この気持ちの意味を知っている。

02

「おい」

「……」

「だーかーら、こっちこないで。おまえしつこいよ。怒るよ」

「……」

「あーもう。おまえわがまますぎ」

 

 寝室で横になれとベッドに押し込もうとしてくる時雨から逃げながら、時雨の後ろをふらふらしながらついていっていると、根負けした時雨が苛立ったように振り返って、あきのからだを抱き上げると、寝室引っ張ってきたブランケットであきをぐるぐる巻きにしてソファへ下ろした。わがまますぎ、の他にも、頑固とか人の気も知らないでとかブツブツ悪態をつきながらだったけれど、あきにさわる手はひどくやさしい。寝室へ自分を置いていこうとする時雨と、時雨の見えるソファで一緒にいたいあきとの我慢比べは、わずかに時雨の負けで終わる。

 

(ベッドにいったら、時雨が見えなくなっちゃう)

 

 せっかく2週間ぶりに会えたのだから、時雨のことがずっと見ていたいと思うのは当然のこと。時雨はそれをわかっていながら、ソファよりもベッドの方が回復は早いだろうと気を利かせてくれていたのだろうが、あきはその気遣いをフルシカトした。あきにとっては、一緒にいる時間に時雨と過ごせないことは、フラフラで学校にいけないよりもかなしいことだったけれど、そのことをいうのは恥ずかしくて憚られるので、口をつぐんだ。

 

 しかし、さすがにソファからも出て追いかけようとしたら、「これ以上は無理。ここでおとなしくしないならベッドに閉じ込める」と本気の顔で睨まれたので、お互いの妥協点と踏んでおとなしくコクリとうなずいた。付き合いの長いあきは、時雨の沸点ぎりぎりを攻めるのが最近上手になりつつある。ソファの端っこにこてんと頭を預けて、キッチンへ戻る時雨の背中を追う。

 

「おまえ、食欲あるの?」

 

 首を横に振ってから、あわてて聞こえるようにガラガラの声で「ない」といった。それがどんな小さく蚊の鳴くような声でも、時雨は決してあきの声を取りこぼしたりしない。

 

「わかった、食えそうなもの作るよ」

 

 ……なんだ、じゃあ聞かなければ良いというのに。

 

 あきは何もいわずに、キッチンで作業する時雨を羨ましげな表情で見つめる。ほんとうは今日の朝ごはんも、自分がつくるはずだった。サラダを切れる、パンも焼ける、卵焼きもまだちょっと形はいびつだけれど作れる。それを時雨に自慢して、頭をクシャクシャしてほしかったというのに。

 

(熱、きらい。どっかいけ)

 

 時雨から目を離して、もう何度も玄関をくぐった部屋を見つめる。あのバカみたいに広くてきれいなマンションから引っ越してから、もう一年が経とうとしている。部屋の風景も、どことなくかおる匂いも、すべてが時雨のものみたいに馴染んできた。

 

 あきの制服は、高校になって新しいブレザーになった。

 時雨の部屋には黒いノートパソコンが増えた。

 

 それでも不思議と、しずかでひっそりと落ち着いた部屋は変わらない。

 

「……良いにおい」

「はら減ってきた? とりあえずなんか入れた方が良いよ。体力消耗してるから」

 

 いつの間にかあったかい湯気のたったお椀を片手に近くまで来ていた時雨が、あきの寝そべっているからだを避けて、ソファへ浅く腰を下ろす。あきはなんとなく起き上がって、時雨の手元を覗き込む。

 

「スープ、おいしそうだね」

「食べるだろう?」

 

 ずるいやり口だ。時雨が作ったっていうなら、食べたいに決まっている。食欲などなかったけれど、あきはコクンとうなずいた。時雨はあきのサイズに合わたのか、小ぶりのスプーンと一緒にあきの手にそれを乗せる。

 

「こぼすなよ。あと、熱いよ」

「ん。いただきます」

「どーぞ」

 

 時雨がそっとお椀を放すのを見守ってから、すくなく入れられたそれをスプーンですくって口につける。火傷しない程度の温かさのままのそれが、口のなかにやさしく広がる。薄い味つけと、舌ざわりの良いさらさらとしたスープで、ポカポカと温かくなっていく気がした。

 

「……なに、その顔。悔しいって顔してる」

「料理は、ぼくの」

「あのねえ俺は飲食で働いてんの。結局ヘルプがなければキッチンだって入るわけ。家庭科部で同級生の乳臭い女の子たちにキャッキャいわれながらお菓子づくりしてるおまえとは違うの」

 

 最後の方は微妙にトゲがある言い方だったが、あきはいつもどおりその嫌味を嫌味として受け止めることなく、「ぼく、お菓子ちゃんとつくってる」となぜか自信満々にいってのける。時雨があからさまに毒気を抜かれたような表情になって、はいはいと苦笑した。子ども扱いされているようで、あきにとってすこし気に食わない言い方だ。

