君についた幾つかの嘘について。
佐野理人はまた嘘をつく。
21
ひどく鳴りやまない電話の音がしていた。ひどい眠気がすう、と引いていき、携帯を取ろうと手を伸ばしたら、自分がなにかとてもあたたかいものと触れ合っていることに気づく。
目を開くと、寝起きには痛いほどの、まばゆい輝き。まるで天使が降り立ったあとみたいな白さに目を眇めた。
それは、東京の街並みを覆った雪を反射した陽の光だった。昨日備えつけのカーテンを開けっ放しにして眠ったせいで、遮断されることのない爛々とした日差しが、雪の力を借りて僕とこの子――雪路を照らす。
腕のしびれ、あたたかい体温、そして驚くほど近くで無防備に穏やかな吐息を繰り返す雪路。今日までよほど精神的に疲弊していたのか、その瞼は深く沈んでいた。
積もった雪の陽に照らされた雪路の姿は、まるで昨日のことのように思い出せる、産まれたあの日の姿のように真っ白できれいだ。
なにも恥ずかしがることはないと、いやいやする雪路を説き伏せて一緒に眠ったときは、僕のそばにいながらも背を向けていたのに、気づいたらこちらを向いている。いついたずらされるかわからないというのに、無防備な寝顔め。……こんなのを見ていると、ほんとうの意味でこの子がおとなになるのは、もうすこし先なのかもしれないと思う。
(いたずらとかなんだとか考える僕の方が、汚れているのかもしれないんだけど)
枕元では出るまでは許さないといわんばかりにさっきから鳴り続ける携帯。仕方なく通話へと画面をスライドさせる。
――表示された番号は、登録こそしていなかったものの、まだかたちの違う携帯だったときに登録されていた、よく知ったものだった。十一桁の数字は機械的でわかりにくいはずなのに、何度も見慣れたものだと、記憶が風化してもなかなか頭からすっぽりとはなくならないもの。
「……まずお礼をいわなきゃかな」
『はいはい。その様子だとうまくいってご機嫌気分上々ですかね』
十年以上前と変わらない抑揚のつかめないトーンに、残雪のようななつかしさが沁みる。
「そうだね。上手くいったのか、いっていないのか、そんな感じだよ。しっかりほんとうのことも伝えたしね」
『はあ……で、どこまでを? 雅貴のこと?』
電話越しに会話するのは何年ぶりになるのか――そのくらい交友が途絶えていたはずなのに、まるで昨日会った友達に忘れ物を報告するような気軽さ。そういう水原の振る舞いが、気だるく面倒だった以前の僕の世界には、妙に心地がよかった。
とはいえ今はすべてが変わってしまったけれど。
夢の中になにか怖いものが出てきているのか、すこしだけ眉を寄せた雪路が、もぞもぞと僕の胸に吸いつくように移動してくる。いもむしみたいな動きであたたかいものが胸の中訪れたとき、心の中を占拠したのは、ひどく満ち足りたしあわせな気持ちとひとかけらの不安。
「そうだね。雅貴が僕の兄だということ。今まで、この子は父親の存在を感じたことがなかったから」
『あそ。で、おまえがその兄の拾いもんで、そもそも兄と血が繋がっていないから、雪路との血の繋がりはまじでほんとう一切ないっていうのは、しっかりカミングアウトしたわけ?』
「それはまだ」
『で、また嘘ついたわけね』
「いっぺんに真実を話すのは、今の雪路にとっていいことじゃないんだよ」
『砂を吐くほど甘いね。いつからそんなんなっちゃったの』
ま、いいけど。そういって、あっさりと電話は切れた。さようならとか、またねとか、じゃあな、とか、そういう挨拶は一切ない。一切ないからといって数日後に連絡がくるわけではないかもしれないし、すぐにくだらない理由で連絡がくるかもしれない。彼の行動はいつでも自由。
通話終了画面をそのままにしたまま、携帯を片手に雪路を見下ろす。雪路の規則正しい吐息が、胸をくすぐる。
引っついてきたおまえが悪いんだよ、と、その体に腕を回してゆるく引き寄せた。昨日の恥ずかしがり屋さんが嘘みたいに、それは僕のからだにはまるように従順だった。
まだきっと、僕に対する雪路の心は、家族が半分と恋人が半分だ。ばかみたいにおまえのことしか考えていない悪いおとなの元で、かわいい寝顔をあけすけにして眠っていられるのだから、まず警戒心がないというのだ。
それでも起きたら、ちょっとは狼狽えてほしい。顔を真っ赤に染めて、なんで抱きしめてるのって、怒ってほしい。
もうすこし、家族をしてあげよう。そのためにまた、僕は雪路に嘘をついた。
――ほんとうは、真冬のことも産まれてくるおまえのこともどうだってよかったんだ。僕はただ、幼い頃僕を拾ってくれた兄さんから押しつけられた、最後の頼まれごとを遂行していただけ。とても大切だった兄さんをなくしてしまった、癒されない空虚な心を持て余しながら。
ほんとうに血の繋がりがないということは、この子はまだ知らなくていい。
んう、というかわいい唸り声は、雪路の返事だろうか。
そろそろ目が醒める頃かもしれない。だけど、この子が自力で起きるまであどけない寝顔を見ていようか。チェックアウトには、まだ時間がある。……起きて、僕に寝顔をさらしてしまったことに焦るきみを見たい。
まどろみの中にいるような、あたたかいお湯に浸っているような、やさしいしあわせ。そしてきみが一歩おとなになってしまったことへの、漠然とした不安。
この手の中にいた子どもは恋を知ってしまった。
いつかこの子は心もからだも完全におとなになって恋の深みにはまってしまうかもしれない、しあわせだけじゃなくて辛くて苦しくて怒りの湧き上がるような想いをしてしまうかもしれない。
――だれか、違うひとをしあわせにしたいと心が移ろっていくかもしれない。
「雪路」
一歩、また一歩、きみはおとなになっていく。
だけど、そんなに急がなくていいんだよ。急いて一晩で世界を白に染める雪みたいに、変わってほしくない。だから、きみの心がなるべくゆるやかにおとなになるように、僕は嘘をついている。
雪路の頬に触れ、髪を撫でた。それはひどく甘く、僕の手の中に馴染む。
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