君についた幾つかの嘘について。

3話 佐野雪路はすこしおとなになる。

19

 鎌倉の家とは打って変わった、整えられた二つのベッドの並ぶ洋室。細かい玉露の乗るガラス張りになった窓からは、昼間よりもやや弱まりはじめた雪が、未だにこのホテルの一室から漏れる光に照らされていた。


 内側に籠った水滴を拭うみたいに冷たいガラスを撫でていると、いつの間にかさっきまで耳の奥で流れていたシャワーの音がやんでいて、髪を濡らした理人がそばへきている。

 

 いつもよりもぺたっとした髪の毛、女のひとにモテそうにない、お風呂上がりの無防備な理人。

 

「あがったよ」
「ん。……理人寒かったのに、おれ、先に浴びてごめんなさい」
「おまえに風邪を引かれる方が厄介だからね」

 

 文字通り東京駅で水原に置いていかれてからの理人の行動は早かった。まだあまり状況の読めていないおれを引きずるようにどこかへ連れ立って、その辺のビジネスホテルに入ってとっとと空きの部屋を見つけ、一泊分を取った。……雪の影響で安いところは狙われていると思ったからあらかじめ高めのところに行ったんだって。カードを切りながら、理人がいつもみたいに笑ったけれど、どこかへたくそな気がした。

 

 おれの方はこのままふたりきりで電車が復旧するのを待つことになるだと戦々恐々としていたから、泊まることになってふうひと安心、――……と思ったけれど、当たり前のように一部屋を取られて、結局ふたりきりではないかと我に返った。

 

 たぶん、おれ、この方が爆発する。

 

(お、落ち着け。一緒に寝たこといっぱいあるし。今更こんなドキドキしたなんて、理人に絶対に知られちゃいけない……落ち着け落ち着け)

 

 理人に先にお風呂に入るよういわれてシャワーを浴びながら、たぶん今日も何百回も頭の中で繰り返していたのだけど、心がざわざわして全然落ち着かない。

 

 気をまぎれさせるために視線を向けた窓の外の雪にも、知らない景色だらけだったから逆にますます気がそぞろになってしまい、あまり効果はなかった。

 

「び、ビジネスホテル、はじめて入った」
「ドキドキした? 仕事のひとが入るところだからね」
「ん。した」

 

 ――理人のせいで、ドキドキしてるよ。はじめてのビジネスホテルなんてオプション、どこか行っちゃうくらい。

 

 整えられたふわふわのベッドの端に浅く座って、これからどうしようか、もういっそ寝てしまおうかと作戦を練る。そうしていると、とん、と隣の隣が深く沈んだ。真白いバスタオルを背負ったままの理人が、いつの間にかおれの横に腰掛けている。

 

 な、なんで?

 

(部屋、広いのに、ベッドもうひとつあるのに、おれの隣……)

 

 自分の顔が、熟れたりんごのようにあかくなるのがわかる。シャワー浴びてからすこし経っていた。ちょうどよい室温に合わせて体温は下がっているはずなのに、理人がそばにきただけでまた熱っぽく上昇する。左の太ももは、くっつくかくっつかないかギリギリの位置。膝の上に置いていた手をぎゅっと握りしめた。こんな位置にいたら、緊張しているのがすぐにバレてしまいそう。

 

 今までどうして理人と普通の状態でいられたんだろう。今すぐ昔のおれの元にタイムスリップして、レクチャーしてもらいたいくらい。心臓がうるさい。――息苦しさで、窒息しそう。

 

「お、おれ、飲み物……っ」

 

 取ってくる、そういうやいなや立ち上がった。いたたまれなくて、居心地が悪くて。だけどまるで予測していたみたいに手を取られて、引き寄せられる。

 

「また、逃げる」

 

 心臓が大きくきしむ。掴まれた手はそこから火が出てしまいそうなほどにあつい。座る理人の前に立たされるように、強引に向き合わせられる。小さい頃、悪いことをしたおれを諌めたり、困ったことになっているおれを慰めたりするときに、理人はこうして正面からおれを見た。

 

 理人が座っているせいで、うつむいたままでも、下から覗き込まれるせいで目が合ってしまう。なかば無理やり視線を絡めて、おかしそうに、すこし照れたように笑われる。

 

「こうして近くにいるのは久しぶりだねえ」

 