 

「おまえは最近なにつくったの」

「ん……えっと、アップルパイ」

「さすが女の子の巣窟だね。高校生かあ、パイシート使ってないだろうな」

「パイシート? 薄力粉使ったよ」

「ふうん。本格的だね」

「スープ、おいしい」

「全部食える?」

「うん」

 

 結局あきは、時間を掛けてお椀いっぱい分のスープをたいらげた。それは時雨の片手に収まるくらいの小さなうつわに半分入るような量だったけれど、時雨は「えらい」とあきを褒めて、食器を取り上げると洗いにいってしまう。

 手伝おうとしたけれど、ここにいろ、と案の定くぎを刺された。あきは渡されたマスクをつけて、おとなしく横になる。

 

 冬に進路を決める場になり、料理を学べる学校に行きたいと伝えたあきに対して「普通科にいけ」と勧めたのは他でもない時雨だった。普通科など考えてもいなかったし、城田と一心不乱になって近くの学校を探していたあきは、その提案が最初は受け入れられなかった。時雨にしてみれば、あきはたまたま自分の存在意義を見つけるためのひとつが料理だっただけ。だからこそ、早熟で狭い進路決定は許さなかった。

 

 しかし、あきにしてみれば、反対の理由などわかるはずもなく。今勉強して、すぐに料理が出来るようになりたい。

 

 そう楯突いてみたけれど、時雨は自分の考えを覆すことをせず、言い合いになったところで時雨がやけになって放った「じゃあ家庭科部でも入ればいいだろう。毎日放課後料理できんだから」という一言で、戦争はあっけなく収束した。

 

 同じ高校に入学してから、城田とはいっときクラスも部活も別になったけれど、なぜか6月も終わりにさしかかっている今、城田は自分の選んだ卓球部とあきの在籍する家庭科部を兼部していた。だから、部活に行けばすぐに会える。

 

 最初こそ(やや小柄で頼りない様子ではあるが)見目麗しいあきの存在はまわりの女の子にとって憧れであり、注目の存在であったが、ボロはすぐに出た。何をしてもトロくて不器用で抜けているあきが、クラスや部活の女の子たちにとって恋人候補対象から保護対象へと変わるまでは一ヶ月と掛からなかった。

 

 あきが知っているのは、城田がいつの間にか家庭科部に顔を出すことになったというところだけである。危ういあきの様子を見かねた女の子たちが城田をお目付け役にしたこと、城田がその立場のおかげで女の子からお呼びが掛かることに、これまで体感し得なかった小さな喜びを見出していることなどは、もちろん知る由もない。

 

 キュ、と蛇口の水を止めた時雨が、視界の端にあったパソコンを持ってあきのそばへくる。さっきみたいにあきのそばで浅く腰掛けると、慣れた手つきでパソコンを起動した。この黒々としたパソコンがこの家へ訪れたとき、時雨はそれをいやなものでも見るような眼差しで一瞥したが、一方のあきは興味深々でさわってみたりした。時雨はすこしずつ操作を覚えて、キーボードを叩く手つきは日々早くなっていって、代わりにあきのそれに対する興味はどんどん失われていき、しまいにはその存在が自分と時雨との時間を遮るにくたらしいものへと変わったのであった。

 

「眠かったら、寝ていいよ」

「ねむくない」

「嘘。体力ないから、眠いと思うけど。体調戻らなかったら、明日休んで病院行きな」

 

 今のあきには、普通に保険証があるし、病院に掛かってもへんなふうに見られないから。

 うなずいて、手持ち無沙汰になった片手で時雨の腕に文字を書く。話せるようになっても、不思議と、時雨にはあの話し方でも伝わるから。

 

『つまらない』

『いっしょにいるのに』

『なんでパソコン』

「仕事があるんだよ」

『今日はやすみって』

 

 屁理屈いうなと時雨がいう。なにが屁理屈だ、なにもへんなこといっていないのに。

 

 静かなあたりで、時雨が一定のリズムでパソコンを操作する音と、ざあざあと斜めに降りしきっているだろう雨が窓を叩いている音とが合わさる。心地よい音があきをまどろみに誘っていく。

 

(寝たら、すこしで終わる。今日帰らなければいけないのに)

 

 落ちそうになるまぶたに、そうさせまいと力を入れながらあきはぼんやりと考える。

 

 だって2週間、時雨のことを待っていた。

 

 頭がぼうっとするこの感覚を、あきは狭くて古くてほこりの匂いのするお母さんの家で、何度か味わったことがある。のどがヒリヒリして、からだが熱くて、喉が乾いて、もう死んでしまうのかもしれないというような感覚。

 

