君についた幾つかの嘘について。

1話 福田愛莉とのさんにんの日常。

06

 体が痛いのは、コタツで眠っているせいだ。今見ている夢は涙が出ているときみたいに輪郭がぼんやりとしているから、きっと目が覚めたら弾けるようにたちまち忘れてしまうだろう。

 

 ゆき、という、古い記憶の奥底でお母さんが呼んでいたのと同じ温度の声が、響く。ガラガラと夢の絶壁が崩れ落ちる音がして、目を開いた。いつの間にか頭に置かれた手が、揺り動かすようにおれのクシャクシャになった髪の毛をかきまぜる。

 

 ――スウェットに着替えた理人だ。ああ、僕が眠っている間に帰ってきたみたい。ぼんやりとした目で周囲を見ると、スーツのジャケットも、カバンも、しっかり定位置にある。洗濯機が回っている音がする。きっと、お風呂のお湯は抜かれているし、ラップしておいたごはんの食器は全て洗われてしまっている。

 

 知っている。だってほんとうは、理人はなんだってできるのだから。居場所を求めていたおれに、役割を貸してくれていただけだから。

 

「おふろ、入ったの」
「うん。おまえの寝顔を肴に、ごはんも美味しくいただきました」
「うるさい。おかえり」
「ただいま。ぐっすりだったね。でもコタツで眠ったら風邪ひくっていったでしょう」

 

 さっきお風呂に入ったばかりなのか、ホカホカした両手が脇にすぽっと入れられて、コタツから半ば強引に出される。ああ抱きしめられた。と思った直後、犬猫にするみたいに無造作にだっこされる。力の入らない体がふわりと宙に浮く感覚に、安堵してぎゅっと目の前の首に手を回した。もう目が覚めている。だから自分で歩けるのに、歩きたくない。

 

 湿った髪の毛の先から、冷たくなったシズクがおれの額に吸いついた。

 

「久しぶりの甘えん坊だね。最近おまえはどんどんひとりで大きくなっていくから、兄としてはちょっと寂しかった」
「別に」

 

 そんなんじゃない、とつぶやいてぎゅうぎゅうと胸元のシャツで手遊びしているなんて、ちっとも説得力がない。うつむいているせいで見えないけれど、頭上の理人がいじわるく笑っているのがわかる。

 

「そんなに慌てて大きくならなくていいんだよ。喉元まで突っかかって、なにかいいあぐねていることは、どんなことだって僕の前だったらさらけ出してほしいよ」

 

 廊下の光が差し込んだだけのうすぼんやりと暗いおれの部屋で、童話のお姫様にでもするみたいに、理人がおれをベッドに下ろす。軽やかなスプリング。仰向けになったおれの眼前に広がった天井を遮って、見下ろすように体をひねった理人がベッド脇に腰を下ろす。片側が深く沈んだ。

 

「ここ数日、様子が変だね」

 

 ここ、数日。

 

 なんだかひどく困って、上手くこの瞳と目を合わせられないおれのことに、理人は気づいていた。それでも数日は、放っておいてくれたのに、今日の理人はおれを絶対に逃がさないみたい。布団に乗り上げてきておれを見下ろす漆黒の双眸は、深くやさしいのに、――おれを囲い込むようだ。

 

 真剣な話をしようとしたり、叱ろうとしたりするとき、理人は必ずこんな目でおれをふたりの世界に閉じ込めようとする。

 

 廊下から漏れる光のせいでかすかに見える理人の髪の毛が、重力に従って頬に零れ落ちる静かな音以外、なにも聞こえなくなる。

 

 こんなに近くにいる理人に、おれの嘘が見破れないはずないのに。

 

「ああ、雪路。隠しごとをするときの顔だ」
「そんなんじゃない」

 

 意地を張ってしまう。

 

「そんなんじゃ、あるよ。ずっと一緒にいるからわかる」

 

