君についた幾つかの嘘について。

1話 福田愛莉とのさんにんの日常。

02

 時計台の脇にある小さなトンネルをくぐると、別世界に入り込んだような、いっぱしの観光地だ。古くさく、小ぢんまりとした駅には似つかない、いろんな色をしたひとの多さ。閑散とした住宅街を抜けた駅の西口から東口へくぐるトンネルの向こうは、平日休日かまわずおおよそ鎌倉のにおいがしないひとでにぎわっている。――休日の今日は、とくにすごい光景だ。おれが鎌倉に住んでいなかったら、ここに観光には来たくないくらい。

 

 こじゃれたレンガ造りの駅前で、パシャパシャとカメラの音を鳴らして楽しそうに歩くひとたちの輪を抜けて、スターバックスへ。その真横にあるデパートに入ると、とたんに濃くなる鎌倉のひとのにおい。生活感丸出しのこのデパートを、いろんな色をしたひとたちは見て見ぬふり。寺院と和菓子と古びた景色――“観光地”鎌倉を訪れるひとにとって、コンビニやデパートはいらない。

 

(こんな寒いのに、よくたくさん、いるなあ)

 

 ここは、どんな季節でも知らないひとがうようよと歩いている、不思議な街。デパートと、西口だけが、おれの生活空間。

 

 スーパーの袋をひっさげて元来たトンネルをくぐり、駅から遠ざかると、そこは深緑のすえたにおいが揺れるいわば“住宅地”鎌倉。犬の散歩をするひと、セーラー服のプリーツスカートをひらひらさせて歩くひと、おれのように今日の夕食をビニール袋に突っ込んだひと。

 

 鎌倉時代の寺院ほどではないけれどそれなりに古くさい家とか、四角い図書館とか、そういうものは、それでもやはり、どことなく優美なのだと思う。それはきっと、おれがほんのすこしだけ鎌倉をすきであるから。

 

 図書館の先、細道になった坂を抜けると、季節は冬だというのにまるで五月みたいに濃い葉っぱのにおいがかおる。

 

 その向こうには、鎌倉というプレミアをつけて中古で買ったって結構な貧乏でも住めそうな、古都をひときわほうふつとさせる城。もとい、おれの住処。深いにおいの正体は、家を埋め尽くそうとあたりを覆う草木だ。今は冬だから、背が低く剥げかかっている場所すらある。生きとし生けるものは自然のままに伸び、そして嵐にあったり寿命を終えたりしてはいつの間にかなくなっていく……日本式にその摂理を楽しもうという家主の一言により、庭(ということばすらも適切ではないのだろうか)の手入れは一切されていない。めんどくさいからそれっぽいこと言っただけのくせに。

 

 鎌倉の街は年をとるごとに、それでもやはりすこしずつ変わっていく。町並みは、古い見かけを残したまま知らないところで補強されたりロボットが入ったりして新しくなっていくのだ。

 

 だけど、おれの家は小さなころからずっと古く、使いづらい住処だ(知らないところでロボットが入ってくれて全然構わないというのに)。物心ついた頃から知っていたドア近くの壁のひび割れも、お茶の間に続く障子が開け締めするたびにきしむ音も、ひねると変な音を立てる洗面所の蛇口も、小さなころからずっと。

 

 おれと理人の住処。日々新しく生まれ変わる世界から切り離され取り残されたその世界が、おれにはすこし居心地がいい。

 ふたりで暮らすにはゆったりとした玄関を抜ける。ただいま、とかけた声は返事を待つことなくどこかへ消えた。

 

(また寝てる)

 

 いつもいつもだらだらと眠っているというのに、寝正月が抜けないなんていいながら布団の虫になっているであろう、お荷物なかたまりを思い浮かべる。

 

 靴を脱いで、きれいに揃えられた理人のそれの隣に置く。おれが昨日帰ってきてから揃えたままになっているということは、家の主は今日も外出をせず引きこもっていたらしい。外出してからかえってきていれば、靴はひっくりがえっているはずだから。

 

 脱衣所へ行き、手早くお風呂を沸かす。ついでに手を洗ってから、ビニール袋を持って冷蔵庫へ急いだ。

 

 おれの日常。鎌倉の日陰みたいなところである、学校とデパートと住処の往復。それと、手のかかるおとなのお世話。

 