 みず。

 

 そう呟くと、こちらを向いていないはずの時雨がおもむろに立ち上がり、冷蔵庫から水を持ってきてくれる。受け取ってすこしだけ口に含むと、じわりとからだに水分が伝わっていく感覚がした。

 

 あのときと同じ。めまいがするし、からだが熱いというのに、ぼくの声を聞いてくれるひとがいる。あきは受け取ったペットボトルをキッチンに戻しにいく大きな背中を目で追いながら、不思議な気持ちになった。

 

 放っておかれた時雨のパソコンが床に無造作におかれているのを見て、なんとなく、勝った、と思う。戻ってきた時雨が座るのと同時に、まるでそれが癖になっているみたいに、あきの頭をくしゃくしゃにかき混ぜる。肌にすこし当たった時雨のからだは、水みたいに冷たくて気持ち良い。

 

「……なにちょっとにやけてんのおまえ。からだ、辛くない?」

 

 あ。また、負けた。

 

 時雨がパソコンを手元に戻すのを見て、落胆する。あきはいもむしのようにからだをねじって、後ろから時雨へとぴったりからだをくっつける。

 

「まだ欲しいものあるの?」

 

 振り返った時雨と目が合う。

 

 こうしてそばにいられるのは、だいたい2週間に一度だけ。刑事事件になって表に出たあきの周辺とあきを取り巻く環境は、本人が拙い頭で想定していた以上に複雑で、そのせいか、四六時中時雨と一緒にいることは今でもかなわない。

 

(これでも、すこしずつ、一緒にいられる時間は多くなったけど)

 

 一緒にいすぎることで、おとなである時雨を迎え撃つ訝しげな視線が鋭くなっていくことを、あきはもう知っている。時雨との関係が公に広まってはいけない、そばにいることがだれとそうするよりも心地よいこと、時雨をすきということを、知られてはいけない。あきが世間にとって分別のつかない子どもでいるうちは。

 

 早くおとなになりたいのと、まだ、わがままで時雨を困らせたいので、あきは悩む。

 

「珍しくベタベタするね」

 

 時雨の背中にくっつくと、すきなにおいがする。

 

「今日、帰るんだよ」

「知ってる。明日学校だからね、おまえ」

「時雨、キス、したい」

 

 わがままをいったら、時雨は「わがまま」と怒ったり呆れたりするけれど、まるでこたえるように振り向くのだから。

 

「わがまま」

 

 振り返ると同時に顔をしかめた時雨が、パソコンをゆっくりと閉じる。勝った、と、ふたたび思う。

 早く、というように、袖をぐいぐいと引っ張ると、時雨が「おまえ、風邪って移るの知ってる?」といいながら、ブランケットでぐるぐる巻きになったあきに覆いかぶさる。

 

 上がる熱と、目の前の時雨のせいで、からだが熱いのに、離れたくない。

 時雨の長い指先が、あきの耳に引っかかっていたマスクを取る。

 

 近くに時雨がいるのは、いつもドキドキした。時雨があきの頬をたしかめるようにペタペタさわって、なぜか自分に言い聞かせるように「熱いな」と呟く。あきは至近距離でなにやらへんな顔をしている時雨を見上げて、首を傾げた。

 

「風邪が移るのは、いやだ?」

「まあ、それもそうなんだけど。……止まんなくなったらひどいと思って」

 

 あきはその意味を思案したあと、合点がいったというように首を横に振った。

 

「それは、止まって」

 

 さすがにからだがだるいのである。

 キスは良いけど、それ以上はするなと。あっけらかんとした非情な物言いにも、時雨はおとなな顔つきで、小さな顔に自分のくちびるを近づけた。

 

「知らん、煽られたからね」

 

 くちびるを開いて抗議しようとしたけれど、時雨のキスでかき消される。結局あきは、今日一日はやさしくすると決め込んだ時雨を安易に“煽った”ことを、ちょっぴり後悔することになった。時雨のからだが自分と同じくらい熱くなって、余裕がなくなって、自分をかき抱く腕やさわるてのひらがすこし乱暴になって。熱っぽいあきの頭が、さらにぼうっとして、……これが終わったらまたどっとからだは辛くなるのだろう。

 

 それでもあきは、時雨の背中にぎゅうっと腕を回して、熱くて心地よい体温を味わう。

 

(でも、くっついて、一緒にいることが心地よいのは)

 

 そばにいることのしあわせも、離れていることの心が切り裂かれるような痛みも、知っている。これは当たり前ではなくて、特別だということ。

 

 時雨。

 

 体温が混じり合ったそのからだに両腕を巻きつけながら、心ではそんなふうに、静かに思う。

 

この気持ちの意味を知っている。 (だって、あきは何が愛おしいという気持ちかを、もう知っているのだから)
Fin.

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