君についた幾つかの嘘について。

1話 福田愛莉とのさんにんの日常。

04

 福田さんなんて、他人行儀でいや。愛莉でいいのよ。

 

 といわれたので「愛莉ちゃん」と呼んだら、「いいね。雪路くんにそう呼ばれると、学生のころに戻った気分」と、ネイルがされた綺麗な指先がおれの髪の毛を撫でた。出会った瞬間から、そんなふうに、愛莉ちゃんはいともたやすくおれとの間の距離を縮めてくれた。

 

 外国人のようにクルクルと巻かれた、きれいに染められた茶色い髪の毛。華美すぎず地味すぎない、すっきりとまとまった服装。唇の紅色は、つややかにお化粧された象徴。横浜や東京のひとみたいな愛莉ちゃん。

 

 いつも保健室でのんびりとパソコンを打っている田舎・鎌倉の三橋先生と比べると、ほんとうに華やかな印象だ。だからって、愛莉ちゃんを恋人にしたいわけではない。おれは化粧っ気のない、ジーンズに白衣の先生がいいのだ。こういうところは、そこらへんの都会にあこがれる同級生とは違うんだぞ、と、すこし得意げになってしまう。

 

「今日、いきなりでごめんね。学校終わってから時間あったでしょ」
「大丈夫だよ。こっそり携帯見たから、すぐ気づいた」
「え、そっかあ。今の子でも学校で携帯見ちゃいけないんだあ」
「ぼくの学校、厳しいだから」

 

 この間、制服のプリーツスカートを短くした女の子たちが話しているのを聞いてしまった。
 座敷童でも出てきそうな古い台所も、愛莉ちゃんがエプロンを巻いて立っているといっちょまえに“キッチン”という感じだ。

 

 そんなキッチンっぽい台所に立つ愛莉ちゃんの横顔は、声は楽しげに弾んでいるものの、目線はしっかりと前の鍋に注がれている。愛莉ちゃんはいつも気をつかっておれに手伝ってといってくれるけれど、器用な料理さばきの前にすると、おれの出番は愛莉ちゃんが「これやって」と意図的に作ってくれない限りない。

 

 ぼろい台所に似つかず並べられた食材は難しいことこのうえない。今日も色々あるけれど、過去にあったズッキーニ、ニョッキ、小エビ、ホワイトアスパラ、イベリコ豚、生ハムなどなどは、愛莉ちゃんが家に来てからはじめてうちの食材になった種類だ。食材なのか、ごはんの名前なのか、横文字が多すぎて、なんなのか。

 

 おれのごはんは、どちらかというと主婦のおばさんくさい。あったもので、適当に入れて、適当に味付けして、できあがり。だけど愛莉ちゃんのお料理は、高級なレストランのように洗練されていて、芸術品顔負けの仕上がりになる。なんたって、仕上がった料理にパセリを添えるのだ。パセリ。

 

 愛莉ちゃんは、キッチンの魔法使い。

 

「なあに。気になる子と放課後残ってお話? いいなあ、中学生二年生。青春だなあ、青いなあ」
「ち、違うよ!」
「あ。ちょっと動揺したでしょ。怪しいー」

 

 からかうような口ぶりも、愛莉ちゃんがお話すると、どこか艶やかな色を帯びる。先生とタイプは違うけれど、おとなの女のひとだ。こうしておれをいじめるのに、ちっとも下品にならない。

 

「そ、それよりも、愛莉ちゃん今日もうちきてていいの? 家族、心配しそう」
「あら。私はもうおとなだから、今は一人暮らし。むしろ雪路くんと会える方が、寂しい一人ごはんよりも全然いいよお」
「ん。そっかあ」

「そうそう。……それよりも、理人さんから連絡あったの? まあた忘れてるんじゃない?」

 

 あ。そういえば。愛莉ちゃんの料理を見ているのがすっかり楽しくて、携帯を確認するのを忘れていた。そういうと、台所は見てるからメールチェックしてきていいよと苦笑された。別に理人なんて当たり前のように帰ってくるからいいのに、ぶつくさいったけれど愛莉ちゃんは聞かなかった。

 

 理人の名前を呼ぶとき、愛莉ちゃんの笑顔は一層深くなる。おれのために世話を焼くお姉さんから、何かを期待する甘い眼差しに。

 

 まだだれかの恋の芽吹きなんてものにはイマイチ鈍い、幼いおれにも、それははっきりと分かる。愛莉ちゃんは、理人に恋をしているのかもしれない。

 

「えっと。ごはん、できてる、よ。と」

 

 テンとマルだけの質素なメールを送る。閉じようとした刹那、それまでじっとしていた携帯が急に震えた。

 

「いいタイミングで、ごはんできたねえ」

 

