しろを探す羽目になるのだから。

 

 梛の声に気づいたしろが、ピンと立った耳をぴくりと震わせてこちらを見上げる。先ほどまでの闘志が嘘のように、焦ったような仕草で梛のいる木の元へとやってくる。その姿でいればキリッとした目元はクールに違いないのであるが、長く垂れた尻尾だけが正直にパタパタと振られていた。

 

 真下まで来ると、白い巨体がゆっくりと形を変えて、今度は漆で塗ったような艶のある黒髪があらわれる。その変化を、梛はいつ間近に見てもおかしく思えてくるのだ。どうして人型と獣型で、髪の毛の色が違うのだろうかと。

 

 すこし前は美麗ということばがぴったりだったのに、最近では男らしく精悍になってきた顔立ちが心配そうに梛の顔を覗き込む。いずれにせよ、この狼は昔から平凡な人間の梛と比べてひどく端正な顔をしている。涼しげな切れ目は、しかし今は情けないほどへにょっとしたそれ、男前も台無しである。

 

「梛、遅くなった。……ごめん、大丈夫?」

「むしろ、来てくれてありがとう。よくここがわかったな、おまえ」

「わかるよ、梛のことなら」

 

 えっへんといわんばかりにカッコつけて言ってはいるものの、相当息を切らしていたことを考えると(その剣幕も手伝って、圧倒的に早く猪たちと睨み合いの決着がついたのだが……)探し回ったに違いない。

 

 ここ数ヶ月で、図体だけはでかくなってもしぶとく残っていた美少年っぽさを残す顔立ちも消え失せ、すっかり青年という風貌のしろが、木から滑るようにして降りた梛を軽々しくキャッチした。梛の小柄さでは、このからだはもはやぴくりともしない。

 

 そのまま降ろされると思いきや、梛の頬にぐいぐい自分の頬をすり寄せるようにして体温を確認してくる。

 

「梛、つめたい」

「おまえもね」

「俺は梛にさわると冷たいの感じるから、梛の方が冷たい。木の上は隙間から風が通るから。ね、梛、寒い?」

「大丈夫。ほら、おろしてって」

「だめ。怪我してる」

 

 出た、心配性。と、梛は思い切り嫌な顔をしてやる。

 しろは梛の顔など知らんぷりをして、目ざとく見つけたらしい腕のそれを凝視した。それから傷にさわらないようにそろそろと抱える。梛は子どものようにこの子どもに抱えられているのが恥ずかしくて暴れてみたけれど、ひ弱な人間というステータスに加えて、ひょろひょろと貧相な体つきの梛が、ひと睨みで野生の猪を散らす獣に敵うはずもないのであった。

 

 先ほどまで獣の王様のように、煌びやかに開いていた金色の目が、今は情けなそうに向けられている。おまけに眉まで垂れ下がっているのは、聞かずとも梛が怪我をしたゆえんである。

 

 しろは梛に傷がつくことをひどく嫌がる。それがどんなに小さなそれでも。

 昨晩降った新雪のせいか、さっくりとした、でも重たい雪を踏み分けながら、しろは歩き出す。

 

「下ろす気ないの?」

 

 いい加減ボロボロになった外套に身を包んだ梛と、同じようにボロボロの外套姿のしろが、帰る場所は一緒である。美しく端正な顔は心配そうに「だめ」と首を横に振ったので、梛は不本意ではあるが抵抗をやめておとなしくなる。顔だけは不満を丸出しにしたままで、しかし、無駄とわかっている争いはしない主義なのであった(こうなったしろが、意外にも頑固であることを知っているから)。

 

 おれが、子どもみたいじゃん。

 子どもはお前で、おれはお母さん。そうして家族をはじめたというのに。

 

「どうして俺に黙って外へ出たの?」

「近くだったし、おまえ眠そうだったから、良いかなって」

「そういうときは俺を起こして。約束したでしょ、ひとりで外に出ないって」

 

 そんなせりふは、昔まるまると柔らかくて小さかった、今の三分の一くらいのしろに言って聞かせていた、梛のものである。梛がいつもふたりでいなきゃと教えたではないかと責めるような目であるが……それはあくまで、しろがまだ幼くか弱かった頃の話であるから、こじつけも良いところだ。

 

 先ほどまで走り回っていたからか、くっついたしろのからだは服の上からでもわかるほどに熱っぽくて温かい。梛はこうして子どもみたいにされていることはひどく不服だったものの、心地よい胸板に頬を寄せた。

 

 寒い。

 あたり一面を雪が覆い尽くす凍えるような森の寒さは、古びた外套ひとつでは到底防ぎきれない。家に帰ったら、あの全身雪化粧したみたいな狼姿になってもらって、そのからだで存分に暖を取りたくなるけれど――。

 

「あ、そういえばあの子……乙葉はうちで待機?」

「うん、そう」

「……じゃあ、絶対家の前で降ろして。いつまでもおまえがお母さんっ子だって、思われたくないだろう?」

「俺は気にしない」

「気にしろよ、もう大人になるってんだから」

 

 あの子が家にいたら、獣姿のしろとふたりでぬくぬくなど到底叶わないに違いない。

 

 乙葉という名前が出た刹那、先ほどまで怒ったような素振りをしていたしろは、瞬く間によりいっそう期限を損ねる。言うことを聞きたくないと言わんばかりに視線をそらして、しろが独り言のような声で「俺、あの子苦手だもん」とどうしようもないことを言って退ける。子どもである。

 

 今日のような真白い雪がしんしんと積もっていた日に梛がしろを拾って、あっという間に四度の冬を過ごした。

 梛が両手で抱っこできるほどに小さかったからだは、まずあっという間にその背を抜くようにして縦に伸びていき、最近になってからはからだつきもどこか厚く、たくましくなった。それなのに、言うことを聞きたくないときの頑固さは変わらない。

 

 怒らなければならないのに――変わらないその様子がおかしくて、梛はつい口角をあげてしまう。

 

「梛がその顔をするの、絶対俺を子どもだって思っているときだ」

 

 しろにはなんでもお見通しらしい。

 

「だって、ほんとうのことだろう」

 

 自分の後ろをついて回って、いないときは肌が寂しく感じるほどにベタベタに甘えて、時折唇を尖らして機嫌を損ねる。子どものようなしろが、梛には愛しい。

 

 ――ある日、雪のなかに溶けて消えてしまいそうな小さなそれを見つけたときのことを思い出すと、梛はいつも、世界には神様がきっといて、運命と運命を上手に、そして時に残酷なかたちで引き合わせるのだろうと考えてしまう。

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