君についた幾つかの嘘について。

2話 水原祐樹と不幸な秘密。

13

 ――飲んでから帰るから、遅くなる。先寝ててね

 

 最後にくっつけられたニコニコの絵文字を見て、ため息を吐く。モヤモヤしながらもご飯を作って自分の分は先に食べて、今日も理人が帰ってくるのをどことなく憂鬱に思っていた矢先のことだった。しかし、ほっとする一方で、今日はもう顔を見ることがないと分かるとどことなく心がしょぼくれた。おれの心の構造は、今どこかヘンになっている。矛盾してて、いやになる。

 

 理人は仕事終わり、ほとんど必ずまっすぐ帰ってきてくれていた。おれが理人を待っていると知っていたから、きっと気を遣ってくれていたのだろう。どうしても帰れない日は、すまなそうに電話が来るか事前に知らされていたから、こんなことは初めてだった。

 

 メールを打ったとき、理人はどんな気持ちだったんだろう。おれがヘンになっていることを知っていて、そんなおれと会いたくなかったのかな。

 

(違う……)

 

 理人はやさしい。おれが理人と会いたくないの、気づいていたのかもしれない。だから距離を取ってくれたのかもしれない。

 

 気を遣わせて、いやに心配させているのはわかっている。理人のやさしい気持ちは、いつも手に取るように伝わってくるから。なんとかしたいのに、自分の気持ちがまとまらない。

 

 リビングのソファに寝転がったまま理人のメールを見つめる。洗い物が残っていたけれど起き上がる気になれなかった。

 

 ――理人と目に見えてギクシャクするようになってしまった。愛莉ちゃんの嘘を聞いた後から、一緒にいるの、居心地悪い。……ふたりきりで、よかった。だってたとえばおれと理人のそばにだれかもうひとりのひとがいたら、「最近のふたりおかしいよ」って気づいてしまうから。

 

 携帯を胸にしまうように握りしめて、ソファの上で体を小さく丸める。目を瞑ると、思考がぼんやりとした。すぐにひどい眠気に襲われる。二月の夜は、真水の中にいるみたいに冷たい。鎌倉のお化けみたいな大きい屋敷は、古くて風がよく通る。

 

 ――うちはゆきがあっためてくれるね。

 

 家に帰ると、お風呂に直行するよりもこうしていた方がいい、と笑って、理人は時折おれを抱きしめながらコタツへ入っていた。おれはいつも、お風呂に入らなきゃきれいにならないよ、とぶすくれてみせながらも、理人のスキンシップを甘んじて受け入れた。そしてふたりで、どうでもよい話を繰り返して、気づいたらおれはいつも理人を置いて眠ってしまう。
外は寒いのに。……もしかして、外でも、ぎゅうってできるひとがいるのかもしれない。

 

 理人がそんなふうに女のひとと接しているところを想像すると、胸がきしきしといたむ。愛莉ちゃんのときと同じ。でもそれは家族として正しいことなのだろうか。

 

 たとえばおれは、先生がすきだ。ひらひらと帆のように漂う半透明のカーテンレースを背にした先生を見ると、まるで天使みたいなその姿に胸がほかほかする。ずっと一緒にいたいって思う。恥ずかしいからだれにもいえない恋だ。だけどもしそれを理人が知ったとして、きっとおれの気持ちを応援してくれるはずだ。家族だから。

 

 同じようにおれも理人を応援しなきゃいけないはずだ。それなのに、薄暗くくすぶり続ける、理人を取られたくないというこのいやな感じは、おれがいじわるだからかな。こんなおれを知って、理人は呆れるかも。

 

 寝返りを打って、きつく目を閉じた。

 ちょっとずつ、自分がきらいになっていく――……。

 

 ガタガタッ、か、ガラガラッ、か。とにかく真夜中にしては煩わしい衝撃音が、扉を開く音だと、完全に思考が覚醒するまで気づかなかった。

 

 耳慣れない音に目を開くと、時計の針がさす零時はとっくに回っていて、心なしか体の節々が痛む。ヘンなところで眠ってしまったのと、いつもある理人というクッションがなかったから。

 

 起き上がって、未だにガサガサと音を立てる玄関口へと、ぼんやりとした足取りで歩く――と。

 

「り、理人!?」

 

 広い家だが明らかに年季が入っているのは、暗がりの中で見たってわかる。鬱蒼と生い茂る草は居住している人がいるかすら微妙だし、ともすると空き家状態。……泥棒が入るはずがないとはわかっていたけれど、まさか。そんな感じでいったら、家主である。

 

 それになんだか、様子がおかしい。

 

「あれ。……寝てていーっていったのに」

 

 明らかにおぼつかない足取りで陽炎のように揺れながら壁を伝ってくる、くしゃっとしたスーツ姿の理人。今日の朝皺ひとつないスーツで家を出て行ったはずなのに、なんだかよれよれしている。

 

「おかえり。今まで寝てたよ。……えと、どうしたの?」

 

 そばへ寄ってうつむいた顔を確認しようと覗きこんだら、――まるで罠にかかる動物みたいに、捕まった。

 