 耳に当てた電話口での開口一番、楽しげないたずらっぽい声と同時に玄関のカギが回る音がした。今度はただいま、の声が電話とすぐ向こう側からでピタリと重なった。とりあえず、なんでこういう無駄な電話をするのかという文句はさておき、電話代を浮かすために携帯を切った。

 

 玄関口へ行くと、靴を脱いだ理人と目が合う。

 

「おかえりひと」
「こらまとめない。ただいま。ごはんできてるの? じゃ、先ごはん食べてからお風呂入るね」
「うん。今日は愛莉ちゃんが作ってくれた」

 

 愛莉ちゃん、その名前を聞いて、理人がああと頷いた。今日はいらしてるんだねえと。
 いつものようにカバンとジャケットを受け取る。……いつものように、それはずっしりと重い。それからおれの頭をポンポンと心地よいリズムで二回撫でた。

 

「今日のごはんはムール貝かな」
「『ばいがい』って愛莉ちゃんがいってたよ。クルクルしてた」
「ゆきだったらアサリかシジミなのにねえ」

 

 むむ。たしかにおれの料理だったらアサリかもしくはシジミである。美味しいと思うんだけどなあ。そう思いながらネクタイを緩めつつ歩く理人を見上げる。……理人だってやっぱり、おうちごはんで手軽に『ばいがい』を食べたいのだろうか。

 

 勉強、しようかなあ。

 今まで理人がなにもいわなかったからごはんも庶民中の庶民料理しか覚えなかったけど(覚えなかったというよりも、あるものをそれっぽく調理することを覚えたというべきか)、養ってもらってるなら愛莉ちゃんみたいに上手くなった方がいいかな。

 

「おかえりなさい、理人さん」
「ああ。いつもゆきがすまないね」

 

 二人の会話を尻目に、ジャケットをかけてカバンを置く。愛莉ちゃんのそばに戻ってお皿の準備をしていると、不意に真上のほうからずっしりとした体重がかかってくる。こんなことする犯人などたかが知れている。首に交差された手から、洗い立ての石鹸のにおいがした。

 

 うん。ちゃんと手洗いうがい、したなあ。すぐサボるから。

 

「いいにおい」
「『ばいがい』?」
「ん、さすがにそこまではわからないかな。まだかかりそうなら、やっぱり先にシャワー行ってきてもいい?」
「んー、いいよ。先食べてるかも」
「はい。おーけーです」

 

 鎌倉のにおいが濃い理人からの“おーけー”は、“OK”でも“オーケー”でもなく、こういうふうに聞こえる。パッと手が離れて、わずかに冷ややかになった空気が隙間から流れ込む。あっという間に理人の影が消えた。

 

「あ、理人のシャワーは自衛隊とか消防士とかそういうレベルだから、お料理は普通に作って大丈夫だよ」
「わかった。じゃあ、盛っちゃおうか」

 

 ぼくが持ってきたお皿に、愛莉ちゃんが綺麗にお料理を渡してくれる。しいていえば、100円ショップか骨董市からかっぱらってきたようなお皿たちがお料理の品格を損なわせている。愛莉ちゃんのお料理は、キッチンの照明を受けてキラキラツヤツヤと輝いている。彩りも格別で、おなかの虫がなってしまいそうだ。

 

 理人なんていいから、早く先に食べよう。

 

「ねえ、雪路くん」
「うん?」

 

 テーブルにお皿を盛り終わって、愛莉ちゃんと向かい合って座る。理人の空席は、おれのとなり。
 ふたりでイタダキマスと手を合わせる。

 

「雪路くんは理人さんと、……お兄さんとふたりきりで暮らしてるんだよね」

「うん? そうだよ。ねえ、愛莉ちゃん、おれ『ばいがい』食べてみてもいい?」
「いいよお。……それってさ、さみしくない? お母さんとか、お姉ちゃんとか、ほしいと思ったことはないのかな?」
「ん……んー……。お母さんは前にいたし、代わりはいらないよ。お姉ちゃんも」『ばいがい』にフォークを伸ばした。「だって理人がいるもん」

 

 うわあ、これがばいがいかあ。はじめて食べたけれど、もにゅもにゅするなあ。高級な味はいまいち僕の舌には合わないみたい、ムール貝のほうが美味しいかも。食べ比べてみよう。

 

「ねえ」

 

 なんだろう。いつも愛莉ちゃんとするのは他愛もない笑い話ばかりなのに、今日はすこし、声がいつもと違う気がする。お料理に夢中になりムール貝に手を伸ばしていたのをやめて、愛莉ちゃんを見上げた。

 

「なあに? 愛莉ちゃん」

 

 ――あの顔だ。

 

 愛莉ちゃんが、いつも理人の後ろ姿を見つめているときの。

 

