君についた幾つかの嘘について。
2話 水原祐樹と不幸な秘密。
09
――ほんとうは知りたかったんじゃないの?
おれの心の中を覗くようなことばとともに、空いていた制服のポケットに無理矢理入れられた紙切れ。四角いそれは、表にスターバックスと印字されたレシート、裏に11桁の数字、そして「水原」という文字。
家に帰って、数時間。ぼうっとご飯を作りながら、何度か制服のポケットをまさぐってあの紙をゴミ箱に捨ててしまおうと考えた。握りしめては解いてを繰り返すうちにしわくちゃになったその紙は、結局食べ終わったお皿を片づけるまでそこにあった。
いつもどおりののほほんとした覇気のない声とともに理人が帰宅を知らせると、いつも通りカバンとジャケットを受け取る。なんとなく、あのひとのことは口には出せないでいた。理人に知られてはいけないような気がして。そのまま何食わぬ顔で今日の夜ご飯の話をしようとして――そういえば、いつの間にか愛莉ちゃんを見かけなくなったことに気づく。
「最近めっきり寒くなったね。さて、まずはおふろおふろ」
寒い寒いといいながら脱衣所へ直行する背中を見届けてから、最近のメールをチェックする。最後におれの家に来て一緒に料理をし、はじめてばいがいを食べてから、もう二週間が経っていた。
(愛莉ちゃん、なにかあったのかな)
おかしい。ご飯の約束をしていなくても、何日かに一回はメールをしていたはずなのに。そう思うと同時に、メールが来なければけろりと愛莉ちゃんのことを忘れてしまう自分にも驚いた。ごめんね、愛莉ちゃん。
「ううーパンツ忘れてたー」
脱衣所から情けない声とともにパンツ一丁の理人が舞い戻ってくる。こんな情けない理人の姿を、いつも理人の噂をする女のひとたちに見せてあげたい。きっと、百年の恋も冷めてしまうだろう。何かうなりながらたんすをごそごそあさる音。
「理人」
「なにー? 寒いから早く入りたいんだけど、どうしたの?」
「愛莉ちゃん、最近来ないけどどうしたのか知ってる?」
たんす捜索の後、お気に入りのパンツを片手に持ったままこちらを振り返った理人が、ふん、とすこし考えるような顔になる。そして、まるで「明日の晩ごはんはカレーがいいな」というくらいの、ほんの軽い口調でこういった。「来ないと思うよ」と。
「結婚してくださいっていわれたから、断った。ずいぶんがっかりされたみたいだから、たぶんもう来ないんじゃないかなあ」
軽く流すような口調ではあるが、――それってつまりプロポーズされたということで。いくら前もって愛莉ちゃんから知らされていたとはいえ、自分が知らない間にそんな出来事があったことに、つい体が固まる。
そして――刹那、“断った”ということばに心の底からほっとした自分がいた。急に足の力が抜けて、その場にへたり込む。今度は理人が驚いたようにこちらへ近寄ってきた。……パンツ持ってないけれど、パンツ一丁で。パンツはどこかへ置いたのだろうか。
「ゆき……?」
「び、くりして。プロポーズされたって」
「プロポーズなのかなあ? そんなにおどろくことかな? ごめんね、いっておけばよかったかもしれないんだけど、まあ、結婚しないってことだったし。……安心した?」
すこしの躊躇いの後、静かに小さく頷いた。理人がおれの頭をさらりと撫でた。
佐野家のこぢんまりとした食卓に並ぶお料理が、また庶民派に戻った。ニンジンやジャガイモがごろごろと入ったシチューを食べる理人に、「ズッキーニほしい?」と聞いたら、「ゆきの適当に切った大小いろいろなジャガイモが僕はすきだよ」と笑った。ジャガイモだけかと聞いたら、ニンジンもタマネギもだって。
この日を機に、ぼうぼうと生い茂る雑草に囲まれたこの家の食卓から、愛莉ちゃんの姿はぱたりとなくなった。何度か愛莉ちゃんに連絡をしたけれど、あの可愛い絵文字の返信がおれの携帯に表示されることは一度もなかった。恋に敗れると、こんなにもあっさりと消えてしまうのだろうか、あっけない、泡のような愛莉ちゃんの恋だった。愛莉ちゃんのそれを自分のことに重ねると、わずかに胸が痛む。おれも先生との恋を諦めたら、先生の元を去らないといけないのだろうか。
恋って、むずかしい。両想いになることはおろか、片想いの末路もこんなにも残酷だなんて。
何はともあれ、また、ふたりだけの生活に戻って、それはそれでやっぱり心地よい。
――これは家族の心地よさ。一緒なのが当たり前。
おれが無造作に切ったごろごろのジャガイモをつつく理人を見ながら、あの紙を早くなかったことにして忘れてしまいたい、と切に願う。ずっとこのままでよいというのに、ポケットの中に入っているだろうおれの日常を壊すあの存在が、いつまでも脳裏にちらついて離れなかった。
*
「悩める少年だねえ」
「え……あ、えと」
「ぼんやりしてる。いつもよりもずっと上の空だね。……ヘンなとこ見てる」