 それはいつもと変わらない、おれをこたつに引っ張るときのいたずらっぽい理人で、無性に泣きたくなる。

 

「そうかな。……毎日、会ってたよ」
「でも、ゆきが僕を避けるから、ね」
「さ、さけてないよ」

「避けてる。ほら、こうやって今も、ちょっとずつ安全に距離を取ろうって、避けてるよ。それにおまえ、いつも話したくないことから逃げようとするときは、僕と目を合わせない癖があるからね」

 

 そのたびにこうして、お話をしてきたんだけどね。

 

 そういわれて、記憶の糸が、まだおれがころんとしていた昔に戻っていく。保育園にいきたくなかったとき、学校でいやなことがあったとき、友達と喧嘩したとき、……自分が話したくないことだったはずなのに、いつの間にか理人によって開かれていた。こうして両の手を捕まえて、座った理人は何度も向き合いながら、棒立ちになったおれはゆっくりと時間をかけて自分の気持ちをぽろぽろ吐露するのだ。……昔から。

 

「丸っこくて小さい頃から、ゆきの悪いところは変わらないね」

 

 そんな悪い子には……、理人の目がいたずらっぽく光って、次の瞬間その手がからだにぴたりとくっついて不審な動きをする――。これは、知っている。逃げようとしたけれどもう遅い。

 

「わ、あ……ま、待って待って!」

 

 蜘蛛の巣に引っかかった虫みたいに暴れて本気で離れようとするが、張られた理人の罠はどうにもならない。背を向けたおれを捕まえて、小さい子にするみたいにからだをくすぐられる。あはは、という笑い声と、無意識に膜を張る涙の線と、バタバタと無駄な抵抗をする手足。

 

「やだ、……やだやだって! 理人、あはは……っ、ちょっ!」
「やだからするんだよ」

 

 暴れた分だけからめとられて、きらいなところをピンポイントできれいな指が這う。おれのいやなポイントを全部わかっている、とでもいうように。理人のくすぐりには、昔から弱い。

 

「もー……すぐ、そうやっていじわる……!」

 

 くすぐったくてもからだをよじってもどうにもならなくて、からだから力が抜けて――ぐい、と逃げようと背を向けていたからだを引き寄せられて、次の瞬間にはベッドに引き戻される。

 

 笑い転げて荒い息をついたまま、我に返る。

 

「……っ」

 

 さっきまでおれが座っていた場所じゃなくて、理人の――。

 

「ほんとに、捕まえた」

 

 からだをくぐるようにして交錯している手のせいで、理人の温かいおなかに、背中がぴたりとくっついた。有無をいわさない両手がおれのからだをホールドしたまま、足の間に座らせられたせいで、背中が燃えるように熱い。さっきまできらいなくすぐりから逃げようとしていたせいでどこかへ吹っ飛んで行っていた恥ずかしい気持ちが、むくむくと戻ってくる。

 

「だ、だました」
「罠に引っかかるおまえが悪いよ」
「はなして」

「いやだよ、諦めなさい。こら、――ゆき」

 

 理人の、まだ湿り気を残した髪の毛が、おれの髪の毛にかかっている。ヘンなの。いつもぎゅうってするの、おれの方なのに。今日は理人ばっかりこうしてくっつきたがる。

 

(おれがいなくて、さみしかった?)

 

 最近理人と顔を合わせないようにしていた。理人はなにもいわないけれど、そう思ってくれていたのならうれしい。だけど、恥ずかしい。

 

 ……だって、おれだけが理人に抱いちゃいけない気持ちを持ってしまったから、こんなことされたらいやだ。くっついたからだから心臓の音が漏れ聞こえたらどうしよう。そう思うのに、からだごと震えるくらい心臓が暴れるのが、止まらない。

 

「いつから水原と会うようになったの」
「え、えと……水原、……理人の昔の知り合いだって」
「聞いてるの、僕なんだけど」

 

 話そらすの、失敗。あからさますぎてしまった。

 

 今日の理人は厳しい。甘やかしモードの理人は、おれがいいたくないことに気づいて目を瞑ってくれるのに。それにこの体勢、理人に顔を見られないのはうれしいけど、声が近くて、落ち着かない。

 

 今までどうやって理人とくっついていたのか、思い出せない。いたたまれなさに、口を開いた。

 

「……水原、教えてくれたんだ」
「何を?」

 