 世界をよくは知らないけれど、世界にどんなひとがいるのかは、鎌倉のひなたこと“観光地”を見ることが多いので、おのずとわかっている。

 

 部屋は今風にいうと、3LDK(ただしこんな横文字は似合わない3LDKだ)。ひとつは理人の部屋、もうひとつはおれの部屋。あとはお茶の間と台所。そしてもうひとつの部屋といえば使い道がなく、気味が悪いほどにがらんと空いている。おれが掃除をする際にたまに空気を入れ替える以外には足を踏み入れないくらい、無駄にされたそこ。……それでも、気味の悪さでいえば理人の部屋よりはましだ。あの部屋、ほうっておくと変なふうに汚れていくのだ。

 

「理人」

 

 思った通り、引きこもりがいた。こんもりと盛り上がった布団。子どもがおもちゃを投げ捨てるように、あちこちに散らばった本。脱いだまま放っておかれた服。理人の部屋の秩序は、掃除して三日と持たない。

 

 理人の部屋は、本を元の位置に返さなくてもよい図書館のようだ。背の高い本棚には大小古いの新しいのさまざまな本が並べられているが、ところどころに穴が空いていて、パズルのピースみたいな本たちは無造作に床へと散らされている。床が抜けたらすぐにリフォームをしようと意気込んでいるが、相手は手ごわくもかしこくもその重さに耐えている。それに、理人がしょっちゅう使うせいで定位置からズレた布団。薄汚れたカーテン。壁や床には、古くからあるせいかどうしたって取れないシミや傷。しかし端っこに置かれた木造の机の上には、部屋には似つかない、銀色のノートパソコンが本や無数の紙に埋もれているのだ。

 

 散乱した本を元の位置に戻しながら、ゆるく上下するかたまりへと近づく。なまえを呼ぶと、子どもみたいなくぐもった声が返ってきた。ほんとうに、子どもみたいな。

 

「おかえり、ゆき」
「ただいま。おばけごっこしてないで、出てきなよ」

 

 ガサガサという音を立てて、声をたよりにおれの近くにきたそれ。

 

「お昼食べるでしょ。寝てたらウシになるよ」
「ゆき。僕がウシになったらゆきはどうしますか」
「理人のこと焼いて食べる」

 

 それは、たいへんだ。そう言って、また布団がガサガサと動く。隙間から、ひょい、と理人が顔をのぞかせた。かくれんぼが終わったみたいに。理人の行動は、すべてが小さな子どもみたいでへんだ。

 

 だいぶ伸びた髪の毛が顔を覆っているが、その奥の瞳はまっすぐにおれを見ている。やわらかくて温かな布団にいたせいか、ぼやっとした顔。無造作に放っておかれた髪の毛とか、呆けたような表情とかが、理人の見た目をひどくやつしている。

 

「でも、捨てられるよりも、食べられるほうがいいのかなあ」

 

 それでも、とんちんかんなことばを並べるこの男を何秒か凝視してみれば、だれだってひどく整った顔立ちに気づくだろう。目鼻のすっきりとした造形は、髪を整えて、顔を洗って目を覚まさせてさえやれば、呆れるほど柔和でやさしい。

 

「ウシになったらね」
「お昼ごはんなあに?」

 

 ニコニコと無邪気な笑顔なんて、ウシになる気満々な齢三十五のおじさんにされてもちっともうれしくないというのに、理人のこの表情を見るといつも体に力が入らなくなってこちらがふにゃっとしてしまう。

 

「うどん。あったかいやつ」
「いいねえあったかい」
「じゃあ下きて。あと、その布団絶対バイキンいるから干してから来て」
「ええ! せっかくあったまってたのに、干したらピヤピヤになるよ。それに、僕の布団にバイキンなんていません」
「いるよ絶対。そんな布団にいる時間長いんだから。……絶対入りたくない」

 

 じゃ、と背を向けたときだった。いつの間にか外の空気に飛び出してきた生温かい指先が、ふい、と置き去りにされた腕に触れたかと思うと、掴まれて力任せに引っ張られる。急な奇襲に体のバランスが崩れたところを、おそらくバイキンだらけの布団がキャッチする。仰向けにあほらしく転がったおれの上を、いたずらっぽいふたつの目が見下ろした。

 

 布団の下敷きになった理人の骨っぽい脚の感触がする。いつの間にかしっかりと起き上がっていた理人が、くすくすと笑う。

 

