君についた幾つかの嘘について。
3話 佐野雪路はすこしおとなになる。
17
「い……――おい」
気づいたら、目の前には呆れたような水原の姿。飄々とした腕が、真っ直ぐ開いていた電車のドアへと伸びる。
「この駅ね。……さっさとしないと閉まるよ」
プシュー、という、横須賀線よりもはるかにけたたましい扉の音に、金縛りから解けたからだは慌てて立ち上がった。
駆け込み下車同然で飛び降りた駅は、既にさっきから激しさを増す真っ白の雪にすっぽりと身を包んでいる。振り返るようにしてその電車を見てはじめて、あ、と気づく。
横須賀線よりも圧倒的に短い、おもちゃみたいな小さな黄色い電車。ガラガラと年中空いているようなかたい席と、まるで需要のない観光案内のアナウンス。
外が雪化粧をしはじめていたから、この場所へ何度か足を運んでいたことに、気づくのが遅くなってしまった。
どんな説明もする気がないらしい水原は、何食わぬ表情で前を歩きはじめる。でも、どうして、なんで、このひとがおれをここに連れてくるのだろう。
どうしてこの場所を知っているのだろう。
たまたま不在なのか、滅多に常駐しないのか。駅員の代わりに置かれているさびついたハコにきっぷを投げ捨てるようにして、水原はさっそうと出口へ向かう。分厚いドアとカーテンに覆われた閉め切りの事務所を横目に、さびれた改札を通った
(改札、というのかどうかも分からない)。
(雪予報って知っていたのに、傘、持ってこなかったな)
鞄から出した水色の傘を片手に駅を出る背中を、コートのフードを被って追う。屋根がなくなると、しゃり、という新雪と足先へ響く冷たさに、からだが震えた。
「あいつおまえとの生活守るために働きまくってるだろ。……連れて行ってもらってないんじゃないの」
いちいちおれを傷つけるような、いやないい方。でも、ほんとうにそうだ。東京の端っこに埋められたせいか、おれはあまり頻繁に――お母さんに会えていない。
「ねえ」
おれを産んで、おれを愛してくれたお母さんの眠る場所。
「どうして――……水原はお母さんのお墓を知っているの?」
雪を踏みわけて進む水原から、沈黙だけが帰ってくる。
白く染まったそこは、すごく昔に夏にきたときよりも色濃いさみしさを漂わせていた。積もりはじめた雪におれと水原だけの足跡が重なっていく。きっと、帰るときには別の新しい雪が足跡を覆ってしまっているかもしれない。
水原が向かうのは、たしかにお母さんの眠る場所だった。
おれがこの世にくる前――天涯孤独のお母さんと、お母さんと共にいた理人と、その理人と恋人同士だったという水原。それは、どんな事実を示すのか、まだパズルのピースが足りない。
駅から5分歩いた人気のない小さな墓地に、お母さんはいる。水原はお母さんの場所まで迷いなく進んでいた。
「雪、被ったな。真冬なんて名前だから、寒くねえだろ」
小さく整えられたお母さんの前で、そういいながら、水原はあたりの雪を手で払った。手袋をしていなかったからか、その手はあっという間に赤くかじかんでいく。
なにかいおうと吐き出した息が冷たく曇った。
さっきまでただ一直線に地面を目指すような激しい雪は止んで、代わりにあたりを漂うようにふわふわとした粉雪が舞っている。手袋でフードを探ると、かすかに積もっている。
「真冬って女はさ、どんなやつだった」
不意に、祈ることもせずぼんやりとそこを見つめたままの水原が、ぼそっといった。
今、どんな表情をしているのだろう。……均整の取れた細長い背中は、なにひとつ語らない。
「えっとね、やさしかったよ」
お母さんを思い出すのは、埃をかぶったアルバムをぼんやりと眺めるみたいな感覚だった。おれを抱きしめてくれたお母さんの記憶は、既にセピアに色彩を欠いている。
「あっそ」
「ねえ、おれお母さんに似てる?」
「顔はあんまわからない。真冬をあんまり見たことないからね。……雰囲気は、そっくりだな。あいつもそう思っているはずだ」
理人。遠く感じるようになってしまったその存在は、小さなころからお母さんの代わりだった。顔もぬくもりも知らないお父さんの代わりでもあった。今はどうだろう。
静かな沈黙ののち、急に――無理矢理に押し込んでいたはずの感情が、目の前を散っていく雪にまぎれて波のように押し寄せてきた。水原の細い背中と、お母さんのお墓と、つめたい雪の景色がないまぜになって、それまで押し込んでいたことばが口をついて出た。
だって、おれはとっくに知っている。
「水原。おれ、ほんとうは……理人と血なんて繋がってないって知ってた……」
血の繋がりなんて、ほんとうはあったってなくったってどうでもいい。だけど、それが理人と一緒にいられる理由なら、おれはそれを求めていた。理人に兄を求めていた。――それはつまり、ほんとうのおれはただ理人と一緒にいる理由がほしかっただけだ。
これは、なに?
