君についた幾つかの嘘について。

1話 福田愛莉とのさんにんの日常。

03

 昼休みに先生が教室から出て行ったのを見はからって、みんながやっているようにそっと携帯の電源を入れると、朝にはなかったメールが一通。件名の『今日ひまかな』という文字と最後についたかわいらしい絵文字。愛莉ちゃんだとすぐにわかった。

 

 放課後にいつもの時間、一緒に買い物して帰ろうと。女のひとらしい、カラフルなメールに、テンとマルと飾りにビックリを使ったメールで了解の返事をした。夕食の献立を考える作業が今日のリストから外れた。愛莉ちゃんが家に来てくれる日は、いつもおれと違って華やかな見た目のお料理がさんにんの食卓に並ぶのだ。

 

 愛莉ちゃんとの待ち合わせの時間までには、五時間目が終わってからすこしのゆとりがある。そのゆとりに、おれの心がほのかに踊った。時間が空いたから、ほんのすこしだけだから……だれに責められたわけでもないのに、そう自分に言い訳をして、カバンを片手に職員室のある棟へと向かう。

 

 心配性の理人が買って来た濃いブルーのマフラーの下、おれの口元はきっと、ほころんでいる。

 ホームルームの終了直後だからか、すれ違う先生や職員室を抜けて、奥にある階段を一階まで下りる。そこが、たまにやってくるぼくのだいすきな時間。扉に耳を当てて、話し声の代わりにパソコンの音がすることを確認する。

 

 もう何回もこの扉をくぐっているというのに、おれはいつも、贈り物の包みを開くみたいに緊張してしまう。

 

(ノックは、三回)

 

 パソコンの音が止まったことを確認して、ドアを開く。無機質な白い空間と、ツンとかおる消毒剤。冷えた廊下よりも暖房であったまった保健室に、背を向けた白い天使。

 

 羽が生えている、と錯覚するくらい、先生は真っ白だ。

 

 会えていなかったさみしさと、会えた喜びと、それを凌駕するこのひとを前にしたときの隠れたくなるような気恥ずかしさで、頭の中が一気に絡まってく。

 

 振り返った先生の視線がおれの顔に真っ直ぐに向く。どこか懐かしいようなおとなの綺麗な造形が、次の瞬間にはくしゃっと歪んだ。

 

「やっぱり佐野くんだ」
「ええ。わかったんですか」

 

 声が、いつもよりもうわずって震える。慎ましい声色のそれを聞きながら、急に扉を閉めたときの恰好がへんかどうか気になってくる。さっきも確認した髪も気になるし、制服がきっちりしているかも気になって、そわそわ。

 

「この時間にくるのは、佐野くんかスポーツやってる部活の子だけだもん。ちなみに佐野くん以外は怪我でやってきます」
「う……にぶんのいち」
「佐野くんとスポーツっ子じゃあ、ドアの開け方でわかるんだからいちぶんのいちです」

 

 まるで太陽の当たるひなたみたいな先生の笑い声は、まぎれもなくおれを歓迎してくれていて、やっと心臓が落ち着いてきた。

 

 先生が無邪気にとなりの丸椅子をトントン叩く。接着剤でもついているか、というくらいの不自然さのまま棒立ちになっていたおれは、ようやく魔法がとけたようにそこに腰を下ろした。

 

「スポーツっ子は力強く、ズドン! とくるわけ。でも佐野くんはのんびり」

「男らしくないってことですか?」
「あはは」

 

 先生は正直すぎる。そんなことないよって、慰めてくれたっていいのにそうやって口を開けて笑うだけなんて。
 そりゃあおれは、確かにスポーツは得意ではないし、活動的な方ではない(家と、学校と、デパートを往復する毎日)。そのせいか伸び盛りの中学生だというのに年ごとの身体測定の結果は芳しくない。同級生の男の子のなかには、ぐんと上背が伸びておとなの体になってきている子もいて、うらやましい。

 

 大きな湖を風が揺らすような、ほんのすこしの心の波紋。ざわざわと広がって、膝の上に作っていたこぶしをギュッと握った。先生もやっぱり、大きくてたくましい、強い男のひとがすきなのだろうか。左手の薬指に光っているものは、そういうおとなの男のひとにもらったのだろうか。

 