 ずっと一緒にいるから。スルリと当たり前のようにその口から滑り落ちるそのことばに、心の隅で安堵する。昔から、すっきりと素直で淀みない理人のことばは、まるで魔法みたいにおれを落ち着かせてくれる。

 

 理人はほんとうは、ひとりで生きていけるのだ。おれがいなくても。だらしない子どもみたいなおとなを演じているくせに、ほんとうの理人は炊事も洗濯もすべてをこなせる。

 

 だけどなにもできないふりをしておれに居場所を与えてくれる。結局おれは、きょうだいの理人と、ふたりがいい。一緒にいたい、そのために学ぼうとしたところから、理人が身を引いたのだ。

 

 日常に埋もれて麻痺していた気持ちが、あのとき、愛莉ちゃんの提案によって一気に膨らんで、飽和状態になって、受け止めきれなくなった。

 

「理人は」

 

 ぽた、と、理人の髪の毛のシズクが、今度はシーツに落ちる。

 

「理人は、家事、できないよ」
「うん? そうだね。おまえが全部やってくれてる」

 

 あやすような手つきで、理人がおれの髪と頬を同時にまとめて撫でる。

 

「理人は男だけど、今は男でも、家事しなきゃいけないよ。――……結婚したら。だって、今は女性も働きたいんだって、社会の授業で“男女が平等の社会”って習った。だから、男でも家事ができるようにならなきゃ」

 

 ならなきゃ。ひねくれたことばが、口をつく。

 

「結婚、できないよ」

 

 理人が、家事もなにもできない、ほんとうのだめだめ男だったらよかった。
 最後の方はほとんど呟きのように掠れた声に、理人が一瞬だけ括目する。そして、なぜか花が咲くみたいにふんわりと笑った。

 

 なんだ、そんなことかあ。なんて今にも口から零れそうな笑みに、不思議と心臓がきしむような痛みにさいなまれる。おなかを内側から叩くような、鼓動を感じる。そして、いつもなら絶対にないのに、体に緊張が走った。

 

 理人の手の甲が、おれの頬を滑った。

 

「福田さんになにかいわれたね。それでおまえは、また、ひとりで悩んでたんだ」
「う……。別に、そんなに悩んでないよ」
「どうしてそんなにわかりやすい嘘をつくかな」
「……でも、だって、愛莉ちゃん理人と結婚するかもって思ったんだ」
「……」
「愛莉ちゃんのこと、おれ、だいすき。やさしいし、綺麗だし、お料理美味しいよ。でも、愛莉ちゃんが、理人と結婚したら……」

 

 おれはどうなるの?

 

 今までのおれの役割は、みんな愛莉ちゃんにとって代わってしまう。それは、あまりにも心もとなくて、かなしくて、怖い。

 おれの頬をいつくしんでいた手が、背中に回って、突然ひょいっと体を起こされる。体だけこちらを向けた理人が、あやすようにすっぽりとおれを抱き寄せた。シャンプーの残るにおいに包まれて、さっきまで支離滅裂なことばを発しながら、グルグルとパニックになっていた心が、やや静かになっていく。

 

 ――そりゃあ、幼稚園や小学生のときに比べれば、おれの体は成長してきたはずだ。それなのに、未だにおとなである理人の体躯にはほど遠い。骨っぽいしっかりとした体は、小さい頃と同じようにおれを安心させる。さっきまでの変な緊張が、解けていく。

 

「ゆきには、まだ難しいかもしれないけれど。たとえば恋はひとりでするものかもしれないけれど、恋愛にはお互いの気持ちがいるんだよ。もちろん結婚もひとりじゃなくて、ふたりでするものだ」

「そんなの知ってる。両想いは、ひとり。両想いは、ふたりでしょ。ふたりじゃないと、手はつなげない」
「そう。だからいくら福田さんがなにをいっていたって、僕は彼女と恋愛をする予定も、ましてや結婚する予定もないんだよ」