――お互いすきだったのね。大学で知り合った僕たちはデートして手を繋いでキスをしてセックスしていたってわけ。
自分がきょうだいでない理人となぜ一緒にいたいのか。なぜあのことばに愕然としたのか。その答えを拾おうとしたとき、今まで考えたこともなかったひとつの仮説があまりにも驚き呆れるもので、思わずしゃがみ込んだ。踏みつけたやわらかい雪の感触が足の裏から伝わる、同時にいたみはじめた胸をぎゅっと掴む。
理人と一緒にいたいという気持ち。血の繋がりなんてほんとうはどうでもいいという気持ち。理人が昔目の前の美しい男を愛していたこと。あの夜――おれを撫でた手が、昔は水原のものだったこと。それがひどく気持ち悪いこと。
「なに、どうしたの」
水原が、それまでのパーソナルスペースを超えて、おれの目の前にしゃがんだのが、差しかかる影でわかった。
「お、おれ……っ」
でも、だって、こんなのありえない。
「最近理人といると、あったかいだけじゃなくて、いやな気持ちになることがある……っ」
おれは先生に恋をしているはずだ。
今だって先生に会いたくなる。そばに寄り添って、ずっと一緒にいたいって思える。それに、なにより先生のそばにいると心が穏やかになる。こんなのはじめてだって――、その瞬間先生に恋に落ちていたのだと思う。
「我儘になるし、……ひどいこと考える……っ」
だけど、一方で理人に抱く感情は先生とのそれとは違う。愛莉ちゃんと結婚してほしくない、それどころかこの先のどんな女のひととも結婚せずにおれとずっと一緒にいられれば他はどうでもいいって、最悪なことも考えた。理人の将来や幸せなんかわき目もふらずに。
きっとおれは、たとえば先生がだれかのものであることを諦めることができている。
だけど、理人がだれかのものになったら、耐えられない。
頭に積もりはじめていた雪がいつの間にかなくなっていることに気づく。瞑っていた目を開くと同時に顔を上げると、目の前の水原には雪が降っていて、シンプルな水色の傘はおれに傾けられている。
「それってさ、恋をしていたら当たり前の感情なんじゃないの?」
なに、当たり前のことをいっているんだ。そんな風にいわんばかりの軽いことばが耳に届いた刹那、すべてのことがわかってしまった。
いつだろうか、スターバックスで席を挟んで対峙していたときとは比べものにならないほど近くにいた水原には、(今更気づいたの、やっぱり馬鹿だ)ってからかいの表情と、どこか傷ついたような表情がまじりあっていた。
「どうしよう……」
ぽた。ぽた。
氷のような空気をあっという間に溶かすようなそれが、頬を流れた。
「お、おれ、理人のことすきなのかもしれない……っ、どうしよう……っ」
先生に抱くぽかぽかした春の陽気みたいなそれとは、全然違う。獰猛で、やさしくない感情のこの正体が、ほんとうの恋なのだろうか。
水原はただ黙って、おれに傘を傾けた。
理人ときょうだいではないのなら、一緒にいちゃいけないって思った。だけど、一緒にいなかったら、生きていけない。
血の繋がりが本心ではどうでもいいのも。
会うのがこわく感じているのも。
一緒にいるのが当たり前だと思うのも。
熱を持ってさわられた体温がいやじゃなくて、払いのけられなかったのも――。
きっと、これが恋だからだ。
「どうしよう……っ」
おれだけが知ってしまった、特別に触れる理人の体温を。