君についた幾つかの嘘について。

2話 水原祐樹と不幸な秘密。

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 なんとなく先生のそばを離れたくなくて頑なに保健室の椅子を占拠していたが、下校時刻になってもそのままでは他ならぬ先生に迷惑がかかってしまう。粘りに粘ったが、あたりがすっかり冬の夜空へと姿を変えた頃に学校を出た。最近いっそう陽が短くなってしまった気がする。先生がストーブのそばに置いて温めてくれたマフラーをくるくると巻きつけて、鎌倉の家に帰る。

 

 理人はきっと今日も遅くなるはずだ。なんとなく、ほっとする。

 

 先生とはいつも会いたい。理人とも、いつも会いたかった。だけど最近、理人と会っていると気持ちがシーソーみたいに不安定に揺れるから、あんまり会いたくない日もある。

 

 おれと理人の間に、変化はいらない。ただいつもどおり、今日も夕飯を作っていることにする。――家族はずっと、変わらないものだから。

 

 部屋のアパートが見えてくると、暗がりの中に茫洋と浮かぶ、上品なワンピースが見えた。その女性らしいやわらかいシルエットが、少し前のおれの記憶の中にある愛莉ちゃんのそれとぴったりと重なる。

 

 薄ピンクのワンピースは見たことある。最後に愛莉ちゃんとヘンな別れ方した日、――結婚のことを切り出されたときの格好だ。はっきりとした顔立ちの愛莉ちゃんやおしゃれな食材にとても似合った、エレガントで線の細い愛莉ちゃんをよりきれいに見せるそれ。

 

 沈んでいた心が浮き立つ。久しぶりに……愛莉ちゃんとお料理できるかもしれない。

 

 しょぼくれていた足取りが、速くなる。

 

 そこには、理人とふたりきりになって余計なことを考えなくて済むという、自分勝手な考えもあったかもしれない。だけどそれよりも、最近姿を見せなくなってしまった愛莉ちゃんと再び仲良くできるといううれしさが勝った。

 

 アパートの前にいるということは、おれや理人が帰ってくるのを待っていたのかもしれない。女のひとは冷え性っていうから、心配。

 

「愛莉ちゃん!」

 

 少し遠い場所からだったからか、愛莉ちゃんは振り向かず視線をアパートに送ったまま。

 

 アパートの前で、おれと理人の部屋を見上げながら佇む影に近寄った。しかし、その横顔がひどく憔悴していることに気づく。

 

 愛莉ちゃんはいつも華ような笑顔と、上品なかおりがする。髪も肌もツヤツヤで、おれにやさしくしてくれる。

 

(いつもと、ちがう)

 

 立ち止まる。

 

 住宅街特有の白い街灯に照らされた愛莉ちゃんの姿は、違和感でいっぱいだ。だっていつも愛莉ちゃんの髪の毛は、丁寧にまとめられているのに、今日はぼさぼさ。寒いのに、コートやマフラーをしていなくて、纏っているのは布地の薄いワンピースだけ。弾ける笑顔はどこにもなくて、伏せられたまつげが仄暗い……やさしい雰囲気が、今日はどこか鋭い。

 

「あいり、ちゃん?」

 

 人違いや見間違いじゃないはずなのに、そこにいるのは、以前肩を並べてキッチンに向かっていたときの愛莉ちゃんの様子とはまるで違っていて、なんだかとても、怖い。

 

 足音が、止まる。じじ、という街灯にともる光の音が耳に入った刹那、それまでまるでどんな音も聞こえないというようにアパートだけを一転に見上げていた愛莉ちゃんが、おもむろにこっちを向く。

 

 足が半歩後ろに下がったのは、その表情があまりにも――。

 

「あいりちゃ」
「――全部アンタのせいだから!!!」

 

 後ずさったおれと知らない愛莉ちゃんの距離が一気に詰まったと思ったら、耳をつんざくような悲痛なヒステリーとともに、伸びてきた手に体を押される。あっという間のことで受け身を取れなかったからか、情けないほど呆気なく体が倒れた。

 

 体を庇うように伸びた右ひじを、コンクリートが擦った。背中から倒れたおれの目の前に、愛莉ちゃんが立ちはだかる。

 

 見上げて、息を飲んだ。

 

(あの目――)

 

 昔から知っている。

 

 理人をすきだという女のひとは、決まってあの目をする。まるでおれが邪魔でいなくなってほしいというような、獰猛な瞳。

 

 ――……じゃあ、理人さんが結婚しても、それは変わらないってことだよね。

 

 あのとき一瞬だけ宿ったその目を、おれは一瞬だけ垣間見たこと。温かな料理が並ぶ食卓で、――ふいに持ちかけられた結婚の話のときだ。

 

 愛莉ちゃんが距離を詰めてきたとき、一瞬だけ強いお酒の匂いが香った。同時に、明らかな敵意のまなざしがおれを射抜く。

 

 ……おれの、せい?

 

「アンタがいるせいで理人さんがおかしくなってんのよ!」

 

 ――むしろ雪路くんと会える方が、寂しい一人ごはんよりも全然いいよお。

 

 嘘だ。おれの知ってる愛莉ちゃんは、お料理が魔法のように上手で、たまにからかうけどやさしくてあったかくて、大好きなひとだ。こんな愛莉ちゃんは、うそだ。

 

「毎日毎日アンタと理人さんの家は、おかしくておかしくて気が狂いそうだった……、あんな頭のいかれたところになったのは全部アンタのせいじゃない!!」

 

 おれの知ってる愛莉ちゃんは、こんなわけのわからないこと言うひとじゃない。

 

「異常なのよ! 家族でもなんでもないくせに理人さんに迷惑かけておかしな距離で会話して!」

 

 ――理人と似ているわけないよね。血、一滴も一緒の入ってないでしょ。

 

「アンタのせいで理人さんがおかしくなったのよ!」

 

 ぶつけた右ひじからじんじんと全身に痛みが走っていく。

 

「アンタ誰なのよ! なんで理人のそばにいるのよ!!!」

 

 ――理人の弟だといわなければならなかったのに、いえなかった。

 

 火山が噴火するような愛莉ちゃんの罵詈雑言は、そのあとも永遠に続くかに思われた。実際に、もっとたくさんのことを謗られ、詰られていた気がする。だけど、覚えていられたのはそこまでだった。

 

 いつの間にかいなくなった愛莉ちゃんを探すことも、その場を立ち上がることも出来ない。座り込んだ地面は冷たいのに、見えない糸がおれの足を縛っているみたいに、動けない。

 

 頭が真っ白になって、なにも考えられなくなる。

 

 秋から冬に季節が変わって、落ちた葉っぱがなくなっていくのと同時に訪れた、愛莉ちゃんと、あの男のひとが、理人との日常を壊していく。

 

 理人のそばにいる理由なんて、なかった。家族なら、そばにいるのが当たり前だから。

 

 ――きょうだいじゃないなら、理人と血が繋がっていないなら、おれは――。

 

 おれはどこから来て、理人とはどうして出会い、そして今どうして一緒にいるのだろう。

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