君についた幾つかの嘘について。

2話 水原祐樹と不幸な秘密。

11

 すこしの間だけ、保育園という場所に入れられたことがあった。

 

 ――ともだちがいっぱいできるよ。

 

 おまえはいい子だからねえ。そう理人が何度も何度もいっていたから、ほとんど不安なんてなく期待に胸を膨らませていった先で、同年代の子が“自分と違うもの”にすこしもやさしくないことを知った。

 

 ――おまえんち、パパもママもいないじゃん!
 ――おむかえくるのリヒトだけだろ? リヒトはにいちゃんだから、パパとママと違うし!
 ――おむかえにリヒトがくるの、おかしいよ! それに遅いじゃん!

 

 おれには、“ママ”と“パパ”が揃っていることが普通ということすら、知らなかった。当時からおんぼろだった広い家に、理人とふたりきり。いつまでも起きない浅い眠りを繰り返しているみたいに、やさしい狭い世界に浸っていたおれは、“異物”をきらう外の世界がどんなに残酷か、そして自分がどんなに普通ではなかったかを悟った。

 

 子どもの世界は、思慮分別のあるおとなの世界よりも、いっそう正直だった。小学生に上がる頃には両親のいない自分が虐げられることはなくなっていたが、それよりもずっと幼いそこで、新米で“異物”であるおれはターゲットだった。くすくすという嘲笑と、どこか馬鹿にしたような侮蔑の表情を一身に受けて、おれはすぐに元の家に閉じこもってそこへ出てくのをいやがった。

 

 理人は毎日保育園に電話していた。

 

 今思えば、そのときの理人はまだ三十になっていない、働き盛りだ。おれみたいな手のかかる時期の子どもを、働きながら世話をしていく余裕はなかったのかもしれない。だからおれを預けようとした。

 

 ――ゆき、ごめんね。

 

 外へ出ようとしなくなったおれを、理人は特別責めることをしなかった。ただ頭をひと撫でして、どうしても休むことのできない仕事へ向かって行った。今より融通が効かない年齢の、働き盛りの理人は、朝早く出かけて夜遅くまで帰ってこない。毎日取り残されたけれど、理人と自分を否定する子どもと一緒にいるくらいなら、こうして待っている方がよかった。

 

 パパとママがいないことなんて、どうだっていい。理人のことおかしいって、おれたちのことおかしいっていわないで。

 

 ――ゆきはどうしたい?
 ――理人といたい。

 ――僕はお仕事へ行くよ。おとなはみんな、働かなきゃならないんだ。
 ――ここで、まってる。
 ――ひとりで寂しくない?
 ――理人がかえってくるなら、まってる。

 

 理人はきっと、同世代のともだちがいないおれを心配したり、自分の仕事が忙しくて世話をする暇がないことを心細く思ったりして、おれに新しい世界をくれようとしたんだと思う。だけどおれには、理人のそばがいちばんだった。たとえどんなに会える時間がすくなくても。

 

 このままで、いい。今よりもずっと大きくおれを包み込むからだに、飛び込む。よしよし、わかったといわんばかりに抱き返されて、うれしくなる。結局保育園は、いつの間にか退園していたらしい。

 

 そうして一緒にいるのが当たり前だった。

 

 電気もつけずに制服のままベッドに直行したら、短くまどろんでいたみたい。耳の奥で玄関が開く音がして、気づいたらまるで空間移動したみたいに理人がそばにいた。ベッドの脇が、静かに沈んだから。

 

「ただいま、ゆき」

 

 疲れて帰ってきたのに、ご飯、用意してないや。お風呂掃除もしていないし上に、そもそも電気すらついていない。真冬に差しかかった部屋は凍ったような冷気を放っていた。

 

 外のひんやりとした空気を纏った理人の指が、おれの頭を撫でる。やさしい感触なのに、今日は理人と一緒にいたくない、会いたくなかった。

 

「なんだか、最近また様子がおかしいね。結婚の話に区切りをつけて、ようやくいつものおまえに戻ると思ったのに」
「いつもの、おれだよ」
「なんでそんな、すぐバレてしまう嘘をつくかなあ」

 

 いつものような温かい笑い声は、僅かに寂しげで、声を聞くと心に針が刺さるみたいにいたくなる。

 

 あの男が来るまで、愛莉ちゃんに結婚の話を持ちかけられるまで、こんなに、近くにいるのに心が離れているみたいに感じるなんてことなかった。

 

 片側のベッドが沈んでいるのは、まぎれなく理人がおれのそばにいる証拠。それなのに、不安で仕方がない。

 

 だって嘘をついているのは理人の方だ。きょうだいで、兄だなんて。

 

「ごはん用意していなくて、ごめん」
「ん。大丈夫だよ、おまえはいつも用意してくれているからね、すこしくらいサボったっていいんだよ」

 

 スーツのジャケットも、コートも、いつも玄関口でもらうのに、それもできなかった。ちゃんと謝りたいのに、くっつけたままの枕から顔を放して、理人を見るのが怖かった。

 

「ゆきが早く元気になってくれるなら、いろんなことは後回しでいいんだよ」

 

 理人のことばは、ひとつひとつがやさしい。

 いまさら他人になるのは、絶対無理だ。

 

「ゆき、お風呂まだだよね。先にシャワー浴びてきていい?」

 

 こくりと、枕に深く顔を突っ込む形で頷いた。伝わったみたいで、理人が立ち上がる。小さい頃から使っているせいか、年季の入ったベッドがきしんで、片側の沈みが戻った。

 

「り、ひと」

 

 思ったよりもずっと、籠ったような歯切れの悪い声が響いた。静かな足音が止まって、なあにという返事が耳に届く。ちゃんと、聞こえていたみたい。

 

「おれたち、ちゃんと、きょうだいだよね。かぞく、だよね」

 

 ぎゅう、と枕にかけた手を握った。

 

 ため息や、足音ひとつ聞こえない、まるで降り積もっていく雪のような沈黙のあと、理人はまた、もう何度目かわからない嘘をついた。

 

「家族だよ。たったひとりの、きょうだいだ」

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