 バタン、とかろうじて手に引っかかっていた鞄が落ちた音。パソコンが入っていたのか、重そうな機器がたたきつけられた、いやな感じがした、もしかしたら壊れたのかもしえない。でもそれを確認する前に、緩慢なそれまでの動作からは考えられないようなスピードで、両手が背中に回ってからだを引き寄せられた。

 

 理人の首筋に頭がくっつく。至近距離で吐き出された息づかいから強く薫るのは、くらりと酩酊感のあるお酒のそれ。

 

(ほんとうに飲んで帰ってきたんだ……)

 

 理人からお酒のにおいなんて、めったにしない。それもこんな、そばにいてもかおるような量だなんて。

 

「ん、ただいまゆき」
「うん。理人、歩けるの?」
「あるいてるよ」

 

 歩いてないよ?

 

 体重が……。いつもの配慮はどこへやら、全身で押しつぶすように抱き込んでくる強いからだを支え……ようとして重くてできず後ずさりながら、思った。

 

 ハタチを過ぎたおとなのひとは、お酒を飲んで酔っ払うことがある。これは事実としてインプットされている。いつもの仮面がなくなって、笑うとか、泣くとか、はたまた怒るとか。ぐにゃぐにゃになってしまうのだとか。だけど、おれの周りの“おとな”は理人だけ。理人が酔っぱらったことなんて、今までなかった。理人は子どもみたいな、でもしっかりとしたおとなだったから。

 

(でも、なるほど、これはたしかにぐにゃぐにゃ……)

 

 平衡感覚がなくなっているのか、今の理人は自分の体を自分で支え切ることができていない。おれでは役不足だが、なんとか支えながら寝室まで持っていこうと歩き出す。まるでリュックを背負うみたいに、くるっと回って理人を背中にもたせかける。理人の腕は、まるで母親を慕うコアラみたいに、ぎゅっとおなかに抱きついてきた。

 

「ゆき」

「なあに、理人、酔っぱらったの?」
「んー……ゆき」

「理人が酔っぱらうところ、はじめて見たよ」

 

 こうやって、近くの距離で話すのが久しぶりであることに気づいて、うれしくなる。こんな風におれを頼ってぐでんぐでんになる姿なんて滅多になかったからだろうが、心が弾んでいる。

 

(ちょっと、おとなになったみたい)

 

「理人、ベッド連れて行ってあげるね」
「ん……」

 

 小さな頃、今よりももっとがむしゃらに働いていた理人のためにひとり家事をこなしていたときや、理人と一緒にだらだらとリビングで過ごすときが多かったからか、夜にはベッドではない場所で寝落ちするというクセがついていたみたい。そういうとき、理人の大きな胸の中や、もうすこし成長したら背中に乗せられて、運ばれた。

 

 ――ゆき、ベッド行こうね。

 

 まどろみの中でやさしく囁かれて、無条件に目の前のあたたかいからだに手を回した。幼い記憶を手繰り寄せることはできないけれど、ゆりかごというものはきっとこんな感じなんだろうなあって何回も思った。

 

 今は、役割が交代しているんだ。理人をおれがお世話している。……それはちょっとだけ誇らしい。おとなに、一歩近づいた証。

 

 理人のからだ、相変わらず重いけれど。

 

「ゆきが、最近よそよそしいから……ゆきが、わるい」

 

 酔っぱらうと本音が出るって、聞いたことある。
 理人と話したい。上手く話せない。もどかしい。そういう思いに、理人は気づいている。そしてそれが寂しいって。……力強く引き寄せてくる腕は嘘をつかない。

 

 同じ気持ち、――だとしたらまだ家族をやれてる。

 

「おれも、理人としゃべれなくて、さみしいよ。ごめんね」

 

 すぐに戻るよ。愛莉ちゃんはいなくなってしまったから。きっと水原もいなくなって、そうしたらふたりの間にはまた掘り起こされることのない嘘が戻ってくる。真実と向き合わなくていい毎日が。

 

(スーツ、明日も着るよね……ジャケットだけでも脱いでもらおう)

 

 最後は力尽きかけのため半ば引きずるようにして、理人を部屋に運び終わる。

 

「部屋、ついたよ。ベッド行って」
「ん」
「理人……?」
「ゆきも……」
「ええ? なんでおれも――……っ」

 

 昔の理人とおれの姿と、今の逆転した姿とで、決定的な違いがひとつだけあった。昔の理人はおれよりも何倍も力持ちなのに、今のおれでは酔っぱらって力加減の利かなくなった理人が制御不可能だったことだ。あと、言い訳をするならおれはここまで理人を運んだ時点でだいぶ多くの体力を削られてしまっていて。

 

 それまでだらんとしたからだとは裏腹に、力を込めて絡まってきた理人の腕は、どうしたってほどけないどころか、わがままにもおれをベッドの上に巻き込んだ。

 

「わっ」

 

 ふたり同時にベッドに突っ込んで、情けない声が出る。理人の方が容赦ない音がした。

 

 ヘンな体制で一気に落ちると、ベッドでもさすがに痛い(安くて古いベッドならなおさらだ)。のめり込んだ肩をさすろうとすると、暗い室内に不意に影がさした。

 