 今朝顔を洗っている最中に映った自分の冴えない見た目を顧みる。もやしみたいな、女の子を守ってあげるには心もとない体つきと、へにょっとした顔。スポーツをしていないから肌もへんに白い。髪はストレートだけど、逆にセットが難しくてどうしたらいいかわからないから、結局そのままになって全然現代風じゃないしちっともあか抜けないのだ。

 

 どう考えても、おれじゃ先生とすこしもつり合いが取れない。シーソーだったら90度くらい傾いてしまうかもしれない。

 

「おれ、これから頑張る。兄みたいに、たくましい男になるから」
「佐野くんの兄さんはスポーツっ子みたいにたくましいの?」
「んーん。おじさんのたくましさ」

 

 太っているわけではないのにどことなくしっかりした体つきを思い浮かべる。……いや、最近ちょっとおなか周りは微妙なのかな。

 

「……あと十年以上先になるねえ」

 

 小学生の頃、かけ声や走る足の音に紛れるようにして、そっと影に浮いたふたつの影をはじめて見た。おれと同じだった小学生のふたりは、隠れるようにして、つないだ手をとおしてひとつの影だった。

 

 本能的に、それは物語で読んだことのある“恋”だと思った。そして、中学生になったころ、うららかな春の日に先生をひとめ見たとき、おれはそんなむずがゆい感情を、今度は自分のなかに発見した。あのとき見たふたりでひとつのように、先生と手をつないでみたい。

 

 桜かおる春の陽気のように、ポカポカとしあわせな気持ち。それが、先生に対するひそかな恋の成分。

 

 ――佐野雪路くん。きれいななまえだね。

 

 先生はおれが寒そうできらいだと思っていたそれを、裏のない真っ直ぐなことばで褒めた。

 

 ――あら、どうしてきらいだなんて思うの? 四季のなまえが入っているなんて、贅沢よお。私も季節のなまえが入っているの、佐野くんと同じ。

 

 はじめに先生の口からこぼれた“雪路”が、くすぐったかった。だから、次に苗字で呼ばれたとき、どこかショックだった。先生にもう一度なまえを呼ばれたい。そんなことを考えているうちに、冷たい“雪路”のなまえをきらいになることはなくなっていった。

 

「あ。佐野くんはスポーツっ子じゃないけれど、料理男子だから、女の子も放っておかないでしょ」

 

 先生が思い出したようにそういう。

 

「クラスの女子は、おれが料理するってこと知らないし」
「あら、もったいない。料理できる男の子はポイント高いよお。これからどんどん人気が集まっていくに違いない。にょきっと背が伸びて、ね」

 

 何人にすきになってもらったって、告白されたって、先生が振り向いてくれなきゃ意味ないのに。口に出せたら、楽になるだろうか。

 

「女のひとの方が料理はうまいですよ。最近兄とおれのために家に来て料理してくれるひとがいるんですけど、すごい美味しくて」

「あら。そうなの?」
「気がついたら一緒に遊んでくれるようになったんです。兄の友達なんだって。おれよりもすらっと背が高くて、髪の毛がきれいで、いいにおいがするんです」

 

 勢いよくしゃべってしまったのは、先生とする会話が見つかって、浮足立ったからかもしれない。恋に慣れない自分をひしひしと感じながら、これ幸いとばかりに愛莉ちゃんを話の肴にさせてもらう。

 

 愛莉ちゃんがきれいなのも、料理上手なのも、ほんとうのことだし。

 

 先生は終始適度な相槌を打ちながら、おれの話を聞いてくれる。へえ、とか、うん、とか、それで、て。先生は聞き上手だ。

 

「兄に若い女のひとの友達がいるなんて、意外だったんです。なんか、あのひと引きこもりだから交友関係とかなさそうだし。でも、やっぱり……いけめんには美人の友達ができるのかも」

 

「あら。もしかしてやきもち?」

「え! 違います! ずっと年離れてるし、……たしかに愛莉ちゃんは美人だしいいひとだけど、そんな、すきなんて……」
「すごい動揺してる」

「先生いじわるです! 愛莉ちゃんは、友達!」

 

 先生の口元がしずかに弧を描く。それを見ると、おれはいつもなんだかはずかしくなって、同時に、真冬だというのに心が芯からあたたまっていく。

 

 そんな気持ちもつかの間、――いつの間にか自分は、先生ではないおとなの女の人を褒めちぎっていたことに気づいたけれど、先生のほうがきれいかもしれない、なんて歯の浮くようなセリフは出てこなかった。どうしても、恥ずかしくて。

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