我に返ると、目の前にはニコニコとおれの姿を観察するみたいに見つめてくる先生。おれは保健室の丸椅子に座っていた。そうだ、いつもみたいに先生に会いたいと思ったのに、なぜかぼうっとしてる。
そういえば、今日はずっと上の空だったかもしれない。授業のこと、全然覚えてないや。期末テスト、どこが出てくるのか聞きそびれてしまっているかもしれないから、あとで小塚に聞いてみよう。
「石になっちゃったみたい。まあ、いつもぼうっとしてるけどねえ」
「いつもしゃっきりしてないってことですか?」
「のんびりさん」
う……やっぱり先生はおれのこと、男だって思ってないんだ。まるで天使みたいな微笑みとともに繰り出される、包み隠さないあけっぴろげなことばは、ちょっとだけ心に突き刺さる。それでも先生のそばは心地よい。
なにかあると保健室にいる先生に会いたくなって、会っている間だけはこうして先生のことだけ考えられる。だから、すこしだけ悩んでいたことが楽になる。それは先生が保健の先生だからじゃなくて、きっとおれが先生をとても……すき、だから。
「先生は、いつも、おれのことすぐにわかりますね」
「生徒のことは大概わかります。でも、佐野くんのことは特にね、ほら、わかりやすいから」
たとえわかりやすいという要素がついていても、先生にとっておれはすこしだけ特別な存在ということ。
「そっかあ。やさしいんですね」
「やさしくないよ。やさしくないから、なにかあったって、すぐ聞ける。聞かないやさしさもあるんだよ」
なぞかけみたいな不思議な言葉に、困惑する。――聞かないやさしさ?
先生がその解読を付き合ってくれる気はないらしい。病人でないおれに興味があるふうでもなく、適当に話をしながらも片手間に手元の書類になにかを書き込んでいる。書類にぐっと顔を近づけたせいで、耳にかけた髪の毛がさっと溢れる。やわらかそうな耳たぶには小さな穴がひとつだけ所在なさげに空いている。
(やさしいって、先生みたいなぽかぽかしたひとのことをいうのに。ヘンなの)
温かくてやわらかい、先生のそばは原っぱのにおいのする日向のように心地よい。これは恋だ、と思う。先生と一緒にいると、かなうことのない恋でもずっとしていたいと思う。すこしだけ緊張するけれど、穏やかな時間が宝物みたいに感じる。だからこんな恋なら、ずっとしていたい。
ふと、前に垣間見た愛莉ちゃんの、おれと話すときにはない先生への視線を思い出す。甘く痺れるようで、どこか獰猛さを感じるそれは、“恋”という言葉には似つかわしくないように思える。昔から理人をすきになるひとは、みんな多かれ少なかれそういう棘のような面を持っているような気がした。それは、おとなの女性だからだろうか。
(先生にも棘があるのかな)
「……佐野くん? ところで、そろそろ下校時間だけど」
「あ、はい。もうそんな時間なんですね」
気づけば保健室の窓から見える外は、薄暗く染まり始めている。冬は、暗くなるのが早い。それに外が寒い。
「下校時間ぎりぎりまでここにいるなんて、珍しい」
それは、夕食の献立と材料を揃えるためのタイムセールを計算して、買い物をする時間を狙っているから。下校時間にここを出ると、タイムセールは嵐の後状態になってしまっているからである。今日はなんだかそんな気分になれなくて、考えたいことがたくさんあって、先生のところへきてしまった。なにより、いつもよりもいっそうこの空間が心地よかったから。
「今日は……先生とずっとお話していたかったんです」
「あら、そうなの」
先生が笑った。
(――あれ?)
おれ、今、爆弾発言した!? 急に我に返って、自分の言葉を頭の中で反芻する。すごくすごく、余計な恥ずかしいことをいってしまった!
落ち着いていた心が、さざめくように波打つ。いってはいけない秘密を漏らしてしまった、焦燥。とにかく誤解を解かなければいけない。おそらく色々なことを考えすぎて表情筋がすっかり固まってしまっているおれにたいして、先生はけろりとした顔のままちょっとだけ首をかしげてこちらを見ている。おれがなにかいおうとしていることに気づいて、待っているみたいに。
「え、えっと、そういうことじゃなくて!」
気持ちなんて、一生こころの中に残っていればいい。先生と両想いになりたいだなんて、だって一度も思ったことない。左手の薬指にはめられた、おれなんかにはまだ全然買えそうにない、細身なのにキラキラと明るいリングのひとには絶対勝てない。
だから、今のままでいい。
「そういう意味じゃなくてね……っ」
どうしよう、なんていおう。おれはあんまりよくない頭で一心不乱に考え続けて、なんとかごまかしきれているのかそうでないのかわからないことばで、自分の気持ちを取り繕った。先生は詳しく聞かせてって期待させることも、知ってるよって微笑んでくれることもなかった。
あとから考えると、ほんとうにうまくはぐらかされてくれたのか、知っていても知らないふりをしてくれていたのか、どちらなのかわからなくなってしまった。