「……理人?」

 

 一瞬で空気が変わるような、張り詰めた沈黙と緊張。

 

 それではじめて、酔っぱらった理人とちゃんと目が合う。背中が心地よいベッドに張りついているのに、急に落ち着かなくなったのは、天井を遮っておれを見下ろす理人の目があまりにも――。

 

「あの、ベッドだよ? おれ、自分のベッドあるから、そっち行くけど?」

 

 酔っぱらって思考回路がおかしくなっているのか、理解を示さずに腕を突っ張って通せんぼする理人に、困惑する。なぜか、至近距離で目が合っていることに、不安を感じた。

 

 なんでだろう。

 

 だってさっきまであんなにも穏やかな気持ちだった。家族でやっていけるって思ってた。

 

 それなのにこんなにも落ち着かないのは、理人の目がおれを、こんなにも真剣に見下ろすからだ。ゆき、とおれのなまえを呼ぶ理人は、いつも三日月の子どもっぽい目をしているのに。

 

 零時を過ぎた真夜中らしく、辺りは沈黙を決め込んでいる。

 

 不意に、所在なさげなおれの片手が、理人の手と絡み合うみたいに重なった。ごく自然な動作で、手をつなぐなんて幼い頃からしているはずなのに、そのときの理人の手はなにかが違った。

 

 ぞく、と心の底から何か得体のしれないものが這い上がってくる。急に脳が痺れた。

 

「や……っ、り、ひと?」

 

 感触を確かめるようにおれの手を握る、その手の動きは、いつもの無邪気なそれとは打って変わって、――ヘンだ。おかしい。

 

 こわい。

 

『異常なのよ! 家族でもなんでもないくせに理人さんに迷惑かけておかしな距離で会話して!』

 

 おかしな距離。違う、いつもは普通の家族の距離だったはずだ。少なくとも、おれと理人にとっては。でもこれは異常だ。いつもとぜんぜん違う。

 

(はなれなきゃ)

 

 酔っぱらったひとは、次の日にすっぱりと記憶のかけらをどこかへ置いてきてしまうといっていた。だったら、今はなれてしまえば、翌日にはまたいつもの理人が戻ってくる。

 

 射抜くように見つめてくる双眸から、目をそらした。囲ってくる腕をのけるようにして、ベッドから降りようとする。

 

 だけどおとなの理人と、半分だけ子どものおれでは力が違って。

 

「……っ」

 

 這って逃げようとしたおれのおなかを後ろから力任せに引っ張って、理人のテリトリーへと引きずり戻される。不自然な手つきがおれを撫で上げて、足を絡ませて逃げられないようにしてきて、あっという間に捕らえられる――……。さわられるのはいつものことなのに、理人の纏う空気にのまれて、なぜかおなかの下あたりがきゅうっとうねるような感覚。確実に何かを意図しているような手が、おれを静かに探る。

 

「理人、あの……おれ、きょうだいだよ」
「ん、そうだね」

 

 いつもの調子でしゃべっているのに、いつものトーンよりも掠れて低い。

 

「おれ、女のひとじゃ、ない」

 

 呟いた声は、理人の耳に吸い込まれて、「そうだね」というあいまいな返事が返ってきた。

 

 息を飲む。理人、ほんとうにもう、何がなんだかわかっていない。

 

 目の前のおれのことも、わかっていない。

 

 こわい。ぎゅう、と目を瞑る。

 

 やさしくない理人の手が、おれの頬に這って、あっという間に後頭部を引き寄せられた。抵抗することができなかったのは、驚いたりこわかったりしたからじゃない。

 

「……っ」

 

 ジタバタと暴れるだけの情けない抗議は、容赦ない理人によって突破口を塞がれた。

 

「り、りひと……おれ、理人のおとうとだよ……っ」

 

 おれとどのパーツも似ていない端正な顔立ちが近づいてきたとき、反射的に顔を背けようとしたのは、次に何が起こるのか半ば無意識にわかってしまったからかもしれない。それも、理人の腕によって、阻まれる。

 

 それだけはだめ。そらそうとする顔を、阻まれて、まるで知らない感覚に取りつかれた。

 

 だめだめだめ。そんなことしたら、おれたちほんとうに――。

 

「……っ」

 

 ピントが合うか合わないか、見上げた理人の瞳には、おれが映っていたのに。

 

 すこしも躊躇することなく重ねられたくちびるから、居場所を求めてくぐもった吐息が出る。唇が離されるやいなや、「だめだよ」と声を上げるために息を吸ったところまでは、はっきりと覚えていた。すぐに覆いかぶさってきたくちびるに遮られて、それから会話はできなかった。

 

 それでも抵抗しきることができなかったのは――理人に不自然な意図を持ってさわられた場所が、発熱するみたいに甘く痺れていたからだった。

 

 いつもと違うある意味理人を狙う女のひとと同じような獰猛な視線にも、絡まる体にも、ふれてしまったくちびるにも、どんな不快感さえなかったことが、一番こわい。

 

 痺れるような感覚が、とてもこわかった。

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