君についた幾つかの嘘について。

3話 佐野雪路はすこしおとなになる。

15

 真夜中だから、電話越しにそのひとの声を聞けるかどうかというのは半信半疑だった。だけどどうしても、その時間に決心がついてしまったから、捨てようとしてどうしても捨てられなかった紙切れに書かれていた十一桁の番号を指で紡いだ。


 そうして発信してから、着信履歴から折り返しの電話を入れればよかったと思いつくけれど、もう遅い。

 

 何度目かのコールの後、呼び出し音が切れる。――まだ起きていた。

 

「あの」

 

 おれ、佐野雪路だけど。

 

 だけど、そう言おうとする前に、一瞬だけ繋がった電話は空しくも切れた。いや、故意に切られたのだ。

 

 つー、つー、という通話が終了した音に唖然としていると、間髪入れずに同じ番号からの着信。

 

 電波でも悪かったのかもしれない――そう思いながら通話開始へと指をスライドさせて、おもむろに携帯を耳に当てると、

 

『ねえ、僕の気持ちわかった?』という、上機嫌そうな声が繰り出された。

「へ?」
『だーかーら、僕の気持ち、わかったでしょ』

 

 その声のトーンに、合点が行く。

 

 ――なってない!

 

 感情に任せて叫んだまま、相手の声を聞こうともせずに電話を切った、この間のことを言ているのだ。どうやらおれは、仕返しされたらしい。そしてこのひとはきっと、やられたらやりかえさなければ気が済まないのだ。

 おとなげない、て思うけれど、やったのおれだし、何もいえない。

 

『なに、黙って。おとなげないとか思ったでしょ』
「別に……そんなこと」
『他の人にはやらないよ。おまえだからやるの、きらいだから』

 

 相変わらず、いやな言い方ばかり。だけど、受話器を切る手を放さないのは、

 

「お願い、理人のこと教えてください」

 

 このひとが持つ理人の“過去”が、おれにとって必要だから。おれが今まで目を向けてきた理人の姿を、知りたいから。

 

『ああ、そう。なるほどねえ』

 

 どうして血が繋がっていないのに家族だったの。
 おれは理人にとってどんな存在としてそばに置かれていたの。

 

 一緒にいちゃいけないの。

 いけないならこれから――どうすればいいの。

 

「今まで、に、逃げてたんだけど、このままじゃだめだって思ってて」
『……まあいいけど。僕としてはおまえがそうやって真実を知ってくれる方がありがたいしね。いっとくけど、あといやなこというけど、聞いてなかったときには戻れないと思った方がいいよ』

 

 わかっている、だって既に戻れないから。理人とおれのカタチは、修復不可能なほどに変わってしまった。不意に、あのこれまでに見たことのない目をした理人の姿が、鮮明に脳裏に浮かぶ。

 

 ――ゆき。

 

 囁きは、甘い色を帯びていて、こわくて仕方がないのに、抗えなかった。

 

 あんな理人、見たことがなかった。

 

 ゆきとおれを呼んでいた。だけど、ほんとうはだれかと間違えたのかもしれない。おれじゃないだれかを相手にした気になったのかもしれない。だって、そう考えないと辻褄が合わない。

 

『……と、――……理人弟?』
「あ、ごめん。ボーっとしてた」
『はいはいぼけぼけしやがって。……別に話してやってもいいけど、僕東京住まいなわけ。毎回そっちに行くの面倒くさいから、今回はおまえが東京まで来てよ』

「ん、わかった。東京まで、いくらでいける?」
『往復2000円くらいかな? だけど、東京の中心からは外れるから、3000円は持って来なよ』
「わかった」

 

 食費として理人がくれるお金をもらえば、たぶん、なんとかなる。

 

『じゃ、今週末でいい?』
「ん」
『……おまえさ、なんかあっただろ』
「なにもない」
『嘘ヘタクソ。そこだけは、理人に似てるよ。まあいいけど』

 

 そのことばに、ちょっとだけ心がじんわりと温かくなった。嘘ヘタクソなのは、似てるんだ、そこだけ。

 

 ――嘘ヘタクソついでにいっておくけど、適当に言い訳して理人に内緒でくるのは忘れないようにね。そこで純粋培養発揮されても困るから。じゃ、午後一時に東京駅ね。

 

