君についた幾つかの嘘について。

2話 水原祐樹と不幸な秘密。

14

 図書館で借りてきた本の文字は追っているようで全く追えていない。さっきから、一ページだって進んでいなかった。教室のストーブの余熱がそろそろなくなってきたころ、だれもいないしんとした教室がいっそう静かになったような気がして、横を向くと窓の向こうに白い泡のような雪が舞っていた。


 目を凝らさなければならないほど薄い雪は、既にこの冬何度か鎌倉をつめたくしていた。どれもチラチラと降ったらおしまいで、外の世界すべてを覆うほどではなかったけれど。

 

 粉みたいな雪じゃ、野球部の走り込みも、サッカー部のパス練もなくならない。うっすらと灰色になった校庭に、寒そうな同級生たちが映った。

 

 ――と、ポケットに入っていたスマホが振動した。鞄の中で唸るそれを取り出すと、見慣れないような、最近見たような知らない番号。セーターから伸びる、いつの間にかすっかりかじかんでいた手を、通話へスライドさせた。

 

『あれからどうかな』

 

 おもむろに寄せた耳に降る、今、きっと二番目に聞きたくない声。どこか陽気なその様子に、スマホにかけていた指が固くなる。

 

 かっとなったのが、自分でもわかった。

 

『色々考えたでしょ? ……離れる気になった?』

 

 離れる? どうして?

 きょうだいじゃないから?

 

「――……い」

『は? 何……』
「なってない!」

 

 気づいたら、何も考えられずにかっとなって、乱暴な手が通話を終了させていた。

 

 叫んだ声はひとりもいない教室に、ひどく響いた。息が切れて、しおりもせずに本を閉じる。どうせ、すこしも頭に入らない。本を乱暴に鞄の中にしまって、早足で教室を出た。

 

 理人にも、水原にも、会いたくない。

 

 ――ただ先生に会いたかった。

 

 理人といると胸がいたい。いたくていたくてしかたない。

 

 先生のところだったら、全部忘れてあったかい気持ちになる。だから、会いたい。

 

「あら、佐野くん? 今日、ドアの音激しいね」
「……」

「佐野くん」

 

 気づいたら、冷えた廊下も、保健室のドアもからだが勝手に通過していて、気づいたら先生のところにいて。
 どうしてそうしたのか、分からない。だけど、気づいたら真っ白な白衣の先生にしがみつくようにして、背中に手を回していた。

 

 先生の腕は、ちょっとだけ逡巡した後に、なだめるみたいにおれの背中に回った。

 

 先生にさわるの、緊張するかと思った。恥ずかしくなるかなって。手をつなぐカップルみたいに。でも気恥ずかしさよりも先に、不思議なほどの安堵感。ほら。……ここにいると、さみしさがなくなる。

 

「……泣いてるの? 悲しい?」

 

 そんなんじゃないよって、声が出ない。ちょっとでも口を開いたら、嗚咽が零れそうで、上唇をぎゅっと噛んだ。ぎゅう、と先生の背中に回した手に力を込める。

 

 あの日。永遠に続くみたいなキスの嵐のあと、意識を沈ませた理人の絡まった腕から逃げたとき、朝になるのがこわくて仕方がなかった。

 

 ――おはよう。頭痛い……昨日、飲みすぎたみたい。ベッドまで運んでくれたの、ゆきだよね。ごめんね、迷惑かけたでしょう。

 

 日が短くても、朝はやってきて、必ず明るくなる。怯えて目をそらしがちだったおれに、頭を抱えつつ起きてきた理人は、いつもみたいにへにゃっと笑っていた。そして、情けないなあおとななのに、って、おれに謝った。つまるところ、理人は何ひとつとして覚えていなかった。

 

 あんなことになって、きょうだいじゃなくなるのがこわかった。こわかったはずなのに、理人の記憶からすべてが抜け落ちて、体よくきょうだいに戻っていることに愕然とした。からだが芯から冷たくなった。そうして傷ついていることに、また、愕然とする。

 

 家族じゃなくなるのも、家族に戻るのもこわいなんて、自分で自分のことがわからない。

 

「雪、降って来たね」
「ん……でも、傘がなくて」

 

 先生を抱きしめてしまったことの理由は、言い訳にもならなかった。自分でも支離滅裂なこといっているって、わかっている。混乱し続けるおれの気持ちを先生は知らないのに、「そっかあ」となんでも知っているよというように頷いた。

 

 どしゃぶりの雨だって、凍えるような雪だって、理人の元へなら傘がなくても真っ直ぐに帰れるはずだった。けれど、たとえふわふわと桜のように漂うだけの雪でも、傘があってもなくても、理人ときょうだいじゃないなら、帰れない。

 

「佐野くんは最近、穏やかじゃないね。困って、焦って、心が疲れているんだね」

 

 紡がれることばは、今日は冬の葉っぱに落ちる淡雪のように、ひどくやさしい。

 

 すっぽりと包めるはずだと思っていた先生のからだは案外そうでもなくて、先生を抱きしめきれないからだに、おれはまだ半分子どもだということを知る。

 

「どんなときに、先生は、……嘘をつきますか」

 

 理人はどうして嘘をつき続けるのだろう。算数と母である真冬についての興味があればすぐに気づける違和感から、どうして背いているのだろう。

 

「それはね、佐野くんがいつかもっとおとなの心に近づいたら、わかるよ」

 

 先生が答えを教えてくれないのは、よくあることだったけれど、それはヒントだったのかもしれない。いつもみたいに、荒波が立っていた心は、落ち着きを取り戻していった。

 

 もしも今、後ろ手で閉めたはずの保健室の扉が開いて、だれかがおれと先生のことを見てしまったら、大変な騒ぎになってしまう。それなのに先生は、おれを受け入れてじっとしている。それは――。

 

「佐野くんは、いい子だね」

 

 それは、すこしもおれに対して、“恋”に発展するような疚しい気持ちがないから、ともいえる。頭では理解しているけれど、鈍い心は疲弊しているからか、いたみを感じなかった。

 

「ぐるぐる悩んでも、泣いても、くじけても、考えているね」
「な、泣いてないです……」
「あはは。……でも、先生にとっては、ほんとうに王子様みたいだよ」

 

 王子様?

 

 おとぎ話に出てくる王子様は、頼りがいがあって、からだつきがしっかりしていて、剣と魔法で悪いだれかをやっつけられるほど強くて、顔もかっこいいひとだよ。おれは、そんなのとはほど遠いのに。

 

「先生、ヘンだよ。……こんな王子様、どこにもいません」
「先生にとっては、だよ」

 

 世界中のどこを探したって、こんな情けない王子様はいないんだ。

 

 ――ゆき、どうかした?

 

 平謝りだった理人がおれの不自然な態度に気づいて、不意に伸びてきた手が頬をとらえようとしたとき、一番に感じたのはさわられることへの羞恥で、その次が恐怖だった。反射的にその手を振り払って、ぽかんとした理人から離れる。理人とふれあえること――それはもう二度と以前のような気持ちよさだけを感じることではないと、頭が直感する。

 

 おれだけが知りすぎてしまった。からだを捻って逃げたくなるような低い囁きや、無理矢理押しつけられる熱い体温、やさしいのに強引で甘美な手つき。

 

 理人は覚えていないのに、おれだけが。だからもう、きょうだいには、戻れないかもしれない。

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