「いたずらっこ」
「だって、ゆきがおもしろいくらい素直にひっくり返るから」

 

 バイキンなんていないでしょう。と、理人がおれを掴んでいない、余った方の手で追い打ちをかけるように髪をかきまぜる。整っていたおれのそれは、あっという間に理人のぼさぼさの仲間になった。当の本人は、自分の惨状を棚に上げて、おれのことを髪の毛がぐしゃぐしゃになったと笑う。

 

 冬の空気に触れていた布団は、ひんやりとした雪のようにつめたい。理人のいる布団の中に片手を滑り込ませると、まるでコタツのような温度。

 

「ゆきの手、つめたいね。外に出ていた手だ」
「理人のエサ買いに行ったから」
「ごはんの前にちょっとだけぬくぬくしよう」

 

 おいで、と言いながらぐいぐいぼくの体を布団の中に引きずりこむ。最近またすこしおじさんになった理人の手が、やや強引におれを巣の中に導いた。おれの体は、すっぽりと理人の体温でいっぱいになる。

 

「バイキン……」
「いません」

 

 布団の下にあった理人の足に、ゆたんぽにするみたいに絡みつくと、あったかい理人がヘンな声をあげて逃げ回ろうとする。すかさず捕まえた。外にいたせいで冷たかった僕の足がほくほくと温かくなる。
おれに向かいあうように横になっているせいで襟から覗いた理人の素肌に、ぴたりと手を当てる。また、ヘンな声。

 

「ゆきの手、つめたい」
「今からぬくぬくするから」
「うう、僕の体温がー……」

 

 小さなころ、冬がくるたびにこうしておとなの理人のそばにくると、いつも思っていた。ぼくも、きっと、これくらい背が伸びて、体重が増えて、肩幅が広がって、胸も厚くなるのだと。理人はずるい。いつも普通の距離でいるとひょろっと上背ばかりが伸びているように見えるのに、近くにくると途端に年齢を重ねてしっかりした体躯が垣間見えるのだから。そんな理人をこっそり眺めながら、僕は毎年そんな自分になるのを待っている。それなのにどうしてか、おれと理人の体躯の距離はあまり縮まらず、理人が年を取っていく。

 

 理人は、おれたちのこの住処みたいだ。古くてだらしがなくてどこかやさしいものが、うつろうことなくそこにあると感じる。だけど、ある日不意に見ると、それがすこしずつ変わっていることに気づく。

 

「理人」
「うん」
「太ったね」

「……ほんの、ちょっとだけ」

 

 ふれるおなかが、最近すこしやわらかくなった。
 理人と混じり合った体温が、だんだんと馴染んでいく。ひどく温かい感じはいつの間にかなくなり、あとにはやさしい感じだけになる。

 

 胸元に注視させていた目を不意にあげると、いつからこちらを見ていたのか、理人と目が合う。やや三日月になったやわらかい眼差し。さっきまで、ヘンな声を出して自分から引き入れたくせにぼくから逃げていたのに。

 

 さっきはぐしゃぐしゃしてごめんね、というように、後ろに回された理人の指がおれの髪を梳いた。肩に当たる二の腕は、やっぱり僅かにやわらかい。

 

「なんか、ふたりは久しぶり」
「そうかな。僕とゆきは、ずっとふたりで暮らしているのに」

 

 おれの肌に、髪に、顔に、ふれる手が、どんなにかいつくしみを持っているのか、幼いとおとなの境目に立ちはじめたおれには、あいまいにだけどわかる。

 

「ふたりきりのきょうだいだから?」
「そうだよ」

 

 それが、特別ではないこと。当たり前であること。――家族だから。それも、わかる。

 

「でも、最近愛莉ちゃんが遊びにきてくれるから、さんにんが多いよ」
「確かに、そうかもねえ」

 

 それ以上、理人はなにも言わなかった。

 3LDKの屋敷のように大きな住処を持て余していることは、前から気づいていた。だから理人に、引っ越しをするつもりはないのかと聞いてみたことがある。

 

 僕はここがすきだよ。広くて、日本式で、おまえとふたりで。あと、鎌倉がすきだねえ。

 

 それで、引っ越しの話は終わってしまった。じゃあ、だれかを招待するの、ということばは胸に引っかかって外に出てくれなかった。

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