 

 おまえは、変なところで不思議な思考回路になるね。

 おかしそうな笑い声とともに、おれの頭がぐりぐりと理人の鎖骨あたりに押しつけられる。角ばって、いたい手つき。いたいのに、いたいといいたくなかった。いったらきっと、「ああごめん」といって、もっと距離が離れてしまうと思ったから。

 

「ほんとうに?」
「ほんとう」
「愛莉ちゃん美人さんなのに?」
「ひとつの要素だけで恋はできないよ」
「やさしいし、話しやすいし、お料理上手だよ?」
「あまのじゃくだね。そんなにいっていると、僕じゃなかったら結婚を勧めているように聞こえるよ」
「理人がわかるなら、いいの」

 

 これは、ずるい確認だ。それでも理人の意志を聞きたい。理人のことばで聞きたい。

 

 だってたったふたりのきょうだいだから。

 

「おまえは馬鹿だね。――たとえ美人でも性格が素敵でも料理上手でも、それでも、しないよ。結婚しない」

 

 おれはひどい弟だ。ひとのしあわせは、普通にすきなひとと一緒になって、家族をつくることかもしれないのに、理人の家族はおれだけでいいと思っている。

 

 理人とずっと一緒なのは、おれだけでいい。おれだけがいい。包み込んでくれる体に頬を寄せながら、強く思う。

 

 ――ひとりじゃなくてふたりでするもの。

 

 じゃあ理人は、愛莉ちゃんに恋をしていないんだ。心の中にじんわりと広がる温かさ。おれはいやなやつだ、理人を取られないことを知ってひどく安堵する。

 

「ひどいね、そうやってゆきが悩むようなことをいう。結婚なんて、おかしなこと、どうして福田さんは吹き込むんだろうね」

 

 理人の口ぶりはおれをいたわるように、それでいてなにかを探るようだった。首を横に振って、ぴったりとくっついていた体から離れる。幼い頃よりもわずかに近くなった理人の顔を見上げると、いたわるような双眸が揺れている。

 

「それに、結婚したら奥さんのお世話をしなきゃいけないね。今の僕にそれは無理だ」
「理人収入いいじゃん」
「……ひとの通帳を勝手に見ちゃいけません。あとこの際だからいうけど、僕の月収をグーグル先生の検索にかけるのはやめなさい。履歴に残ってたよ」
「……気になったから」
「と、まあこうして、手がかかる弟へのしつけもある」
「子ども扱いしないで!」

 

 むっとそっぽを向くと、「ところがそこが子どもなんだなー」といいながら、無意識の間にほんのりと膨らんでいた頬をつままれた。そのまま緩く引っ張られる。いたい。

 

「おまえで手いっぱい」

 

 楽し気に頬を引っ張りながら、からだを引き寄せられる。突然失うこともあるということを知らされるのは、頬をひっぱたかれるような衝撃で、一瞬もっともっと理人とくっついていたいと思った。

 

 ほんの、一瞬。だけど、それはいびつなカタチだと、心の奥底がやんわりと警笛を鳴らす。

 

 ――きょうだいだから、どうしたってずっと一緒にいられると思っていた。でも、それは間違いだった。恋は、ときどき別のものからなにかを奪ってくるんだ。

 

 理人にすきなひとができたら、それはおれからふたりの時間を取り上げてしまう。こわくて、こわくて、――だったら理人が恋なんてしなければいいと思った。

 

 こんなことを考えているって知ったら、理人は卒倒するかな。弟がこんないやなやつだなんて、普通考えないだろう。

 

(いつか、結婚する)

 

 それは遠い先のことじゃない。そして遠い先に、おれも先生みたいな綺麗なひとと結婚するのだ。先生にはもう相手薬指に指輪をつけたがいるのだから、だれかちがうひとを見つけて。だって、それが普通のしあわせなのだから。

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