 からだに、力が入る。躊躇して、口を開いた。

 

「おれと理人、きょうだいじゃないって……」

 

 うん、と理人がやさしくいった。そして、おれの髪を、いたわるようにくしゃっと撫でた。

 

「そうだよ。――隠していて、ごめんね」
「……っ」

 

 もう、理人は嘘をつかなかった。そのことばに安堵すると同時に、悲しさが押し寄せてくる。やっぱりきょうだいじゃなかった、嘘つきの家族だった。

 

「おまえの父親の存在は聞いた?」
「……お、とうさん?」
「そう。真冬の夫、おまえの父親――佐野雅貴」

 

 さの、まさたか。

 

 なにかとても、大切な名前をもらった気がして、その名前を何度も心の中で反芻する。その様子だと水原は教えてくれなかったね、ひどいなあって、クスクスと後ろで穏やかに笑う声がする。

 

「大きくなったら、話そうと思っていた。今から僕が話すことが、ほんとうの真実だよ」

 

 顔を上げたおれに、理人がやさしく目配せをした。そして、また包み込むようにぎゅうっと抱きしめてくれた。

 

 理人は「ゆきはすこし、おとなになったからね」と前置きして、お母さんとお母さんに恋をしたひと、水原のことと自分のことを、まるでひとつの物語みたいに聞かせてくれた。

 

「真冬はね、天涯孤独っていうことばがよく当てはまった。真冬に恋をした僕の兄も、またすこしだけ孤独だった。惹かれてしまったのにも無理はないと思う」

 

 お父さんの話を聞くのは、はじめてだった。
 小さなころから漠然とあったのは、まだ丸く人形みたいなおれと、その傍らにはお母さんと理人。だけどそこに、理人と似た何か他のものが、突如として理人の隣に茫洋と浮かび上がったような気がした。

 

「僕の兄に、両親はいないも同然だった。だから兄が交通事故で死んでも、おなかに子どもを抱えて残された真冬は自分の手でおまえを産んで育てるしかなかった。僕は真冬のことを、しばらくはどうしてこんなひとを兄はすきだったんだろうって思いながらも兄に代わって面倒を見たよ、それが兄の最後の願いだったから」

「大学、中退までして?」
「それは聞いたんだね、水原は話すところが偏っている。そうだよ、でも大学の中退自体はそんなに名残惜しくなかったよ、元々なんで行ってるんだって思っていたしね。でも、さっきもいった通り兄の願いを聞き入れて真冬の世話をするようになっても、僕にはどうでもよかった。僕はその頃、ひとよりもずっと心が冷めていてね」

 

 理人の心が冷めているなんて、おかしなことをいう。理人はいつもあったかくてやさしいのに。そう口にしたら、それはおまえが今の僕しか知らないからだよって笑われた。昔の理人は今よりもスレた青年だったんだって。

 

「でもね」

 

 理人の大きな手が、後ろからたしかめるようにおれの頬を撫でた。

 

「でもね、おまえが産まれたんだよ、ゆき」
「おれ?」
「そう。かわいくて仕方がなかった、おまえが僕の冷めきった姿を知らないのは、産まれた瞬間僕の冷めていた心が和らいだからだよ。小さな小さなおまえを見て、この子に会うために僕はこの道を歩んできたとさえ思ったんだ。とにかく、きれいだった。そういうことだから、僕の心が冷めきっていた時期なんて、おまえは知らなくて当然なんだ」

 

 理人はよく、おれが産まれた日の話をしてくれた。出産には立ち会わなかったのだけど、ちょっと見ないくらいの大雪が降った日だったから、どんな子が産まれるのかと思っていたのだと。いざ産まれたら次の日はピカピカの快晴で、目が痛いくらいあたりの雪景色がキラキラ輝いていたって。

 

 そんな話をするとき、理人はいつもやさしかった。

 

「僕たちはほんとうのきょうだいじゃない。だけど、僕の兄がおまえと僕をわずかに繋いでいる。たぶん、水原も嘘つきだから、教えてくれなかったと思うけど」

「……っ」

 

 じんわりと、からだに温かいものが広がる。まぎれもない、安堵。

 

 ずっと、もう、“他人”なのだと思っていた。血の繋がりなんてひとかけらもないのだと。だけど違った、もっと遠いところでおれと理人が繋がっていた。

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