「雪路くんと理人さんは、兄弟だもんね。……じゃあ、理人さんが結婚しても、それは変わらないってことだよね」

 

 艶っぽく、色めいた、大人の表情。口元は弧を描いているのに、どこか目をそらしたくなるような、女のひとの表情。この表情は苦手で、とっさに視線を下に向けた。

 

 ぼくはお料理上手で、学校のいろんな話を聞いてくれる愛莉ちゃんが好きだ。だけど、この目にはなぜか体が緊張してしまう。

 

 

 ――お兄さんのこと、知りたいの。いい子だから教えてくれないかしら。
 ――あなたのお兄さんね、ひどい男なのよ、聞いてくれるかな。
 ――いい子だから、お兄さんの家に来る女がいるかどうかだけでも、お姉さんに教えて?

 

 

 昔から、よく見ていた。獲物を狩るような、だけどやわらかい何かになだれかかるような目線。それはいつも目の前のおれの先にいる兄を見つめている。そういうときはたいてい兄を遠くに感じた。

 

「だって、もう三十五だもんね、理人さん」
「う、うん」
「結婚しても、理人さんと雪路くんが離れるわけじゃないし、ね」

 

 私ね、理人さんと結婚したいの。今まで理人さんに付きまとってた女みたいに一時的な感情でそういっているわけじゃなくてね、ずっと一緒にいたいの。

 

 愛莉ちゃんのあやすようなことばが続く。――恋の延長上に結婚があるのだろうか。まだ恋のしっぽを掴んだばかりの僕にとって、愛莉ちゃんのことばには不思議なことが多い。だって、理人はもう三十五だからっていうけれど、あんなに子どもなのに、結婚しなければいけないのだろうか。結婚しても理人とおれは兄弟だ。だからいつも通りだ。だけど、そこに別の知らないひとがこれからいることになるのだろうか。

 

 眼前に広がる美しいお料理に箸をつけるのは、とっくに止めていた。愛莉ちゃんも同じように、真剣におれと向き合っているからか、なんだかからだが痺れてしまったように動かない。

 

「そ、それって」

 

 声が、わずかにうわずった。

 

「それって、しなきゃ、いけないの? ずっと、このままはだめ?」

 

 今、愛莉ちゃんはおれと(きっと)理人にとって、しばしば美味しいお料理をふるまってくれる大切な大切なひとだ。結婚はしていないけれど、家族のようなもの。それで、どうしてその先を望むの? このままはだめなの?

 

 愛莉ちゃんが、手を伸ばしてポンポンとおれを撫でてくれた。まるで、家族にするみたいに。

 

「今のままでも、いいよ。だけど、今のままじゃ理人さんはただ仕事に明け暮れるだけになっちゃうよ」
「でも――」
「雪路くんは、すきなひととかいる?」

 

 すきなひと。パッと、先生の微笑みが脳裏をよぎる。だけど、それは一瞬で消えた。はっとしたおれの顔色を悟ってか、愛莉ちゃんがにっこりと笑った。

 

「ひとはね、すきなひとと恋をして結婚して幸せになる人生を求めるものよ。雪路くんにはまだちょっと早くてわからないかもしれないけど、それが普通なんだよ。雪路くんにも、理人さんにも、もちろん私にも、そういう資格があるの。わかるかな」

 

 恋をして、結婚して、幸せになるということ。それはきっと、おれと理人のきょうだいが一緒にいるのと同じくらい、普通のことなのだ。

 

 ぎゅう、と、テーブルの下に隠したこぶしを握りしめた。

 

 どうして混乱しているのか、戸惑っているのか、――こんなにもはっきりと『イヤダ』という気持ちがくすぶるのか、わからない。

 

「やっぱり雪路くんに話してみてから、理人さんにもいいたいなって思ったの。だって雪路くんにとって無関係な話じゃないでしょう? 急な話で、ほんとうにごめんね」

 

 愛莉ちゃんは、ぐるぐるといやな感情に包まれているおれに、こんなにもやさしい。いつの間にか、さっきまで僕をつと捉えていた熱っぽい視線は、いつものあどけないそれに変わっていた。僕を安心させるようにそうしてくれているのがわかって、やさしさい胸が熱くなるのに、ふたりの当たり前がさんにんになることを考えたら、霧がかかるみたいにもやもやするのだ。

 僕は、お客さんである愛莉ちゃんが大好き。両想いなのか、片想いなのかはともかくとして、愛莉ちゃんが理人に恋をしていることを知っている。

 

(だけど)

 

 愛莉ちゃんが結婚を考えているなんて、思いもよらなかった。
 だれかをすきになって、結婚するのが恋の末路なら。

 おれと理人、ふたりの生活がなくなってしまうのなら。

 

 ――それが恋というのなら、おれは恋なんてしたくなかったかもしれない。先生にも、だれにも。

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