 最後にそれだけいうと、返事も聞かずに電話を切られた。今度こそ、再びかかってくることはなかった。おれの吐息とともに、部屋に静寂が舞い戻ってくる。

 

 眠気が襲ってくることはなかったが、眠らないと明日の学校に間に合わないので布団に入る。理人はとっくに眠っていることだろう。

 

 あれから、必要最低限の会話以外、顔を合わせていない。同じ家に住んでいても、こんなにも避けることができるのだと、皮肉にもこうなってからはじめて気づいた。

 

 理人にとって、おれに避けられるのはひどく不可解なはずだ。きっと、頭を悩ませているかもしれない。心配しているかもしれない。困らせている、わかっているのに心は素直になれなかった。

 

 真実を知って、どうするのかはまだわからない。知ってから、決める。

 

 理人がどんな思いでおれと一緒にこの家へ来たのか、知らなきゃこの先に進めないような気がした。

 

(知って、こわい現実があったら、もう一緒にいられない?)

 

 家族じゃないなら、兄ではないなら、一緒にはいられない。一緒にいるのはいびつだからいちゃだめなんだ。だけど、もうすこしだけ、考えたい――。

 

 記憶の中に残るそれが、お母さんが死んだその日なのか、死んで幾日かたったころなのかっていう細かいところはぼやけてしまっている。

 

 冬の入口だった。扉を割って入ってくる隙間風がどことなく肌寒くて、外からは落ち葉が地面を吸って揺られていくカサカサとした音が聞こえている。黒い喪服を着たおとなのひとたちに囲まれながら、おれはとっくに痺れて感覚のない足を敷いて、じっとしていた。

 

 なぜか、理人はそばにいなかった。だから、おれは一瞬自分には兄がいるということを忘れていたのかもしれない。

 

 ――かわいそうに。まだ若いのに。
 ――親戚も、友人もろくにいないからって、こんな送り方しかできないなんてねえ。
 ――旦那さんはどうしたのかって。
 ――ああそれがねえ……。

 

 とめどない噂と同情、――でも家族だったおれほど心がカラッポになっていたひとは、いないような気がした。どこかいやらしい好奇心と、よそいきな囁き声だけが妙に耳についていた。……あとで、このことを思い出してみての話だけれど。

 

 ――……雪路っ。

 

 そのことばに、幼いおれのからだが跳ね上がる。知らないひとの声だったからじゃない。いつもはゆきって呼ぶのに、その日は雪路、だったからじゃない。

 

 やさしく包むような温厚な声はひどい焦りを帯びていて、それがおれのためだと知ったのは、「りひと」って振り向くと同時に体を覆うようにきつく抱きしめられたから。

 

 離れないように手を回すと、理人も自分も黒い喪服を纏っていることがわかった。線香の煙たい匂い、お母さんの――真冬のお葬式。

 

 理人に触れた瞬間、周りの声はすべて大きな体にかき消された。会いたかった、そう思ったらぼろぼろと涙がこぼれた。そういえばおれには理人がいたことを、唐突にそのぬくもりから思い出した。

 

 ――り、りひと。
 ――ん。
 ――ゆきとおかあさんは、てんがいこどくなんかじゃないよね。

 

 耳に入った、ひそひそ声。

 

 ――ん。そうだよ。だから、ゆきにもまだ、たくさんのゆきを守ってくれるひとがいる。
 ――だってゆきにはりひとがいるよ?

 

 あのときから理人は嘘がへただった。だけどそれ以上に、おれは理解がへただ。お母さんがいなくなって、自分がどんな身の上になってしまったのか、理人に守られることによって鈍感になってしまったから。

 

 頭にぽつぽつと雨が降っていた。それが理人の涙だとわかってから、唐突に、おれたちはふたりなのだと強く思った。

 

 寒くてさみしい夜は同じベッドで足をくっつけて眠るのも、忙しい理人のためにはじめて作った料理を食べるのも、なんとなく理人が稼いでくれたお金で遊ぶのがいやで「もっと使うことを覚えなさい」って怒られるのも、ぜんぶふたりだけ。

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